ちっぽけな聖域

 子供たちの甲高い声がうるさくて目が覚めた。冬はそんなことはないから、暑さで眠りが普段より浅かったんだろう。タンクトップにべたべたはりつく汗が気持ち悪い。

 うう。

 仰向けのままソファの上でうめいていると、何かが飛んできて、顔に載った。手に取ってみると、青いブラジャーだった。

「目が覚めたんなら、買い物行ってきな」

 母の容赦ない声が続けて飛んできた。

「そっちが行ってきてよ、朝まで仕事だったんだから」

「わたしはこれから仕事。たまにはおてんとさん拝んどきなさい。体壊すよ」

「はいはい」

「はいは一回」

「ふわい」

 あくびまじりにブラジャーをつけて立ち上がる。

 眠気覚ましの一服をしに、足元へ転がっていたたばことライターを手にベランダへ向かう。

 植物の壁を構成する立て板を外し、外へ出た。アパートの二階から飛び出たベランダは、前後左右すべて同じ規格でできている。そこから見下ろす景色も全部の部屋からだいたい同じなんだろう。でもベランダには意外と個性が出る。たとえば左隣の部屋はきつすぎる日差しを避けるために、植物で防護壁を張っている。うちもまねをした。右隣の家もまねをした。あれ? 個性なくなってる。

 ベランダの手すりを触ってみた。きょうは雲が多く、太陽の日差しがときどき隠れるので、肌も触れられないほどの熱さにはなっていない。腕を預けて、たばこに火をつける。たっぷり吸いこんでから、ゆっくり吐きだす。煙の向こうに見えるのは、ボール遊びをする子供たちだった。木の棒で境目の作られた陣地の前に男の子が立っている。きょうはサッカーか。

 不意に昨日の客のことを思い出した。

 背を向けて、手すりに寄りかかる。

 時間がたつのは早いもんだなあ。


 短くなったたばこをつまみながら部屋に戻る。机を通り過ぎざま、左手で灰皿へ押しつけ、その隣に置いてあった財布を右手で取る。玄関の脇に置いてあった麦わら買い物籠を左手に持ち、サンダルをつっかけながら財布をしまう。冷たいドアノブをつかんで、重たいにびいろの扉を開く。

 灰色の薄暗い廊下を抜けている途中、子供たちの騒がしい声が廊下へ不思議に反響してきて、心地の良いものに変わった。階段を降り、外に出ると、ちょうどアヤカゼがゴールを決めたところだった。見た目はおしとやかな女の子だけれど我が強く、このあたりの子供たちのリーダーのような存在だ。

「あ、娼婦!」

 アヤカゼが怒鳴ったので、みんながこっちを向いた。

「娼婦のねーちゃんだー」

「淫乱女だー」

 口々に言い始める。

「はい。娼婦のねーちゃんだよー」

 わたしは手を振りながら道路のほうに向かうふりをした。アヤカゼが油断をしたので、すぐに買い物籠を放り出してアヤカゼに向かって走り出した。

 アヤカゼは逃げようとするが、トップスピードに乗る前に捕まえた。

 わたしはアヤカゼを組み伏せて、体中を死ぬほどくすぐりまわしてやった。

「うはははは! や、やめっ、ふふふふふごめっ、やめ、ごめんってば! ふふふふふ! ごほっ、ごほっ、きゃあああああ、きゃああああああ」

 この蒸し暑さでやりすぎるとまずそうなので、いつもより優しめで勘弁してやった。

 荒い息を吐くアヤカゼの両脇に手を突っ込んだまま、

「おはようございます、ミマリさん」

 と言うと、

「おはようございます、ミマリさん!」

「おはようございますミマリさん」

「ミマリちゃんおはよー」

「おはよーミマリン」

 ほかの子供たちも自由に挨拶し始めた。

「わかればよし」

 アヤカゼを抱き上げて、地面に立たせてやる。

 頭をなでてから、放り出していた買い物籠を拾って、歩き始める。

 後ろ背に、

「サッカーやろうよー!」

 とアヤカゼが声をかけてきたので、

「買い物終わったらね!」

 背を向けたまま答えた。


 無駄に広い。無駄に長い。

 この道路を通るたび、そう思う。

 生活用品が売っている商店までは三キロぐらいある。アパートの近くにはレンタカー屋があるから、いつもはそこで借りるのだけど、今日は何となく予感があって、やめておいた。

 その予感は見事に当たり、少し歩いたところにぼろぼろの白い2シーターが止まっていた。のぞき込むと、男が、左の座席を倒して寝ている。昨日と同じ、怪しげな髪形をしたポピュラー音楽家の写真入り白Tシャツに、やたらぴしっとしわの伸びた黒いジーンズ。わたしは助手席のドアを開いた。運転手は驚いて跳ね起きた。

「エノー商店」

 と告げると、スラギは目をこすりながら、

「はい」

 とだけ言った。

 エンジンを切っていた蒸し暑い車中で、ドアに肘を置いて寄りかかる。

「待ち伏せ?」

 と呟くと、スラギは

「や……まあ、そうっす」

 何やら甲高い嫌な音と共にエンジンがかかり、車体ががたがた揺れ始める。

 わたしのほうをちらっと見たスラギは、スイッチを押して両方の窓を全開にしながら、

「こんな早く通りかかるとは思いませんでしたけど」

「母さんに言われて買い物」

 買い物籠をぽんぽんと叩いた。

 それにうなずいたスラギは見るからに緊張していて、ハンドルを握る手がかすかに震えている。

 その震えをもう少し強くしてやりたくなって、

「昨日のこと」

 とまた呟く。

 ただそれだけの言葉なのに、スラギは大きく身じろぎした。

「別にあれ、スラギだからしてあげたわけじゃないんだよ。そういう商売なの」

「わ、わかってますよ! そのくらい!」

 スラギが急に怒鳴った。

 だからさあ、こういうこと、やめたほうがいいよ。

 続けようとした言葉が出口を失った。

 なんだか勘違いしていそうだから、説得して、きっちり線引きをさせようと思った。長い間のその思いに、ほだされてしまいそうになる自分がいるから。

 ――やっぱり、失敗だったかな、乗ったの。

 ただ道路が延々と伸びているだけなので、会話のきっかけはどこにも転がっていない。スラギが怒鳴った後はひたすら沈黙が続いた。エノー商店の、線も何も引かれていない駐車場につくまでずっと。

 わたしが買い物をして戻ってきても、それは同じだった。

 スラギは車を出し、わたしのアパートのあるほうへ、ハンドルを切った。


 けれど半分ほど走ったところで、スラギは誰も歩いていない、だだっ広い歩道に、車を寄せた。そのことに驚きはなかった。このまま話さずにいくとは、思っていなかった。

 わたしが助手席から降りると、わたしがそのまま帰ってしまうと思ったのだろう、慌ててスラギも降りた。

 わたしは助手席側の車体に寄りかかった。

 歩道の向こうには、だだっ広い黄褐色の平地があるだけで、人の気配はどこにもない。

 女のつける仕事のない町。

 道路だけやけに整備された、終わりかけの町。

 ……アヤカゼくらいはせめて、どうにか外へ逃がしてやりたいけど。

「すみません」

 正面に回ってきて、ぽつりとスラギが言った。

「やっぱり迷惑ですよね、こういうの」

 わたしは何も答えなかった。

 どう答えたらいいのか、自分でもよくわからなかった。

 近しい知り合いを相手にするなんてこと、この仕事をしだしてから、初めてのことだったから。

「ミマリさんにとっては、大勢いるうちの一人だって、わかってるんです。わかってるんですけど、僕、本当に昔っからミマリさんだけしか見えてなくて……」

 初めてスラギに会ったのは、まだわたしが学校に通っていたころ。スラギが六歳のときだった。

 スラギはそのとき、この地区に引っ越してきたばかりで、仲間の輪に入れず一人でじっとしていた。今日みたいにアパートの前でサッカーをする子供たちを、眺めていた。そこへ声をかけたのがわたしで、余計なお世話かと思ったけど、サッカーに入れてもらえるように言ってあげた。

 そのときわたしに惚れた、らしい。

 たしかにそのあとも、何かと言えばミマリさん、ミマリさんだった。買い物に行くときはほとんど必ず、くっついて来ていた。

 それが嫌じゃなかった。わたしも、スラギのおかげで楽しい思いをずいぶんした。

 でも、と思う。十年もそんな思いを持ち続けられるものなのだろうか。

 思春期に入って体が大きくなって、あっと言う間にわたしの身長を追い越してから、スラギとは距離ができた。お互い、意識的に距離を置いた。けれどやっぱり、身近に「そんな女」がいたら、工事現場で溜めた金を使って、試してみたくもなるかもしれない。

 だから来たのだろう、昨日。

 店に近所の男が来たら、どんなに金を積まれたとしても、わたしは客の担当を代えてもらう。トラブルのもとになるからだ。必ずIDを確認して、住所を確認して、住処があの周辺じゃないことを確かめる。うちはどちらかというと隙間狙いの「全身マッサージ」店で、口を使った行為や挿入行為は禁じられている。加えてオーナーもいろいろ手を回してくれているから、他の店に勤めるよりは段違いに安全だ。それでも、トラブルの火種は少ないほうがいい。

 スラギのことも、断るはずだった。

 でも、流された。スラギのあの言葉に。

 わたしは買い物籠をこつこつと指で叩きながら、

「最初からこんなのに言い寄ってないで、別の子見つけなよ」

「無理です」

 始めたばかりのころに一度、引っかかった。

 ときどき、店のサービスだけでは満足できなくなった連中が、「こういうこと」を仕掛けてくる。金を払わずに、何度でも自由に、気持ちよくなるために。本命までのつなぎ。無料で受けられる、最高に気持ちのいいサービス。

 そこにわたしの意思は関係ない。

 「そういう女」だから落としやすいだろうと思って仕掛けてくる。

 ふざけんな、クソ野郎。

 仕掛けられたとき、そう叫びそうになるのをこらえて、わたしはこう言う。

「スラギならもっといい人が見つかるよ」

 騙されたくない。

 簡単に見られたくない。

 この気持ちだけは、踏みにじられたくない。

 ここが、この小さな世界だけが、わたしが自由でいられる、最後の聖域だから。

 スラギはわたしのほうをじっと見る。わたしはその目を見つめ返す。

 どのくらい見つめ合っていただろうか。

「時間を、もらえませんか」

「え?」

「ミマリさんがこれまでどんな恋愛をしてきたのか、わからないです。僕なんて、ぜんぜん、社会のことなんてわかってない、ただのガキで……。でも、」

 ガキだけど、とスラギは力強く言葉を切った。

「この気持ちは、本当に本当なんです。もう、店にはいきません。そもそも行ったのが間違いでした。行かないだけではまだ、信用できないと思うので、あの、だから、その……僕に時間をください!」

「くくっ」

 あまりの真剣さに、思わず、笑ってしまった。

 わたしをだまそうとしているとしたら、おもしろい。そこまでして、ただでやれる相手がほしいのか。

 わたしをだまそうとしていないなら、なおさらおもしろい。

 目をそらした。

「本気?」

 日に焼けた細い腕にぼんやり視線をやったまま、たずねる。

「はい」

「それなら、店には来てよ。スラギの相手をしてない時間は、別の男のとこにいるんだよ、わたし」

「え、いや、ミマリさんの体が目当てじゃないっていうことを、証明、したくて……」

「昨日はあーんなによがってたくせに?」

 笑いながら言ってスラギの目を見る。今度はスラギが目をそらした。スラギの耳が、じわりと赤くなっていく。

 ――まあ、そこまで惜しい人生じゃないし。

 たまにはいいか、こんなのも。




(2017/6/17)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます