てえへん

  大変てえへんでさぁ

  は?


 ミケが急に下町言葉をはさんできたので、とうとう言葉選びまでおかしくなったかと同情しかけた。

 いまのミケがひたっている状況以上に大変なことなんて、そうそうあるとは思えないが。

 まったく伝わっていないことに気づいたらしい。ひとまたぎで渡れる小川をはさんだ向こう側、寝転がって残暑の日差しを受けていたミケは、体を起こした。俺はミケが何か言葉を足すまで、突っ立ったまま何の反応もしなかった。苛立たしげにもう一度言い直す。


  だから、大変てえへんでさぁ!

  何が大変てえへんなんだよ


 小さな声で言って、ああ。と気づく。

 底辺てえへんと言ったのだ。

 ミケはイントネーションが少しおかしいから、変な風に聞こえた。それともこの間読んだ時代物の小説の影響だろうか。

 ミケが話を続けた。


  底辺で……底辺って呼ばれるとこでもぞもぞ生きてるからなんだろーけど、この言葉になんか違和感があるんだよね

  何が

  底辺とか下層とか、下にあるものが悪いみたいじゃん

  悪いんじゃねえの、知らねーけど

  ニュートンを知らんのかね、ワトソン君

  しょーもないのはいいから

  しょーもないとはなんだ! わたしたちは重力で下に下に引っ張られてるから立ってるわけでしょ 重力がなかったら宇宙に希望のテイクオフだよ 三角形だって底辺なかったらただの棒でしょ 何あの形、昔っから嫌いなんだよねあの変な尖り

  底辺も社会に必要ですって言いたいわけか

  綺麗ごと言うねえ

  お前が言ったんだよ

  わたしが言いたいのは、下層も底辺も、ただの想像上の言葉遊びだってこと そんな言葉遊びに付き合ってやる義理はないと思うわけですよ

  またなんか言われたのか

  言われたっていうか、自分から卑下してたやつがいたんだよ 周りから言われるのは気にならないんだけどね わたしみたいなのを見下すことが、退廃を抑制するための圧力装置として必要なのはわたしでもわかるよ、さすがに でもさあ、底辺って言われているからって、自分たちの意識までそっちに擦り寄らせていくのはよくわかんないんだよねえ わたしこんな仕事でもけっこう毎日楽しくやってるしさ それを否定されたみたいでなんかね

  この仕事が楽しいのはお前がネクロフィリアだからだろ

  失礼な 女だから犯せませんよ

  似たようなもんだろそれも


 ミケが寝転がっていた場所のすぐ隣には、死後一日ほど経った死体が転がっている。ミケは死体が美しい人間だった場合、死体回収の前に、必ず裸に剥く。そして寝転がらせて、キスしたり愛撫したり自分の身体をこすりつけたりして思う存分に楽しむ。今回も、意思をとうに無くした血まみれの美女の死体を使って性欲を満たしていた。途中で腕が取れたがその無残な有様すら欲情の対象にしていた。


  底辺とか言ったやつのこと、殺してねえだろうな

  え 殺してないよ 顔が好みじゃなかった

  好みだったら殺してたのかよ


 ミケは罪のない無邪気な微笑みを見せて、俺に背を向け、美女の死体のお腹にまたがった。それからいつもの習慣――額へのキス――をして立ち上がり、無造作に地面に放り出していたパンツを拾って、眺め出す。汚れがひどかったのか、もう一度地面へ放る。そして美女の死体を抱き上げ、風にスカートを翻しながら小川を渡ってくる。

 俺は俺の背よりも低い小さな土手を上り、停めていた死体回収車に寄りかかった。


  うーん

  どしたの

  たしかにお前見てるとどうでもよくなるわ 底辺かどうかとか

  あはは シロと同じ意見でうれしい


 ミケの身体に幾筋も滴る汗と上気した頬、そして死体の放つ腐臭にうんざりしながら、運転席に乗った。

 エンジンをかけて、蒸し暑い車内の熱を逃がすように助手席と運転席の窓を開け、怒鳴った。


  なるべく急げよ 日が沈んじまうぞ

  了解


 嬉しそうに返事をしたあと、ミケは死体を後ろの荷台に放り込む作業を素早く終え、助手席に乗り込んできた。

 俺がたばこの箱に手を伸ばすのに気づいたミケが、同時にライターに手を伸ばす。一本取り出して口にくわえると、血と性愛のにおいが入り混じった手が近づいてきて、たばこの先に火がともる。ひどいにおいにえずきかけた俺を見てミケが笑う。俺はくわえたばこで何も言わないまま、車を出した。

 少しして、ミケが唐突に


  シロは好みじゃないけど、いつも良くしてくれるから、死んだら特別に愛してあげるね


 思わずミケのほうを見る。顔にはどす黒い血液がべったりと張りついていて、満面の笑みが浮かんでいた。そして彼女は、手の甲に残った血のあとを満足げにぺろぺろ舐めだした。

 鳥肌が立った。おぞましさに、じゃない。

 いま感じたものをそのまま口にはできなかった。

 代わりにまだ吸い始めたばかりのたばこを右手でつまみ、窓の外に放り捨てた。




(2016/6/12)

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