028 白羽の軍旗

 晴れ渡った空の下でも、針葉樹の森は薄暗く、枝の隙間から光の帯のように陽光が射し込むほかには、陰気に湿った土と、朽ちかけた落ち葉があるだけだった。うろこのような樹皮に覆われた針葉樹は、どれも硬く痩せており、まっすぐに天をついてのびては、はるか頭上で傘のように大きな枝を張っている。

 馬の手綱を絞り、スィグルは上目遣いに梢を見上げた。リスかなにか、小さな生き物が何匹か、馬の気配に驚いて、せわしなく枝を渡っていっている。くつくつと喉を鳴らすような鳥の鳴き声が、森の奥から空耳のように聞こえていた。

 シュレーの合図で、騎馬隊は進軍をとめた。興奮して足を踏み鳴らしている馬をなだめつつ、ご大層な甲冑をつけた山エルフの学生たちは、森の奥を見つめるシュレーに注目している。

 「レイラス」

 面覆いを上げて、シュレーが呼んだ。誰も彼も同じような甲冑にくるまれていても、白い羽根飾りをつけたシュレーだけは、スィグルにも簡単に識別できた。

「なんだよ、猊下」

「君の魔法の射程はどれくらいだ?」

 右腕に抱えた馬上槍(ランス)を鞍の上に預けて、シュレーはうろうろと足踏みする馬の首を撫でている。山エルフの学生たちの、面覆いに隠れされた視線が、いっせいに自分に向けられるのを感じ、スィグルはむっとした。

 首をめぐらして、スィグルは都合のよい標的を探した。顎をあげて、梢を見るように促すと、シュレーはちらりとスィグルの顔を見てから、心持ち視線をあげた。

 スィグルが、気を落ち付けて集中し、胸の前にかざした右手のあたりに魔力を吸い集めると、指先が痺れるように熱く感じられた。頃合を見計らって、魔力を解放すると、目に見えない力が騎馬隊の頭上の梢を撃ち、生木を折る音とともに、ヘし折られた針葉樹の枝が降り注いだ。

 突然の落下物に襲われた騎馬兵たちは、驚き暴れ出す馬を操るのに必死になっている。いい気味だった。スィグル自身の乗り馬も、びくりと耳をふるわせ、前足を跳ね上げかけたが、手綱を引くと大人しくなった。ほくそ笑んで目を細め、シュレーを横目で見やると、兜の中の神聖な顔は、人の悪そうな薄笑いで応えてきた。

 「かなりの距離に有効なようだ」

「狙いも正確だよ、猊下。胸の壷を割ればいいんだろ。簡単だよ。うすのろな馬上槍(ランス)隊なんて、僕の敵じゃない」

 ふん、と鼻で笑って、スィグルは胸を張った。それを聞いたシュレーが、うっすらと歯を見せて笑った。

 鞍に置いていた馬上槍(ランス)を握りなおし、シュレーはスィグルのそばに馬を寄せてきた。

「馬上槍(ランス)隊は基本的に一対一で戦う。一人の兵がいっときに相手にできるのは、一人の敵だけだ。馬上槍(ランス)をかまえ、狙い定めた敵に突撃する。そして、すれ違う瞬間に、相手の心臓を突く」

 丸く鈍らせた練習用の馬上槍(ランス)の先で、シュレーはスィグルの胸の中央を軽く小突いた。肋骨の束ねを押されて、倒れかけそうになるのを、スィグルはなんとかこらえた。

「君は甲冑をつけていないから、馬上槍(ランス)で撃たれれば、骨折くらいは覚悟しなくてはいけない。模擬戦では、胸当ての壷を狙うのが規則だが、実戦では、心臓のほかに、喉や眼も狙う。敵軍の兵の、ちょっとした反則行為でも、君は命を落とすかもしれない。君の部族の魔導師のように、馬上槍(ランス)に頭蓋骨を割られたくなければ、敵が突進してくるのに気づいた場合、君に限っては、私の指示を待つ必要はない。迷わず後退しろ」

 シュレーの、人を上から見下ろすような物言いが気に食わず、スィグルは眉間に皺を寄せた。

「あいにくだけど、猊下、僕は逃げない。僕を倒そうなんて生意気なことを考える馬鹿は、魔法で吹き飛ばして落馬させてやるさ」

 シュレーは含みのある笑いを浮かべた後、どん、とスィグルの胸を押して、馬上槍(ランス)を退いた。息がつまって、スィグルは堪え切れずに2、3度むせた。

「折れた肋骨が肺に刺さると、死ぬこともある。模擬戦では時折、ほんとうに死者がでる。憶えておくといい」

 慣れた手綱さばきで馬首を巡らせて、シュレーは兵の最後尾にいる、シェル・マイオスのほうへと近づいて行った。

 見るともなしに横目でそれを見送り、スィグルは落ち付かない気分になった。あれほど愚図っていた森エルフのシェルが、シュレーに力を貸すのに同意したのは、意外なことだった。2人が何を話していたのかは、スィグルのいたところまでは聞こえてこなかったが、シュレーが逆上してシェル・マイオスを殴り付けるのが見えた。

 複雑な気分だった。軍規に従わない者を罰するのは当然のことだし、まして、憎い森エルフの王族がどんな目にあおうと、小気味良い気分になりこそすれ、その他には何も思うことなどないはずだった。手綱をもてあそびながら、スィグルはシュレーがシェルと話に行くのを見ないようにつとめた。

 不愉快だった。殴り付けてでも思惑に従わせようという腹が気に食わない。そうやって、みっともなく足掻いてみせたところで、シュレーの敗北はもう決まっているようなものだと、スィグルは感じていた。

 しかし、この戦いに撤退という策がありえないことも、もちろん理解していた。両軍が激突することを前提に、この模擬戦闘は開始されている。これが実際の戦闘であれば、勝機のない戦いからは、撤退するのが正しいやり方だ。敗北が確実だと思われる戦闘に、やけっぱちで臨むなど、優雅なやり方からは程遠い。そこまでの不利を押しつけられること自体も、これほどの窮地に陥るほどの馬鹿者だと揶揄されているようで、ひどく気に食わない。

 敵地に人質として身を置いているとはいえ、スィグルは大陸西南部の砂漠地帯で、広大な領地を支配する族長の血統に連なる者だ。せせこましい山の部族に、あざ笑われるために来たのではない。父、リューズ・スィノニムは、政治的な配慮から、神殿の権威の前に致し方なく膝を折っただけで、大角山羊(ヴォルフォス)の軍旗に屈したわけではないのだ。同盟の締結の時点で、北部の戦線は山エルフ族の優位を許していたが、あと1年もあれば、勇猛な父の軍は、内陸の平野を版図に呑み込んだに違いないというのに。

 神殿め。

 口に出すわけにはいかない呪詛を、スィグルはごつごつした異物を飲み下すように、苦労して喉の奥に押しこんだ。それを口にするのは、わけもなく恐ろしかった。理由の無い恐怖心のようなものが、スィグルの心の奥底に潜んでいるようだった。

 ふと顔をあげ、スィグルは学院の外壁のあたりで見せられた、シュレーの翼のことを思い出した。この言い知れない神殿への恐怖感も、あの白い翼と同じものによって、辛気臭い洗礼名と同時に、神官たちがスィグルに押しつけてきたものなのかもしれない。

 シュレーは神聖神殿を滅ぼすつもりのようだが、そんな大それたことが可能だとは思えなかった。それを手伝えと持ちかけられたところで、胸のざわつく魅力的な野望だと思いこそすれ、どうすればあの白亜の神殿が倒れるものか、見当もつかない。勇敢で偉大な父ですら、神殿と対抗するのは得策でないと判断し、誇り高いその額を、神聖神殿の白大理石の床に擦り付けねばならなかったのだ。

 自分の想像にむっとして、スィグルは唇を引き結んだ。不意に甲高い声をあげて、大きな翼を持った鳥が飛び去っていった。

「レイラス」

 声に振り向くと、シェル・マイオスを伴ったシュレーが、また戻ってきていた。

「マイオスが敵軍の位置を読む。マイオスからの合図を聞いたら、君はなるべく沢山の敵兵を討つように心がけてくれ。君の防衛線を突破した騎兵は、こちらの馬上槍(ランス)隊が受けて立つ」

「合図なんか要らないね」

 なるべく抑揚のない声で、スィグルは言った。しかし、それに応えるシュレーも、無表情だった。

「戦場においては、情報は重要な要素だ。それに指揮官は私だ。命令違反は処罰の対象になるぞ」

 スィグルと同じく、甲冑をつけていないシェルが、ちらちらと不安そうにシュレーのほうを盗み見ている。スィグルは顔をしかめた。

「ふん。あんたの部族じゃ、敗軍の将にも、そんな権威があるのかい」

 嫌味を言ってやると、シュレーがにやりと笑った。

「まだ…勝ち目はあります」

 横から口をはさむように、馬上のシェル・マイオスが言った。シェルは、無意識のように見える仕草で、馬のたてがみに指を漉き入れ、鞍の頭に軽く手をそえているだけで、手綱を握っていなかった。それでも、馬はシェルのいうことをよくきいた。森の民に独特の力だ。スィグルにはそれが、ひどく薄気味悪かった。

「いまの敵の位置は?」

 シュレーが戦いが近づくのを予感している声色で訪ねた。

「もうじきです。先頭が見えるはずです」

「フォルデスは? オルファンを見つけたか?」

 当たり前のように、シュレーが尋ねるのに、スィグルは目を見張った。

「まだです。まだ斜面にいる」

「…なんでわかるんだよ」

 思わず、スィグルはシェルを問いただした。

「人それぞれに、波のようなものがあって、感応力でそれを追えます。限度はありますけど、知っている相手なら、注意して気配を追いつづければ、大体の居場所くらいは」

「森の部族に独特の力だ。彼らは、自分の心と他人の心の境界線があいまいで、気を許すと心を読む。マイオス、君の馬は何と言っている?」

 面白そうに、シュレーが尋ねた。

「右の後ろ足の蹄鉄が減っていると言ってます。それから、今夜には角砂糖が欲しいって」

 落ちこんだ様子で、シェルは律儀に答えた。シュレーが、彼に似合わない苦笑をした。

「さっきのことは、気にしなくていい。君が読んだのは、私が持っている中で、一番どうでもいい秘密だ。相応の君の秘密で、代価を支払ってもらう」

「…すみません」

 シェルは首をすくめ、居場所がないというような表情をした。スィグルはため息をついた。

「猊下、あんたの秘密って、あれのことか?」

 スィグルは注意深く尋ねた。シュレーは森の奥を見つめたまま、軽く首を横に振った。

「ちがう。もっと、ちっぽけなものだ。マイオス、君が相応だと思うものでいい」

「相応の秘密…ですか?」

 大きな緑の目で、シェルはシュレーの横顔を見上げている。戦いの緊張で青ざめたシェルの顔は、隊商(キャラバン)が運んできた新しい紙のように白く、引きつっていた。

「僕…まだ、守護生物(トゥラシェ)がいないんです」

「トゥラシェ…?」

 シェルの話をきくシュレーは、どこか上の空だった。スィグルは、シュレーがこの話に大して興味を持っていないのを感じた。シェルに口を利かせるために、話しかけているだけなのだ。

 馬の上で、シェルはがたがたと小刻みに震えていた。だが、こうやって何か喋っていると、その怯えも少しは紛れるようだ。シュレーがそれを狙って、シェルに話させているのは、おそらく間違いがなさそうだった。スィグルはふんと鼻を鳴らした。この神官は、時折、ふとした無意識で、妙に人を労わるところがある。食堂での決闘をもみ消したのにしても、あんなことをして、シュレーに何の得があるのか、スィグルには見当もつかなかった。

「守護生物(トゥラシェ)っていうのは、森エルフ一人に一体連れ添っている生き物のことで……それを見つけるのが、森では一人前として認められるために必要なことなんです。感応力が強ければ強いほど、より強大な守護生物(トゥラシェ)に招かれるんです。僕らは守護生物(トゥラシェ)と心を繋いで、力を分け合うんですよ」

「君達森エルフが、戦場に連れ出す巨大な生物のことだな」

 馬上槍(ランス)を握りなおし、シュレーはぼんやりとした声で尋ねた。

「守護生物(トゥラシェ)を戦いに連れ出すのは、悲しいことです。アシャンティカも悲しんでいる…」

「アシャンティカ?」

 シュレーは夢の中の繰言のように、質問を繰り返す。

「部族の森を守る、最大の守護生物(トゥラシェ)で…大樹の姿をしています。森の墓所の番人で……」

 言いかけて、シェルははっとしたように口をつぐんだ。スィグルと目が合うと、シェルは火に触れた子供がうろたえるように、泣き出しそうな顔をした。シェルの乗っている馬が、それに引きずられるように、悲しげにいなないた。

「マイオス、その問題については、近々レイラスと決着をつけろ」

 まるで命令のような口調で、シュレーは忠告した。

「君には責任が無い。それをレイラスに理解させるんだ」

「余計なお世話だって言ってるだろ、猊下。ほっといてくれ。どうして僕に構うんだ」

「君を見てると腹が立つ」

 いかにも可笑しそうに、シュレーは笑った。

「レイラス、君はまるで、この世で不幸なのは自分だけだと言いたげだ」

「だったら何だ。あんたみたいに、チヤホヤされて生きてるやつに、僕の気持ちなんてわかりっこない」

「レイラス殿下…本気でもないのに、そんな心にも無いことを言わないほうがいいです。ライラル殿下は、あなたのことを気に入ってるんです、あなたの力になりたいと思ってるんですよ!」

 慌てたそぶりで、シェル・マイオスが咄嗟に、シュレーを罵ろうとするスィグルの言葉を遮った。スィグルはぎょっとして、気の弱そうなシェルの顔を見た。シェルもびっくりしたように、目を丸くして、そのあとすぐ、人形のような顔に、じわりと後悔の表情を浮き上がらせた。肩を震わせて笑いながら、シュレーが甲冑の面覆いを下ろした。

「わかるか、レイラス。彼は怖い。気をつけろ」

 兜のせいで、シュレーの声は鈍く響いた。

「力になりたい? 馬鹿にするな」

 手綱を握り締めて、スィグルはうめいた。

「君の境遇があんまり悲惨なんで、同情してるんだよ。そうやって一生、自分の傷にすがり付いて生きていく君を思うと、その惨めさには涙が出そうだ。フォルデスに話を聞いてもらって、少しは立ち直ったんじゃなかったのかい。急にしおらしく挨拶をするようになったりして、君は本当に純真だな」

 面覆いからこぼれて聞こえるシュレーの声は、まだ笑っていた。

「な…なんだと!? もういっぺん言ってみろ!!」

 かっとして、スィグルは大声を出した。驚いた馬が、ぶるっと体を振るわせる。

「強がっても君は世間知らずだ。心が優しすぎるよ。人を憎むことなんかできるものか。復讐したいなら、さっさとやったらどうだ。マイオスは無防備だ。さっきの魔法を見て思ったんだが、あんな力を持ってるのに、どうしていつも使わずに我慢するんだ。君は同じ力で、人を殺めたこともあるんだろう」

「…どうせやるんならお前からやってやる、シュレー・ライラル!」

 頭がクラッとするほどの怒りが、一気に込み上げてきて、スィグルはシュレーの兜の喉もとを掴んだ。面覆いの中の顔が微笑しているのを見て、スィグルは一瞬、わけがかわらなくなった。

「やめてください! やめてくださいっ!! ライラル殿下も、もっと普通に話せばいいのに…どうしてわざわざ、そんな、レイラス殿下を怒らせるような言い方ばかり選ぶんですか!?」

 2人の間に割って入り、シェル・マイオスはひそめた声で必死に訴えた。手のやり場を失ったまま、スィグルは眉間に皺をよせて、シェル・マイオスの切羽詰った視線を浴び、苦笑しているシュレーを見やった。

 不意に、この神官が不思議なものに思えた。気位の高い、嫌味でいけ好かない奴だとだけ思ってきたが、シュレー・ライラルが皮肉を言うのは、スィグルに対してだけだ。シュレーが実際には、皮肉ではない、何か別のことを言おうとしているなどと、今まで考えたこともない。

 そう思って考えると、シュレーが何かを言って、自分が気を悪くするたびに、イルスが面白がっていたのが思い出される。イルスには、シュレーが言おうとしていた事の本質が、理解できていたのかもしれない。スィグルは複雑な気分になった。

「マイオス、敵はどうだ」

 ふと気配の違う引き締まった声で、シュレーが尋ねた。一瞬ぽかんとしてから、シェルは言われたことを理解したようだった。

「あ…えと……! この峰につづく最後の斜面を登ってます。先頭はすぐに現れます!」

 慌てているシェルの声を聞き、スィグルは森の切れる斜面へと目を向けた。

「レイラス、黒エルフの魔導師の力量とやらを、見せてもらおう。私がオルファンに負けたら、君も、女装して廊下をうろつくぐらいじゃ済まされないぞ」

「うるさい」

 ぽつりと応じると、手甲をつけたシュレーの固い手が、スィグルの背中をぽんと叩いた。

「マイオス、怖いのなら、君はいったん後退してもいい」

「僕もここにいます」

 木々の向こうから、こつこつと木切れを叩くのに似た山鳥の声が、けたたましく響き、斜面の向こうから、まだらな茶色の羽根をした一抱えほどもある大きさの、地上性の鳥の群れが現れた。朽ち葉を蹴立てて、鳥達は狂ったように逃げ惑い、萎えた翼を振りたてては、こちらに向かって突進してきた。

 それを追うように、銀の甲冑をつけた騎馬兵が一騎、ニ騎と姿をあらわした。敵軍の兵は、行軍の途中で出くわした対戦者の本隊に、度肝を抜かれたようだった。思わず手綱を引き、馬を棹立ちにさせた先頭の騎兵が、大声をあげて何か叫んだ。山エルフの言葉だった。前足を振り下ろした馬の蹄に、通りかかった山鳥が、あっけなく踏みつぶされた。

「うう…っ」

 苦しげに低くうめいて、シェル・マイオスが馬の背にかがみこんだ。スィグルはそれに視線を奪われ、すぐ隣で倒れ伏した森エルフに、思わず手を差し伸べそうになった。

「レイラス、殺せ」

 混乱している敵兵を馬上槍(ランス)で指し示して、シュレーは至極冷静に命じた。

 はっとして、スィグルは敵兵に向き直った。先頭の騎兵は、すでに体制を立て直し、突進するか後退するかで迷っている。その甲冑の胸当てには、味方の兵がつけているのと同じ、素焼きの小さな壷がとりつけてあった。

 肩の高さに手のひらをかざし、そこへ魔力を集中させる。指先に凝ったそれを、スィグルはまっすぐに敵兵へと叩き付けた。

 パン、と音高らかに壷が割れ、その中に閉じ込められていた山羊の血が飛び散った。魔力に押されて、先頭の敵兵がもんどりうって落馬した。後続の騎兵たちが、何が起こったのか把握できずに、お互いの顔を見合わせて喚き散らしているのが見える。

「やった」

 気味が良かった。スィグルは思わず呟いた。

「喜ぶな。敵はまだいる」

 強い声で叱咤して、シュレーが馬上槍(ランス)を構えた。

「近づいて来る者は無視しろ。一番遠い兵から倒すんだ。わかったな」

「わかった」

 スィグルが即答すると、シュレーが振り向いて面覆いを上げた。

「君がいれば、私の軍は無敵だ」

 にやっと笑って、シュレーは芝居がかった口調を作った。

 スィグルは呆気にとられた。その言葉はいやに耳心地良く聞こえた。

「僕を担ぐな」

 噛み付くように、スィグルは言った。

「嬉しいくせに。マイオスの面倒は君が見ろ、頼んだぞ」

 面覆いを降ろして、シュレーは馬の腹を蹴った。10騎の馬上槍(ランス)隊が整列する前に並足で馬を寄せ、シュレーは良く響く声で宣言した。

「敵が防衛線を突破したら、それを合図に突撃する。敵の一騎を味方の二騎で攻撃しろ。一騎が失敗したら、敵が体制を立てなおす前に、後続のもう一騎で倒す。私より右の5騎が前衛、左の5騎が後衛だ。それでも倒せなかった敵は、歩兵で始末する。いいな、簡単な仕事だ。できないとは言わせないぞ。一騎も討ち漏らすな。皆殺しにしろ。

諸君、私は勝利を確信している。白羽の軍旗を敗北で汚す者には、呪いあると知るがいい!」

 二人目の騎兵を吹き飛ばした手応えに酔いながら、スィグルはシュレーの声を聞いていた。まるで竜(ドラグーン)の声だ。神聖神殿の祭壇から、数知れない民に予言を告げ知らせる、容赦のない声。

 白羽を飾った兜と、甲冑に打ち出された静謐なる調停者(ブラン・アムリネス)の紋章、そして、神聖な趣の色濃い、シュレーの毅然とした態度に、その場にいた全員が身震いし、居住まいを正した。

 この神官は、自分の中に流れている血の力を知り尽くしている。スィグルはどうにも否定し切れない感嘆で、一瞬、呼吸を忘れた。

 動悸を抑え、スィグルは、続々と現れる敵の騎兵に狙いを定めた。血しぶきをあげて馬上から転げ落ちる兵を避けつつ、後続の馬上槍(ランス)兵が一騎、防衛線を突破した。スィグルははっとして、我知らずシュレーの方に視線を向けた。

「前衛、突撃!」

 間髪入れずに、シュレーが指揮した。騎兵の鞭の音がなり、朽ち葉を跳ね上げて、5騎の馬上槍(ランス)兵が突撃していった。

「後衛、構え!」

 静かにさえ聞こえる落ち付いた声で、シュレーは残る騎兵に命じた。それと、森の奥に突撃した馬上槍(ランス)兵が、スィグルの討ち漏らした敵を、すべて平らげるのは、ほぼ同時だった。返り血を浴びた5騎が、一人も欠けることなく、慣れた様子で馬首をめぐらせ、列に戻り始める。

 敵の騎兵は、これで5騎削られた。あと5騎しとめれば、馬上槍(ランス)隊の兵力は敵味方互角になる。鮮やかなものだった。

「マイオス!」

 その場を動かず、シュレーが大声でシェルを呼んだ。

「フォルデスは? 今、どこにいる?」

 叱責するような厳しい声色に、青ざめたままの顔で、シェルが体を起こした。

「……峰のふもとに」

 シェル・マイオスの声は、苦しげにかすれていた。

「どっちへ向かっている?」

 シュレーは労わりを見せる気配もなく、厳しく問いただした。

「敵陣へです」

「………わかった。レイラス、ぼやぼやするな、後続が来るぞ!」

 促されて視線を戻すと、さらに6騎が到着していた。あれを全て屠れば、騎兵の兵力差は逆転する。

 スィグルは魔力を集めた。

「後衛、突撃!」

 スィグルの仕事を待たずに、シュレーが号令した。舌打ちして、スィグルは新たな獲物を馬上から吹き飛ばした。

「猊下! 僕が始末するって言ってるだろ!?」

「わめくな。君の文句なら、後でまとめて聞いてやる」

 面覆いをあげ、シュレーは突撃していった後衛の騎馬兵を目で追っていた。

「脱落が出る」

 冷静に響くシュレーの声が消えないうちに、味方の兵が2人、馬上槍(ランス)に突き落とされて落馬した。隊列に戻ってくる兵の数は、3人に減っていた。

「また新手が来ます。今度はかなりの数がまとまって…」

 握り締めた手を、口元にもっていき、シェルが確信にみちた声で知らせた。最終的な敵の本隊と合流することになりそうだった。敵味方の脱落によって、騎馬兵の戦力は、ほぼ互角のはずだった。

 峰を越えて、敵の騎馬が次々に数を増していた。

 馬上槍(ランス)を握り、シュレーが面覆いを降ろした。

「私も行く。レイラス、後は任せた」

「あんたが死んだら、この馬鹿げたお遊びも終わりにできるよ」

 手早く防具を確認し、馬上槍(ランス)を構えるシュレーは、何も答えなかった。

「ライラル殿下、気をつけてください」

 心配そうに、シェルが忠告した。

「マイオス、フォルデスが戻り始めたら、合図をくれ。陣まで撤退して、防衛戦を展開する」

「わかりました。でも…どうやって?」

 シェルが戸惑うのにも、シュレーは取り合わなかった。

「感応力が使えるだろう。私の心に触れていい。トゥラシェの話は面白かったよ。でも、君が私から読んだ秘密は、それほど大きなものじゃないぞ」

 騎馬に鞭を当て、風のような初速でシュレーが隊列を離れた。姿勢を下げて速度を上げる彼の乗馬は巧みで、敵手と定められた対戦者は、一瞬あきらかな怯みを見せた。その隙を逃さず、シュレーの馬上槍(ランス)は敵兵の心臓をとらえた。金属がぶつかり合う激しい音が響き、敵兵は血しぶきをあげて馬上から消えた。シュレーが手綱をしぼり、手際良く馬首をめぐらした時には、甲冑に打ち出された神聖な紋章も、兜を飾る純白の羽根飾りも、飛び散った返り血を浴び、べったりと赤黒く濡れていた。

「レイラス殿下、また敵が…!」

 シェル・マイオスが、慌てた口調でスィグルに告げた。森の奥に視線を戻すと、シュレーに向かって突進してくる騎兵が2騎、目に飛び込んできた。

「焦るな、僕が仕留める」

 スィグルはシュレーを守るために、狙いすまして魔力を放った。自分のごく近くで敵兵が次々と倒されるのを、こともなげに一瞥し、シュレーは馬上槍(ランス)をあげて、礼を送ってきた。少し呆れながら、それでもどこか誇らしい気分で、スィグルは右手をあげ、それに応えた。

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