030 心が語る言葉

「イルスが…戻り始めました」

 隣にいたシェル・マイオスが、ふと何かに呼ばれるように顔をあげた。目を閉じたまま馬首をめぐらし、耳をすますような仕草をするシェルを、スィグルは横目で盗み見た。

 ずっと集中しつづけていたせいか、シェルの顔には、疲労の気配が感じられる。束ねていない金髪が、いく筋も汗で頬に張り付いており、かすかに肩で息をつくのが、いかにも虚弱そうに見えた。

 森の連中が使う感応力というものが、どういったものなのか、スィグルには見当がつかなかった。魔法を使うのも、それなりに気が張り、疲労するものだが、それと同じようなものなのかもしれない。

「ライラル殿下に知らせたほうが、いいですよね?」

 シェルが目を開き、機嫌をうかがうような顔で、スィグルに話しかけてきた。消え入りそうな小声の中に、シェルが、なんとかして自分の心を掴もうとしているのが感じられ、スィグルは不愉快になった。

「さっさとしてくれ。僕はもう飽きた」

 早口に応え、スィグルは手綱を操って、シェルのそばから馬を離した。

 どんよりとした疲労感が、体中の関節から感じられる。あと半時もこの調子で続けていると、スィグルの魔法も底をつきそうだった。そろそろ決着がつきそうだというのは、スィグルにとっても朗報だったが、シェルの口からそれを聞いて、素直に喜んだ素振りを見せる気にはなれない。

 前線に目をやると、敵方の騎馬兵たちが撤退しはじめていた。その場に残るのは、味方の騎兵だけだ。馬上槍(ランス)を打ち合わせて戦う者の姿は、もうなかった。

 味方の騎兵達は疲れよりも強い昂揚感に浮き足立っているようだった。戦線を後にする敵軍の背中でも眺めているのか、生き残りの騎馬兵たちも、指揮官であるシュレーも、こちらに戻ってくる気配がない。

「じゃあ……ライラル殿下に知らせます」

「感応力か? 直接行けよ…どうせ、もう、敵はいないんだ」

 スィグルが鋭く言うと、シェルは怯えたような視線をこちらに向けた。大きな緑の目が、ちらちらと臆病そうにこちらを見つめている。

「でも、ライラル殿下は感応力を使っていいって…」

 シェルは言いよどんで唇を噛んだ。ふん、とスィグルは笑った。

「お前、前線に行くのが怖いんだろ」

「…そうです。一緒に行ってくれませんか」

 シェルに頼られているのを感じて、スィグルは喩えようも無く不愉快になった。ほんのしばらくの間、ここで一緒に戦ったというだけで、恥ずかしげもなく懐いてくるとは。

 そうやって、すがりつくような目で見られるのが、スィグルは大嫌いだった。タンジールに残してきた、双子の弟のことを思い出す。いつもいつもスィグルを頼ってばかりで、自分でなにかをしようという気がないのだ。

 だが、そういう弟の面倒をみてやることが、スィグルは嫌いではなかった。弟のスフィルが自分の影に隠れていくのを、内心、心地よく思っていたのだ。だからいつも、頼られれば頼られるだけ気分が良かった。

 しかし、その挙句があれだ。

 弟は、何もかもスィグルに押し付けて、自分だけあっさりと苦痛から逃げ出していった。この森エルフも、スフィルと同じ目をしている。他人を頼ることで、自分を襲う責任を、なにもかも押し付けようとする者の目つきだ。

「臆病者(オルドラン)」

 シェルから目をそむけ、前線をみつめたまま、スィグルはつぶやいた。公用語ではなく、森エルフの言葉だった。

「え…?」

 シェルがぽかんとする。それもそうだろう。スィグルが森エルフの言葉で喋るなんて、想像もしなかったにちがいない。

「森エルフ語が、わかるんですか?」

 シェルの声が、わずかに弾んでいた。

「猊下に伝えるんだったら、さっさとしろよ、うすのろ(アイェテ)、愚図(プランバ)、能なし(ウフェリトゥ)」

「…発音いいんですね」

 複雑そうなシェルの声が、穏やかに聞こえてくる。

「何度も聞いたからな」

 スィグルが手短に答えると、シェルはその意味を察したようだった。スィグルが知っている森エルフ語は、ほとんどが罵詈雑言を吐くための言葉ばかりだ。

 あちこちから浴びせられる罵声。虜囚のころ、その言葉の意味を理解するようになるに連れ、スフィルが、耐えられないといって泣いてばかりいた侮辱の声だ。優雅な砂漠の宮廷で、誉め言葉しか聞かされたことがなかったスフィルにとっては、そうやって貶(おとし)められる事そのものも、耐え難い苦痛だったのだろう。

 それは、もちろん、自分にとっても同じことだった。そうでなければならないはずだ。誇り高きアンフィバロウ家の末裔、「砂漠の黒い悪魔」として、敵兵を震えあがらせる、勇猛で気高い族長の息子が、あんな侮辱を受け入れていいはずがない。

 だが、あの時、スィグルは悔しいとは思えなかった。生きていられれば、それで良かった。体と心の両方に感じる苦痛のために、声を殺して泣いている弟を見ながら、スィグルはいつも呆然と考えていた。今日も生きていられた、と。頭に浮かぶのはそれだけだった。

 今日も殺さないでいてくれた。だが、明日には命をとられるかもしれない。黙って服従していれば、命を助けてくれるというなら、それで構わないと思っていた。ただひたすら、死ぬのが怖かったのだ。名誉や自尊心などというものより、今日、明日一日の命が欲しかった。

 誇りある部族の血統を、侮辱によって汚されるなと、族長である父リューズは常々皆に命じていた。スィグルの気位の高さを、王族に相応しい気品だと、いつも褒めちぎってくれた。

 その心に叛いたことを、父は一言も咎めない。だが、父の横に立って、正気を失った母や弟の日々の狂態を目にするたびに、スィグルは臓腑が焼け落ちそうな恥を感じた。死んだほうがましだったのだ。生きて戻ったところで、誇り高い父の顔に、拭い去りがたい恥の汚辱を塗りつけるだけだ。

 生きて帰って来てはいけなかった。口には出さなくても、父もそう思っているはずだ。なんと恥知らずな痴れ物が、おめおめ生きて戻ってきたものかと。

 それでもまだ、自分は、死ぬのを怖れている。人質としてタンジールを去る自分を、父が惜しんでくれたことで、自尊心を満たした。臆病者(オルドラン)なのは、どちらの方だ。

 スィグルはシェルの顔を見つめた。

「僕はお前と馴れ合ったりしない。今日は力を借りたかもしれないが、これは猊下への貸しだ。そうでもなきゃ、お前みたいな屑と力を合わせることなんて無い。お前と僕とは、敵どうしだ。おぼえとけ!」

 シェルは、おどおどした仕草ではあるが、それでも真っ直ぐにスィグルの顔を見つめ返してくる。

「……いやです」

 シェルは無理やり搾り出したような声で答えた。どう答えるか迷った挙句に、なんとか掴み取った言葉のように聞こえた。

 スィグルはしばし、呆気にとられた。なんと言い返していいか見当もつかない。

 それきりシェルは押し黙っていた。おそらく、感応力を働かせて、シュレーにイルスの帰還を伝えているせいだろう。妙なやつだった。腹が立たないのだろうか。

 スィグルはため息をつき、前線に出たままのシュレーを見遣った。

 兜を飾る白羽を、返り血で真っ赤に染めたシュレーは、遠目にもいくらか疲れた様子で、峰を下って敗走していく敵軍を見送っている。さしずめ、シュレーは自分の勝利の予感にでも酔っているのだろう。何とはなしに、腹の立つ話だ。

 しかし、圧倒的な不利から、ここまで勝機を呼びこんだシュレーの才覚と度胸には、正直言って、スィグルは感心していた。わざわざそれを口に出して言って、いい気にさせてやる気は毛頭無いが、シュレーが単なる神官崩れの我が侭なお坊ちゃんではないと、認めてやってもいい。

 シェルからの知らせを受け取ったのか、シュレーは軽く手をあげて、味方の兵たちに撤退の合図を出した。よほど疲れているのか、動きに精彩がない。あんな甲冑をつけて走り回ったら、誰しも疲れるに決まっているが、他の兵達はまだまだ活力がありそうだ。シュレーは意外と虚弱なのだなとスィグルは気味がよかった。

「こちらも陣まで撤退して、イルスが戻ってくるのを待つそうです。敵が態勢をたてなおして、もう一度押し寄せてくるかもしれないですから、早めに移動しないと…」

 シェルがシュレーの言葉を伝えてきた。スィグルは眉をひそめた。

「もう勝ったようなもんじゃないか」

 意気揚揚と陣に戻って行く味方の兵たちとすれ違いながら、スィグルはシュレーの用心深さにあきれた。イルスが首級をもって戻れば、あとはそれをシュレーが、講義が始まった場所、例の勝利将軍の軍旗をかかげるという場所まで持っていけばいいだけだ。白羽の軍旗があの柱にはためくことになるとは、誰も想像していなかっただろう。

 陣に戻り始める前に、スィグルはなにげなく峰のあたりにいるシュレーを振りかえった。味方の兵があらかた引き上げてしまったというのに、シュレーはなぜか、一向に動く気配もなく、その場に馬を留めさせていた。

 大した余裕だ。なぜ、ああも尊大でいられるのか。どんな侮辱にも汚されることがないと、確信でもしているかのような、あの自信。

 スィグルには、シュレー・ライラルが、自分とはまるで別の世界にいる者のように見えた。はるかな高みから、同情の目で見下ろされているような気がする。神殿種の血を引くシュレーには、スィグルが味わっている苦痛など、ほんのちっぽけで取るに足らないものに見えるのかもしれない。

 不意に、シェルが2、3度むせた。それに気をとられて、スィグルは何気なく視線を向けた。すると、森エルフのただでさえ白い顔が、ぎょっとするほど青ざめていた。

 突然、片手で口元を覆って、もう片方の手で胃のあたりを抑えると、シェルは激しく咳き込んで馬の背に倒れた。暴れ出すシェルの馬をなだめるため、スィグルはとっさにシェルの手から落ちた手綱を掬い取った。

「おい…しっかりしろ! 落馬するぞ!?」

 咳で体を震わせているシェルに呼びかけて、スィグルは暴れる馬を鎮めようとした。しかし、いくら宥めすかしても、シェルの馬は一向に落ち付く気配を見せなかった。今にも騎手を振り落とすのではないかというほど足を踏み鳴らす馬は、驚いているというより、何かに苦しんでいるように見えた。

「どうしたんだよ急に……お前…どこか悪いのか?」

 スィグルが怖気づきながら言うと、シェルはがばっと顔をあげた。スィグルは思わず手綱を放り出して体を退いた。

「これは僕のじゃあまりません……た…大変です!」

 引きつった声で、シェルが言った。

「レイラス殿下、手伝ってください!」

 自分の手綱を拾って、シェルは急に生きかえったように、力強く言った。暴れていた馬は、シェルが首筋を軽く撫でただけで、嘘のように大人しくなり、シュレーがいる森の終わりのあたりに馬首を向けた。

 スィグルが訳を尋ねるより早く、シェルに見つめられたスィグルの乗り馬は、声高くいななき、走り出したシェルの馬の後を追った。振り落とされそうになり、スィグルはあわてて姿勢を低くした。馬は何かに追いたてられるような早さで、シュレーを目指して走っていた。

 すれ違う味方の騎兵たちが、あっけにとられたように自分たちを見送るのを、スィグル自身もわけがわからないままに眺めるほかはなかった。妙な力を使って、シェルはスィグルの馬を引き連れ、シュレーのところまで行きたいらしい。抵抗しようにも、馬はまるでいう事をきかなかった。手綱を引いても、馬脚をゆるめるどころか、ますます加速していく始末だ。

 シェルは一気に戦場をかけぬけ、騎馬隊の先頭にいたシュレーのところまで辿りついた。少し遅れたスィグルの馬からは、まだいくらか距離があった。スィグルが駈け付ける前に、シェルが迷わずシュレーの甲冑の喉当てを掴むのが見えた。

「ライラル殿下、しっかりしてください! 目を覚まして!」

 大声でシュレーに呼びかけ、シェルは掴んだ甲冑を引き戻そうと必死になっている様子だった。それを見て、スィグルはシュレーの首が座っていないのに気づいた。甲冑に覆われた姿では判然としないが、シュレーは、意識がないらしかった。

 倒れかかるシュレーの体を、スィグルは間一髪で馬を横付けして支えた。甲冑を着た体は重かった。意識のある者がふざけてもたれ掛かるような重みではない。シュレーを挟んだ向こう側で、シェルが思いつめた顔をしているのが見える。

「なんだよ、これ? 馬上槍(ランス)でやられてたのか? そんなの見なかったぞ?」

 スィグルは混乱して喚きながら、なんとかシュレーの体を押し戻した。シュレーの体は、甲冑を支えに、うつむいた姿勢で安定した。スィグルがシュレーの顔を見ようと、兜の面覆いを上げようとすると、うなだれた兜の中から、ぼたぼたと鮮血があふれ出た。

「うわ…っ!? なんで…中まで血が?」

 スィグルは思わず手を退いた。かたんと微かな音をたてて、シュレーの面覆いが降りた。

「血を吐いたんですよっ!」

 眉を寄せて、シェルはまるで自分が吐血したような青ざめた顔をした。

「いつ!?」

「いま…今です……わからない! もっと前からこうだったのかも……」

 叫んだシェルの目から、涙が溢れ出すのを、スィグルは唖然と見守った。何が起こっているのか、わけがわからない。ふとスィグルが自分の手を見ると、赤黒い山羊の血に混ざって、鮮やかな赤い血がべったりとついていた。一瞬、混乱のあまり、くらりと意識が漂った。

 ちがう、とスィグルは自分に言い聞かせた。これは自分がやったのではない。自分が殺した者の血ではない。

「ど…どうしましょう。どうしたらいいですか?」

 うろたえた声で、シェルが独り言のようにつぶやき、スィグルの顔の上で視線をさまよわせた。

「知るか、そんなこと!!」

 スィグルはとっさに怒鳴っていた。シェルがビクッと肩をふるわせる。

「でも、でも…早くなんとかしないと…ライラル殿下が死んでしまいます!」

 シュレーの馬の手綱を取り、シェルが涙声でわめいた。

「まだ……生きてるのか?」

「生きてます!」

 何かを振り切るように大声を出して、シェルが涙をぬぐった。

「とにかく…陣へ戻りましょう。レイラス殿下、伴走してください。ライラル殿下が落馬したら困ります」

 すがりつくようなシェルの目に見つめられて、スィグルは返す言葉を思い付かなかった。馬首を巡らせて、スィグルはシュレーの馬と自分の馬を並ばせた。手綱を握る自分の手が震えているのに気づいたが、それが何のためであるのか、スィグルには分からなかった。

 シェルがまた感応力を使ったのか、馬は意外な早さで走り出した。手綱を握らなくても、三頭はぴっりたと足並みを揃えていた。ぐらりと揺れるシュレーの体を、シェルが苦労して支えていた。スィグルは一瞬ためらってから、シュレーの甲冑の肩当てを掴み、傾いた体を、自分のほうに引き戻した。シュレーの胸当てにつけられた素焼きの壷は、まだ割れていなかった。

「せっかく勝てそうだったのに、結局、負け犬か、猊下……」

 スィグルは、独り言のようなつもりで言った。

「勝ち負けなんて……どうでもいいです! どうして、こんな時に、そんなこと言うんですか。心配じゃないんですか!? みんなどうかしてる…あなたも、ライラル殿下も、オルファン殿下も、みんな、みんな、どうかしてますよッ!!」

 きっぱりした声で、シェルが言った。そう大きな声ではなかったが、蹄の音にかき消されることもなく、まっすぐにスィグルの耳に届いた。制服の袖で涙をぬぐい、シェルが自分を奮い立たせるように首を振るのを、スィグルは複雑な気分で見守った。

 馬を走らせながら、シェルは不器用そうな手つきで、手間取りながらシュレーの手甲を外した。そして、その下の革の手袋を抜き取ると、シェルは、年のわりには大きいシュレーの手をしっかりと握った。

「ライラル殿下、しっかりしてください。僕の声が聞こえますか?」

 相手が聞いているのを確信しているような声で、シェルはシュレーに話しかけた。半眼になり、わずかにうつむくシェルの顔は、青ざめているが真剣そのものだった。

 面覆いの空気穴から透けるシュレーの横顔は、かすかに口を開いていたが、何か答える気配はなかった。スィグルには、シュレーが死んでいるように見えた。シェルが言うように、今はまだ生きていたとしても、どうせすぐに死体に変わりそうだ。

 面覆いの下から、いく筋も血が滴り落ちはじめている。兜の中であふれた血が、甲冑を伝って流れ落ちているのだ。その量からしても、シュレーがかなりの量の血を吐いたらしいことは、容易に想像がついた。まるで、この模擬戦闘で、シュレーが一生分の幸運を使い果たしたように思え、スィグルはいやな気分になった。

「……どうして、どうしてこんな事に…? ライラル殿下、元気だったのに……」

 シェルの目から、次々と涙がこぼれおちていくのを、スィグルは不思議に落ち付いた気分で眺めた。

「毒だ、きっと…」

 スィグルが呟くと、シェルがゆっくりとこちらを見た。

「………猊下、あんた、生きてるより死んだほうが、誰かの役に立つらしいね」

 スィグルはかすかな声で囁きかけた。

「いっそ死んでやったら…? そのほうがラクだと思うよ」

 スィグルには、面覆いの中で、シュレーが薄笑いしたように見えた。



  * * * * * *



 天幕に横たえたシュレーから、シェルが手間取りながら兜を外すと、むせかえるような鮮血の臭いが溢れ出した。シェルが抑え切れずに悲鳴をあげるのを聞きながら、スィグルは正視できずに、とっさにその光景から眼をそむけた。

 鼻の奥に残る血の臭いは、スィグルに森の地下の暗闇を思い出させた。吐き気と目眩が急激に襲ってくる。スィグルは机に手をついて目を閉じた。自分の喉がかすかに痙攣するのを理性で抑えこみ、スィグルは肩で息をついた。

「ライラル殿下、目を開けてください、しっかりして!」

 シュレーに訴えかけるシェルの声は、ひどく切羽詰っていた。

「ライラル殿下!」

 シェルが叫ぶように呼びかけるのが聞こえ、それを追うように、むせ返るシュレーの濡れた咳の音が聞こえた。ぎょっとして、スィグルは二人のほうを振りかえった。

「気が付いた!」

 地面に横たえられていたシュレーが、かすかに体を起こしていた。シェルが涙で濡れた顔を輝かせている。スィグルは、無意識にシュレーの傍ら膝をつき、その顔を覗きこんでいた。

 シェルに右手を握られたまま、シュレーは苦しげに咳き込み、地面に真っ赤な鮮血を吐いた。あざやかな血の色を見て、スィグルは動けなくなった。手甲をつけたままのシュレーの左手が、甲冑の上から、胃のあたりを掻き毟る甲高い金属音が聞こえた。

「うああっ…」

 シェルが腹を押さえて悲鳴をあげた。スィグルは一瞬混乱し、そして、すぐに感応力の事を思い出した。

「離れてろ、バカ!!」

 シュレーの腕を掴んでシェルの手から取り上げ、スィグルは痛みと混乱で引きつっている森エルフの体を蹴りとばした。天幕の床に転がって、シェルは震えながら、血を吐くシュレーの姿を見ている。シェルの蒼白な顔には、まだ、苦悶の気配がある。そばにいるだけでも、感覚が伝わるのだろう。やっかいな連中だ。

 掴んだシュレーの腕は、猛烈に冷たかった。苦し紛れに何かを掴みたいのか、空を掻くように指が動く。吐いた血で息が詰まらないように、スィグルはシュレーの頭を抱え上げてやった。淡い緑色だった、スィグルの制服の袖が、みるみる血で染まった。新しい血の匂いがする。

 ゆっくりと息を吐き、スィグルは頭の中を整理した。落ちつけ、何からやればいいか考えろ、と自分の中で繰り返すと、狂いかけていた平常心が急速に戻ってきた。

 これは多分、暗殺だ。よくある話だった。自分とシェルが平気だということは、これは同盟のからみではない。おそらくイルスも無事だろう。だとしたら、シュレーは継承権がもとで殺されかかっているのだ。神殿かもしれないし、山羊の紋章に関ることかもしれない。

 ともかく、今は、生き長らえさせることのほうが先決だ。死なせるのは、自分がやらなくても、他の誰かがやるに違いない。

 ひとしきり血を吐くと、シュレーは小さく咳き込んで、ぐったりした。天幕の床に、ちいさな血だまりができている。

「おい、猊下、意識はあるのか」

 スィグルが頬を叩くと、シュレーは煩そうに薄く目をあけた。目を開いているが、視線が定まらない。朦朧としているらしかった。

「マイオス…」

 耳をそばだてないと聞こえないような、かすかな声で、シュレーがシェルの名を呼んだ。シュレーの血で濡れた唇が動くのが、いやに緩慢に感じられる。

「は…はい、なんですか?」

 シェルが飛びあがるように応え、這い寄ってきた。

「フォルデスはいつ戻る……?」

 シュレーの声はうつろだったが、うわ言を言っているわけではない。

「もうじきです」

 シェルが、少しほっとしたように言った。

「遅いな……なにかあったのか……?」

 シュレーが深く息を吸う音が、かすかな風のように聞こえた。

「ライラル殿下、自分の心配をしてください。そうだ…僕、医師を呼んできます。たしか、負傷者が出たら医師を呼べって…」

 立ちあがろうとするシェルの短衣(チュニック)の裾を、シュレーの手が思いがけない確かさで掴み、ひきとめた。

「呼ぶな」

「な…なぜですか?」

 シェルの声が驚きで上擦っていた。

「私が死ぬと……負けになる」

 苦しみのために落ち窪んだ目で、シュレーはシェルを見上げている。

 スィグルは顔をしかめた。シェルは言葉の意味が理解できずに、呆然としている。やがて、模擬戦の勝ち負けのことを言っているのだと気づいたらしく、シェルの顔に怒りの気配が広がっていった。

「…ライラル殿下、あなたは、本当に死にかかってるんですよ!」

「レイラス…マイオスを行かせるな」

 荒い息をつきながら、シュレーが言った。かすかな声だったが、それには強い意思が感じられた。

「猊下、死んでもいいのか」

「救護された学生は、模擬戦では死者の扱いだ。医師を呼んだら、引き分けになってしまう。フォルデスが何人倒したのか…わからないから……」

 ふっと意識が遠のくように、シュレーの言葉がおぼつかなくなった。スィグルは眉間に皺を寄せた。心臓が緊張のために激しく鳴るのを、スィグルはどこか冷静な頭で感じとっていた。

「敗残兵の…数で…決着をつけたら、負けるかもしれない」

 言葉を継ぐシュレーの声は、気力だけで意識を保っているように聞こえた。

「レイラス……騎兵を何人倒した…?」

「そんなこと、もうどうでもいいじゃないですか!」

 はじめて聞くような大声で、シェルが叫んだ。スィグルは顔を覆う森エルフを、黙って見つめた。

「マイオス……何度言ったらわかるんだ。ここで死ななくても……戦いに負ければ、私はいずれ殺される。負けた場合の一生なんて、私には考える必要がない……ここで死ぬならそれまでだ。放っておいてくれ」

「明日死ぬのを心配して、今日死ぬんですか、ライラル殿下!! 馬鹿げてます!」

「マイオス、これが初めてじゃないんだ。医師も信用できない…この学院には、私の味方なんて一人もいないんだ」

 シュレーが微かな声で言うのを聞き、シェルが、息をのんだ。

「そ…そんな…! そんなことって………」

 うな垂れて、シェルが苦しげな息を吐いた。

「私は死なない…死んだりしない……今日も、明日も、その先もだ……連中の思うようにはさせない……絶対に」

 押し殺した声で呟くシュレーの言葉には、怨念のようなものが感じられた。

 神殿種を暗殺しようとするなど、正気をうたがうような話だ。もし、うまくやったとしても、神殿にそれを知られたら、無残な処罰が待っているだろう。暗殺に関った者だけではない。山の部族全員に、その咎が及ぶことを覚悟したほうがいい。スィグルは口元に手をやり、かすかな震えを隠そうとした。

 それでも、シュレーが殺されかかっているのは、確かなことだ。今、こうして目の前で命を奪われかかっている。

 この神官は、いままで、それと知りながら平気な顔をしてきたのだ。シュレーには、命を奪われてでも、手にしたいものがあるというのだろうか。

 そんなものは自分にはない。スィグルは必死で呼吸を整えながら、そればかりを思い巡らした。

「30騎のうち、12騎は僕がしとめた…」

 スィグルは深呼吸して、言葉を継いだ。

「あんたは4騎倒した。それから、味方の兵が残りのうちの9騎…味方の歩兵が、2騎始末してるのを見た。だから、残っている敵の騎兵は、たったの3騎だ。こっちにはまだ5騎残ってる。騎兵の数だけなら、こっちが有利だ。でも、歩兵はまだほとんど交戦してない。数は向こうが圧倒的に多いはずだ」

 スィグルの声は、自分でも意外なほど冷静だった。

「君は、フォルデスが…敵の歩兵を何人くらい倒したと思う?」

「さあ、そんなの僕が知るわけないだろ。自分で考えろよ。指揮官は、あんただ」

 スィグルはつとめて高飛車な口調を作った。シュレーが血で濡れた唇を笑いの形に歪めた。

「可愛げのないやつだ」

「僕に何かさせたいんだったら、跪いて頼むんだね。なにもなしで言うことを聞かせようなんて甘いよ」

 シュレーの灰色がかった緑の瞳が、自分を支えているスィグルの顔を、ふらふらと惑いながら見上げた。かすかな逡巡を見せてから、シュレーは小声で切り出した。

「ここで勝たなければ、私に未来はない。マイオス、レイラス、力を貸してくれ…」

 いつも朗々と話すシュレーの言葉も、こればかりは頼りない。

「僕、いくらでも手伝います、なんでもします、だから死なないでください」

 悩む気配もなく、シェルが即答した。そして、少しためらってから、シェルはシュレーの手を握った。シェルの顔が微かに歪む。

「苦しいですね…なんとかしなくちゃ」

「私の部屋に、解毒剤がある……それを取ってきてくれないか。キャビネットの鍵が、首に………」

 シェルが甲冑の喉あてをはずし、シュレーが首から下げていた銀の鎖を引っ張り出した。それには、小さな鍵が通してあった。

「私の紋章の入った箱がある。それをそのまま持ってきてくれ」

「わかりました、僕、行ってきます」

 頷いて、シェルが立ちあがった。

「ライラル殿下……きっと大丈夫です。死んだりしません。僕、なんとかしますから。だから、無茶しないでください。お願いです」

 言い含める様に呟くシェルの声を、シュレーはうつろな目で聞いていた。

「レイラス殿下、あとは頼みます」

 言い置いて、シェルが天幕を出て行く。スィグルは何も答えずに、それを見送った。

 天幕の入り口を覆う布が、ばさりと戻り、走り去るシェルの足音が遠ざかって行く。外には、兵たちの甲冑がたてる耳障りな金属の音が、うるさく聞こえていた。いつまでも指示がないと、連中も怪しむに違いない。スィグルは、じわりとした焦りを感じた。

「解毒剤なんて、ほんとにあるのかい?」

 目を閉じかけるシュレーに、スィグルは問いかけた。

「たぶん。…この感じ、覚えがある。前に一度…解毒できたから、今度も…大丈夫…な…………」

 言いかけて、シュレーは眉を寄せ、押し黙った。

「猊下…どうした?」

 大きくむせて、シュレーはまた血を吐いた。手甲をつけたままの左手と、素肌の右手が、それぞれ地面にめり込むのを見て、スィグルはうろたえた。どうにもしてやれない。少し迷ってから、スィグルは自分の髪を束ねている皮紐をほどいて、シュレーの髪を束ねてやった。髪が血で濡れるのが哀れな気がしたのだ。

 だが、そうしてから、なにを意味のないことをしているのかと、スィグルは自分が分からなくなった。

「甲冑を…」

 胴を閉じ込めている胸当ての革ベルトを、シュレーの指が苦しげに探っていた。防具を着ているのが苦しいのだろう。スィグルはシュレーの手を退けさせて、代わりに甲冑を脱がせはじめた。

 上から順にベルトを解くうちに、甲冑の内側から、金属を押し上げる力があるのが感じられた。一瞬ためらってから、スィグルはまた一つ甲冑のベルトを緩めた。すると、それが限度だったように、残っていた皮ベルトが次々に千切れ、甲冑を押し開くように、白く光る翼が溢れ出してきた。

「うわっ…」

 咄嗟のことで、スィグルは悲鳴を抑えられなかった。白く半透明な翼は、淡い光を発しながら、天幕の天井まで広がった。気が気でなく、思わず天幕の入り口を見遣る。誰か入ってきたら、神聖神殿の門外不出の秘密が広まってしまう。

「め…迷惑だ……こんなもん、さっさと切り落とせ!!」

 どうすることもできず、スィグルはあきらめて防具をはずしてやることにした。甲冑の下の制服は、ひどい汗で湿っている。淡い緑色の絹のシャツが、そのまま雨の中を歩いた様に濡れて、シュレーの肩に張りついていた。

 激しくむせるたびに、腹を押さえるシュレーの手の下で腹筋が引きつるのがわかった。毒で胃をやられているに違いない。

 吐血がおさまると、シュレーは崩れるように地面に横たわった。右手で口元をぬぐって、自分の白い手を染める鮮血を、かすかに震えながら見上げている。

「死にそうか?」

 スィグルは、憎まれ口しか出てこないのが、情けないような気がした。シュレーの顔は蒼白を通り越して、まるで死人のようだった。

「死ぬかもしれない……と、いつも思う」

 シュレーが、かすれた声で呟くのが聞こえた。血で染まった、ふるえる指先を見つめたまま、シュレーはゆっくりと目蓋を伏せた。目を閉じたというより、意識が抜け落ちていくような頼りなさだった。

「今日は、死ぬのかもしれない…明日は、本当に死ぬかもしれないと………いつも」

 憔悴しきった顔をしながら、シュレーは気力を奮い起こすように、ゆっくりと目を開いた。

「死なないんじゃなかったのかい」

 その場に座り込んだまま、スィグルは力なく混ぜ返した。

 かすかに首をめぐらせて、シュレーがスィグルの顔を見上げた。自分の血に染まった姿で倒れ込んでいるのを見ると、ほんとうに天使ブラン・アムリネスが神殿の壁画から抜け落ちてきたようだ。

「君は、どうやって生き延びたんだ、レイラス」

 耳をそばだてて聞かないと、聞き取れないような声のはずが、シュレーの問いかけはスィグルの耳を激しく打った。シュレーがなんのことを聞いているのか、スィグルには直感的にわかった。

「……懺悔(ざんげ)でもしろっていうのか」

 歯を食いしばって、スィグルはうめいた。シュレーは何でも知っているはずだ。神聖神殿の記録を調べたと言っていた。タンジールの神官たちは、事の次第を聖楼城(せいろうじょう)に書き送っていたはずなのだ。

 なぜ今、そんなことを話したがるのか、シュレーの気がしれなかった。スィグルは座り込んだまま頭を抱えた。知っているなら、わざわざ聞き出す事もないではないか。

 スィグルは話したくなかった。その事実を、自分の口から誰かに話したことは、今まで一度もない。できることなら、誰にも知られたくない。自分はもう、一生分の侮辱を受けたと、スィグルは思いたかった。これ以上、誰かに罵られたくないのだ。

「いつも……」

 シュレーが突然呟いたので、スィグルははっとして顔をあげた。

「暗い…穴の中を、ひとりでさ迷ってるような気がする」

 スィグルは、途切れがちな言葉を聞きながら、傍らに横たわっている神殿の天使にゆっくりと向き直った。シュレーは目を開いて天井を見上げていたが、もうほとんど意識がないようだった。

「誰も彼も私から奪っていく。父上や、母上や…私の自由、私の心、挙句は、命まで…生きるためには、それと戦わないといけない。でも、私はもう戦うのはいやなんだ。なせ、こんなことばかり………これが、私の生涯の全てか…? 自由になって…ここを出て行きたい……ちゃんと、生きたままで……明るいところ…に……」

 シュレーの言葉の終わりは、すっかり消え入って聞こえなくなった。重いものでも運ぶような風情で、シュレーは目を閉じ、少ししてから目をあけた。スィグルは思わず顔を歪めた。

「君も…そうだったんだろう? 苦しかったか?」

 息がつまるのか、シュレーは顎をそらせ、スィグルではなく、天幕の天蓋を見上げている。その視線は危うげで、定まらない。

「でも……君はもう、そこから出てきた。私は、それが……うらやましい。君が、どうやって耐えたのか………私に…教えてくれ」

 スィグルのほうへ顔を向けて、シュレーは、なにかを頼るような目をした。

 スィグルはまた、スフィルのことを思い出した。なぜ弟は、あの時、助けてくれと言ってくれなかったのか。そう言ってくれれば、いくらでも助けてやったのに。

「………出られる。いつか。こんなのは…ただの悪い夢だと思えばいいんだ」

 スィグルは自分の袖で、血で汚れたシュレーの頬を拭いてやった。

「君も……夢の中でやったことなんて…さっさと、忘れてしまえ」

 眉を寄せ、スィグルはうつむいた。目をあけていられない。

「そんなこと……できるもんか。僕は──────人を殺して食ったんだぞ…」

 その言葉のあまりの苦さに、スィグルの舌は痺れた。

 シュレーの手が頭に触れるのを感じ、スィグルは驚いて目をあけた。

「レイラス…汝、許されり」

 シュレーは薄く笑っていた。

「……………もう、忘れていい」

 シュレーの手から力が抜けて、自分の髪の間を白い長い指が滑り落ちていくのを、スィグルは目を見開いて見送った。

 ぱた、と音を立てて、シュレーの手が翼の上に落ちた。シュレーは薄く目を開いていたが、その視線には意識の光がなかった。

「……おい……よせよ……!!」

 スィグルはぞっとして、とっさにシュレーの手を握ってみた。その手には、まだ脈があった。気を失っただけだ。

「この…クソ野郎(ルガイズューレ)!!」

 全身でため息をつき、スィグルはその場にうずくまった。

 天幕の中でひとりにされると、焼け付くように喉が乾いてくる。頭の芯が痺れるような目眩を、スィグルは感じた。

「………忘れるなんて無理なんだ…そんなことできたら、とっくにやってる!!」

 天幕の地面に爪をたてて、スィグルはうめいた。シュレーが聞いているとは思えなかったが、押し留められない言葉の波が、乾いた喉からつぎつぎと溢れ出てくるのだ。

「父上も……他の連中も……みんな知ってるくせに、なにも言わない………どうして、誰も、僕を責めないんだ… 僕がスフィルをあんなふうにしたんだ、みんな……僕が勝手にやったんだ、スフィルが悪いんじゃない……僕のせいなんだぞ! 猊下、あんたは間違ってる。あんたがやらなきゃいけないのは、僕を罰する事じゃないのか、なんとか言えよッ、畜生!! 目をさませ!!」

 シュレーの体を揺らして、スィグルはその神聖な耳元でわめきちらした。返事を聞かないと、不安で気が狂いそうだったのだ。

「なにが神殿の天使だ……!! 母上を、スフィルを…僕を救ってくれって………僕はあんたに祈ったこともあるんだぞ………でも、なんだよ、これは…ただの死にぞこないじゃないか! なんのための神聖神殿だッ……自分ひとりの命も助けられないあんたが、誰を救えるっていうんだ……!! 救えるもんか!! さっさとくたばれ! いい気味だ……!!」

 だが、シュレーは目をあける気配がなかった。気を失ったまま、ぐったりとしている。

 スィグルは呆然として沈黙した。袖を染めた血の赤さに目眩がする。

 自分がわめきちらした事の意味を、スィグルはいい終えてから、やっと理解した。シュレーは死にかかっている。誰かが助けてやらなければ、このまま死ぬのだ。

 誰がやったのかもわからない謀略によって。ただ、その血筋に生まれたというだけのことを理由に。

 かつて、スィグルがそうだったように。

「くそ……猊下、あんた、負けないんじゃなかったのか……?」

 不意に、自分の声が表の喧騒に吸い取られるのを感じて、スィグルはハッとした。天幕の外にいる兵たちが騒がしい。誰かが天幕に近寄ってくるのを感じる。

 スィグルはとっさに立ちあがって、天幕の入り口に走り寄った。覆いを跳ね除けて外へ出ると、天幕を目指してきていた山エルフの学生たちと、鼻先がぶつかりそうな距離で出くわした。

 天幕に入ろうとしていた学生たちは、身につけた甲冑の重さのため、走る勢いを止められず、スィグルの体にぶつかってきた。スィグルは力任せに兵たちを押し返した。

「なんだ、なにか用か!?」

 入り口に立ちはだかって、スィグルはよろめいている兵たちを睨み付けた。

「敵襲だ、猊下の指示をうかがいに来た」

「指揮官が何をしている。防衛戦はどうなったんだ」

「騎兵がもう交戦している、さっさとしてくれ!」

 天幕から、スィグルは陣の入り口を見遣った。敵軍は、残った歩兵まで総動員して、押し寄せてきていた。

 イルスが挙げた首級が、こちらに戻っていないのを知っているのかもしれない。いつまでも白羽の軍旗が上がらないのを見れば、それに気づくのも当然だろう。最後の勝機を狙って、シュレーの首を取りに来たのだ。

「くそっ……イルスのやつ、のんびりしやがって…………!」

 母国語で悪態をつくスィグルを、兵たちは不審そうに眺めている。

「猊下は休養中だ。防衛戦の指揮権を委任された。行くぞ」

 自分より頭ひとつぶんも上背のある兵たちを見上げて、スィグルは尊大に命じた。

 考え間もなくそうしてから、なぜそんなはったりを言うのか、スィグルは自分が不思議でならなかった。

「お前が指揮を摂るだと………? なんの権利があって……」

 胸倉を掴もうとして腕を伸ばしてきた兵を、スィグルは魔法で弾き飛ばした。派手に地面を転がった兵は、胸当ての壷が割れてしまったが、吹き飛ばされた衝撃と痛みに気をとられ、それにも気づかない様子だ。

「貴様……味方の兵だぞ!?」

「黙れ!」

 色めき立つ山エルフたちに、スィグルは一喝した。

「敵もろとも吹き飛ばされたくなかったら、さっさと戦列に戻って陣を守れ! 魔法の恐ろしさをもっと詳しく知りたいか?」

 山エルフの兵たちは、なにか言い返そうという気概を見せはしたが、結局、誰も反論しようとしない。ほんのしばらく、スィグルは彼らと睨み合っていた。最初の一人が天幕を離れて走り出すと、山エルフの少年たちは、次々とスィグルの命令に従った。

 最後の一人がその場を離れたのを見て、スィグルは思わず、深いため息をついた。なぜ自分がこんなことをしてやらねばならないのか、納得がいかない。だが、のんびり考えている暇はなさそうだ。

 兵たちが戦列に戻り始めるのを追って、スィグルは武器を持たないまま、戦列に向かって走り出した。

 途中、スィグルは振り向いて天幕のほうを見遣った。

 戻った時に、シュレーが死んでいたらどうなるのかと考えると、空恐ろしかった。イルスが首級を持って戻ってきたところで、それを握らせるのは死体の手なのか。スィグルは身震いした。

 スフィル、スフィル、と、スィグルは弟の名を呪文のように呟きながら走った。助けてやる、絶対に、タンジールの夕日をもう一度見せる。暗闇の中でたった一人、飢えて死ぬのはあんまりだ。お願いだから、今日も、僕が戻るまで生きていてくれ。

 妄想と狂気に落ちていきそうになる頭を振って、スィグルは自分を取り戻そうとした。自分はもう、森の地下にはいない。タンジールでもない。ここはトルレッキオだ。模擬戦闘には勝たねばならない。負ければシュレーには後がないのだ。

 口先だけの世迷い言で、ひとを救った気になられたら迷惑だ。それを伝えるまでは、死んでもらっては困る。癪に障る、人を憐れむあの顔に、さんざん文句を言ってやらないと自分の気が済みそうにない。

 スィグルが前線に出ると、味方の騎兵は全て倒されていた。騎手を失って暴れる馬を避けながら、歩兵たちが戦っている。その防衛線も、すでにあっけなく持ち崩されようとしていた。

「そこを退け!」

 スィグルが大声で告げると、驚いた兵たちが何人かこちらを見た。味方の兵が残っているのにも構わず、スィグルはその一帯にいた敵の歩兵に、出せる限りの魔力を叩き付けた。

 疾風のような駿足で襲いかかる魔法のために、あたりの兵はなぎ倒された。怯んだ兵たちは、敵も味方もなく、スィグルを化け物でも見るような目で見つめ返してくる。

 急激に魔力を使ったために、くらっと目眩がした。それを気取られないように、スィグルは山エルフたちを睨み付けた。

「さあ来い。手加減なんかできないからな。腕の一本二本は覚悟しろ。陣に踏み込んだやつは、片っ端から吹き飛ばす!!」

 目に見えない力を恐れ、敵兵たちは明らかな怯みを見せた。スィグルは自分の中に眠る魔力をかき集めるため、歯を食いしばった。

 暗闇の中から、あにうえ、と力なく呼びかける弟の声が、耳元に蘇る。僕が眠ったら、兄上の魔法で殺して…もう二度と、暗闇の中で目をさましたくないんだ。

 死んだほうがましだと、弟は何度も言っていた。

 そんなことはない。そんなことはない。そんなことはない。スィグルは次々に蘇る幻覚をなぎ払うように、心の中で叫んだ。

 スフィルが生きて戻ったことを喜ぶものが誰もいなくても、スィグルは、弟を助けてやりたかった。暗闇の底に見捨てられ、飢えてさまよう惨めな子供を。もう一度、明るい場所へ戻してやりたい。

 ……あの天使も、いま、暗闇の底に。

 スィグルは深く、息を吸いこんだ。

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