023 開講

 開講を告げるラッパの音が高らかに鳴り響いていた。その音色に活気付いた空気に気を高ぶらせ、蹄を踏み鳴らす数十騎の騎馬を、学院の馬丁たちが慣れた様子でなだめすかしている。

 森を切り拓いて作った広場には、学院の制服を身につけた学生たちが、数十人ほども集まっていた。厳かに神官への礼をとる学生たちの間を通りぬけ、シュレーは広場の正面にある石段に近づいて行った。

 辺りには、濃厚な森の匂いが立ちこめ、運ばれてくる甲冑が打ち合って鳴り響く小気味の良い雑音が聞こえていた。長らくの休暇が明けて最初の講義は、模擬戦だという。シュレーは、前もっての教官からの知らせで、講義の始まりには正面の石段のあたりにいるようにと伝えられていた。

 日が天頂へ昇りゆく時刻の、山の空気は肌寒かった。夏が終わり始めているのが、肌で感じられた。早朝からの風が雲を吹き払っており、山々の上には、抜けるような青空が広がっている。高山の頂きを飾る万年雪の白と、淡く霞むような清潔な空の青が、ひどく眩しい。

 目を細め、シュレーは広場の正面に顔を向けた。平たく削った石を積み上げた、古い石段に、旗を掲げた柱が並んでいる。中央の柱の旗には、山エルフ族の王権の象徴である、二本の角を生やした山羊の紋章が刺繍されていた。その両脇には、旗のない柱が一本ずつ建っている。それは、模擬戦の勝者の紋章を掲げるための柱だった。二隊にわけた学生たちを戦わせ、勝った方の隊の将軍だった学生には、その指揮を称えるため、軍旗を掲げる名誉が与えられる慣わしなのだ。

 「よう。今日は、いくらかマシな顔してるな」

 親しげな声に呼びかけられ、シュレーは意外な気分で、旗を見上げていた視線を落とした。すぐ横に、イルスがやって来ていた。そして、気さくに微笑んでいるイルスの後ろには、心底うんざりしていると言いたげな顔つきの、スィグルがいた。

 「フォルデス」

「イルスだ」

 前もって予想していたらしく、楽しげに訂正するイルスの口調には、シュレーを迎え撃つような気配があった。

「おはよう、イルス」

 苦笑しながら、シュレーはイルスの訂正に従った。

「君の同居人は、相変わらず機嫌が悪いみたいだな」

「こいつはこれで普通だと思った方が気が楽だぞ」

 肩をすくめて言い、イルスはこちらに背を向けているスィグルを親指で指差した。シュレーは微笑した。

 「おはよう、レイラス」

「おはよう、猊下」

 愛想のない早口で、スィグルは振り向きもせずに応えた。イルスが口の端を歪めて笑いを堪えている。

「今日は模擬戦だけど、君は大丈夫かい」

「大丈夫って、何がさ」

 つっけんどんに、スィグルは言った。

「剣は苦手みたいだったけど、馬には乗れるのかと思ってね」

「余計なお世話だ」

 ちらりと振り向き、スィグルは金色の目でシュレーを睨んだ。

 「模擬戦て、何をやるんだ?」

 腕組みして、学生達を見渡しながら、イルスが言った。

「この学生たちを二つの隊に分けて、それぞれに将軍を決める。そして、実戦を想定して戦わせるんだよ」

 シュレーが説明するのを、イルスは不思議そうに聞いている。

「そんなことしたら、今日の陽が沈む頃には、ここにいる連中の半分は死んでるんじゃないのか?」

「イルス、いくら山エルフでも、ほんとに殺し合うほどは馬鹿じゃないと思うよ」

 したり顔で言うスィグルの言葉に、シュレーは吹き出しそうになった。

「誰も死ななかったら、どうやって勝敗を決めるんだよ」

 イルスは至って真面目に首をかしげる。もっともな疑問だった。

「甲冑の胸当てに小さな壷をつけるんだ。それを割られたら、死んだことになる。壷の中に山羊の血が入っているから、割られると本当に血まみれになる。なるべく死なないようにしたほうがいい」

 シュレーは自分の心臓を指差し、忠告した。

「ずいぶんと妙なお遊びだな」

 呆れた風に、イルスが言った。

「伝統のあるやり方だ。少なくとも、この学院ではね」

 異民族からのにべもない感想に苦笑しながら、シュレーは説明した。

 「義兄上(あにうえ)」

 不意に呼びかけられて、シュレーは表情を硬くした。振り向くと、義弟、アルフ・オルファンがゆっくりと近づいて来ていた。

 アルフはすでに、略式の甲冑を身につけていた。金属の芯をなめし皮で覆った胸当てと、紋章を象嵌した華やかな肩当てを、制服の上に着けた姿は、山エルフ族では一般的な、騎乗戦のための出で立ちだった。

 飾り羽根のついた兜を小脇に抱え、皮製の手甲の具合を直しながら、義弟はにっこりと含みのある微笑を見せ、恭しく礼をした。

「ずいぶんと、ご機嫌がよろしいですね、猊下(げいか)。神殿の方は、模擬戦などお嫌いかとご心配申し上げてましたよ」

 アルフはなぜか、勝ち誇ったような顔をしている。シュレーは内心で、それを訝(いぶか)しんだ。

「それは、気苦労をかけて済まなかった」

 柔らかく微笑み返して、シュレーは言った。アルフ・オルファンは、ちらりと視線を走らせ、イルスとスィグルを眺めた。

「こちらは?」

 愚問の類だった。学院にいる黒系種族は、たった二人だけだということを、アルフが知らないはずはない。シュレーはアルフ・オルファンに微笑みかけた。

「フォルデス、レイラス、これは私の義弟のアルフ・オルファン・フォーリュンベルグ。オルファン、あちらは、黒エルフ族のスィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。こちらは、海エルフ族のイルス・フォルデス・マルドゥーク殿下だ」

 にやにや笑いながら紹介を聞き、アルフはシュレーが言い終わるのを待たずに、言葉をかぶせた。

「義兄上は、同族の学生とはあまり、ご歓談なさらないようですが、異国のお客人は、よほどお好きなようですね」

「挨拶くらいするものだ、オルファン」

 シュレーはやんわりと抗議した。すると、アルフはふふんと鼻で笑った。

「いかにも、おっしゃる通りです、義兄上」

 芝居かがった仕草で、イルスの方に向き直り、アルフはにやりと顔を歪めた。

「共通語はお話になられるのかな、海辺の殿下」

 皮肉に満ちた物言いを聞き、スィグルが不愉快そうに眉を吊り上げた。しかし、当のイルスは、わずかに苦笑しただけだった。

「一応は」

 肩をすくめ、イルスは答えた。

「それは何よりです。片言では身のあるお話もできません」

「共通語が話せても、頭が空っぽだと話題にも事欠く始末、しかたなく皮肉を言うにしても、それ自体、面白みのないことですね」

 なめらかな響きのある声で、スィグルが話の腰を折った。にこりともせずに言い、スィグルはアルフ・オルファンの顔を凝視している。

「何の事をおっしゃっているのか」

「独り言です」

 珍しく、スィグルはにっこりと晴れやかに笑った。アルフが居心地悪そうに咳払いをした。シュレーは、スィグルの変わり身に呆れた。華奢な黒エルフの王子は、そうして愛想良くしていると、実に美しげで、面と向かって口を利くのも、面はゆいもののように見えた。

 そうした事もできるのなら、いつも愛想良くしていてもらいたいものだ。同じ憎まれ口を利くにしても、少しは目の保養になる。

 「オルファンは、この学院の大法官をつとめている。学内での出来事には全て、彼が賞罰を与える規則だ。君達もいずれはオルファンの世話になることもあるだろう」

 腕組みしたまま、シュレーは説明した。オルファンは不機嫌そうに眉をひそめただけで、何も応えようとしなかった。イルスがちらりとシュレーに視線を送ってきた。どうやら彼は、オルファンがなぜ自分に敵意を見せるのかを納得したようだった。

 「レイラス殿下、お噂はかねがね。大変美しい方が学院に来られたとかで、学寮でも夜な夜な噂話が尽きる事がありませんよ」

 目を細めて笑い、アルフは言った。

「僕のことでそれほど賑やかになるとは、山の方々は、よほど美姫に不自由なさっているらしい。我が部族の都タンジールでは、容貌について話すのは無作法とされています。誰もが美しいので、お互いを誉めはじめると、いつまでも話が進まない。魔導師というものは、たいてい、くだらない口を利くのが嫌いです」

 いかにも宮廷慣れした様子で、スィグルは満面の微笑みを浮かべながら、気の弱い者ならそれだけで胃を悪くしそうな、毒のある声を出した。イルスはその姿によほど驚いているらしく、物言いたげな視線をシュレーに送ってくる。

「すると殿下も魔導師でいらっしゃるようだ」

 にやりと口元を歪め、アルフ・オルファンは低く唸った。

「僕は例外ですよ。今こうして、あなたと口を利いている」

 スィグルは含み笑いし、むっとしたアルフ・オルファンの顔から、ついっと視線をそらせた。

「ところで猊下、あなたと彼と、どちらが山羊の紋章を継ぐのですか」

 詠うように言うスィグルの金色の目が、意地悪く光っていた。アルフ・オルファンがぴくりと肩を揺らす。シュレーは感心して、軽いため息をついた。

「オルファンだよ、レイラス」

 挑戦的な黒エルフが面白く、シュレーは笑いながら答えた。

「義兄上(あにうえ)…」

 アルフ・オルファンがうめく。

「猊下、僕の部族では、心にもない嘘をつく者の舌は、青く染まると言い伝えられています」

 皮肉たっぷりに言い、スィグルが微笑んだ。

「私は初耳だ」

 シュレーはため息とともに言った。スィグルはそれには何も応えず、引きつった顔をしているアルフ・オルファンに視線をくれた。

「オルファン殿下、あなたの義兄上の舌が青く染まっていないかどうか、確かめなくていいんですか」

「………黒系種族の言い伝えなど、一向に取り合う気にもならない」

 オルファンの額にうっすらと血管が浮いていた。

 突然、鳴り響くラッパの音が変わった。学生達の視線が、いっせいに石段の上に集まった。シュレーがそちらに目を向けると、石段の上に、三人の教官が上がって行くところだった。いよいよ模擬戦が始まろうとしている。

 「義兄上、決着をつけましょう」

 苛立ちを押し殺した声で、アルフ・オルファンが言った。

「なんの決着だ、オルファン」

「ご存知のはずだ」

 兜を抱えなおし、アルフ・オルファンはシュレーたちのそばから歩み去ろうとしていた。

「どちらが山羊の紋章にふさわしいか、日没までにはご理解いただけますよ」

 捨て台詞のように、アルフは言った。

「…それは楽しみだ」

 組み合わせていた腕をほどいて、シュレーはアルフ・オルファンの後姿を眺めた。甲冑を鳴らして立ち去る背の高い義弟の背中が、怒りに燃えていた。

 「お前の義弟(おとうと)は、例の決闘のことで、かなり迷惑したみたいだな」

 イルスが少し済まなそうに言った。

「決闘で迷惑したのはこっちだろ。なに気のいいこと言ってるんだよ、イルス。あのキンキラ頭のノッポ野郎め、いけ好かない奴だ」

 むっとした声で、スィグルが反論した。

「おっと。失礼、猊下」

 嫌味たっぷりな流し目をシュレーに向けて、スィグルは慇懃に詫びた。

「どういたしまして」

 口の端をゆがめて笑い、シュレーは言った。

「スィグル……お前、ちっとも懲りてないんだな。少しは分かってるのかと期待してたぜ」

 イルスが呆れたように言うのを、スィグルはさも意外そうに聞いている。

「分かってるって何の事だよ? 僕が何を分かってないって言うのさ」

 言い返すスィグルは、腹の底から意外だと感じているらしかった。軽く口元を覆って、シュレーはなんとか笑いをこらえた。

「無茶するのは止めるって決めたんじゃなかったのか」

 半ば諦めたような力ない口調で、イルスが応じる。スィグルは、ふんと尊大なため息をつき、自分の腰に手をあてた。

「それは、そう約束したけど、僕は売られた喧嘩は買うよ。そういうものだろう。喧嘩は無茶なことじゃない、仕方の無いことだよ」

「もうしないって言ってたくせに」

「そんなこと言ったっけ。憶えてないな。イルス、夢でも見たんじゃないのかい」

 咎めるような目をするスィグルに睨まれて、イルスは頭痛でもするように、こめかみを押さえた。

「シュレー、俺は今日はもう、こいつと顔を合わせていたくない。別の隊になる方法を教えてくれ」

「それは多分無理じゃないかな」

 シュレーは苦笑しながら答えた。

 「オルファンの物言いからして、今日の将軍の一人は彼だ。そして、おそらく、残るもう一人の将軍は、私だな。自分の隊の兵になる学生は、将軍が選ぶのが慣わしだが、彼が君たちを選ぶとは思えない。オルファンは私に勝ちたがっている。精鋭を欲しがるだろう」

「僕らが精鋭じゃないって言いたいのか、猊下」

 スィグルが目くじらをたてた。

「お前、自分が精鋭だと思ってるのか。どうかしてるぞ」

 イルスが至極まじめな口調で忠告した。スィグルはそれにもむっとした様子だったが、反論するのをなんとか思いとどまったらしい。

「学院での戦闘は騎馬兵による馬上槍(ランス)戦が中心だ。君たち、馬上槍(ランス)の経験は?」

 顎に手をやって、シュレーは異民族の少年たちの顔を見比べた。

「あるわけないだろ」

 スィグルが即答した。イルスが肩をすくめて首を横に振る。

「それじゃ、オルファン将軍の目には止まらないな。君たちは馬上槍(ランス)も使えないし、戦斧も振れない。役に立たないよ」

 シュレーはにっこりと笑った。イルスはにやっと笑っただけだったが、スィグルは明らかに腹を立てていた。

「敵地に突撃するなんて獣地味てるよ、優雅じゃないね。そんなことやってるから、なかなか勝てないんだよ、山の連中は」

 スィグルは憎々しげに山エルフ族の戦法を非難した。黒エルフ族と山エルフ族は、領境を接している。二つの部族は、領境にある湿潤な平野の支配権をめぐって、長年争ってきたのだ。

 山エルフ族は、砂漠の民が送り出してくる魔導師部隊と、矢を雨のように降らせてくる長弓隊の攻撃に苦しんできた。山エルフにとって、弓矢はともかく、魔導師たちは始末に負えないものだった。魔法による攻撃は、どんな盾を以ってしても防ぎようがない。騎馬兵の機動力にものをいわせて、敵陣に突撃をかけ、魔導師たちを殲滅する以外には、これといった対抗策がなかった。そもそも、山の部族の馬上槍(ランス)は、砂漠の魔導師の頭蓋骨を続けざまに突き砕くために開発された武器だ。

 「魔法を頼みにしすぎないことだよ、レイラス。君たちの部族は、魔導兵に絶大な自信を持っているみたいだけど、騎馬部隊の脚は速い。馬上槍(ランス)で串刺しにされたら、魔導師だってただの死体になる。それに、全部の兵が魔法を使えるわけじゃないんだろう。山エルフたちは、黒エルフなら誰でも魔導師だと信じてるようだが、そんなことはない。君たちにとっても、魔導兵は稀少な兵器なんだ。それに対する山の兵は、全員が馬上槍(ランス)を使う。物量の論理は、甘えさせてはくれないよ。最後の魔導兵が死んだあとは、君たちはどうやって戦うんだい。突撃してきた山エルフに矢を射掛けても、あまり効果はないと思うが?」

 穏やかに説明してやると、スィグルは不機嫌そうに顔をゆがめた。

「馬上槍(ランス)が部族の兵に触れる前に、魔導師が山エルフを一人残らず始末するさ」

「空論だ」

 シュレーは笑った。

「なんだって?」

 スィグルが針のような小声で答え、じろりと上目遣いに睨みつけてきた。

「失敗したときの打開策を用意せずに戦うなんて、愚か者のやることだ」

 シュレーは臆せず、正直な意見を言ってやった。スィグルは腹立たしそうに、大きな息をついている。

「イルスは、どう思うんだよ? 君たちの部族も、山の騎馬兵と戦ったことあるんだろう。故郷では、馬上槍(ランス)との戦い方は習わなかったのかい」

 逃げたなと思ったが、シュレーはスィグルを追い詰めないことにした。イルスの考えを聞いてみたかったのだ。

 イルスは少し考えるそぶりを見せてから、スィグルの顔を見下ろし、それからシュレーに視線を向けた。

「馬上槍(ランス)で攻撃されたら、よける、習ったのはそれだけだ」

「…よけるって………よけられなかったら?」

 口をぱくぱくさせてから、スィグルは助けを求めるような口調でイルスを問い詰めた。

「よけられる」

 イルスは困ったように答えた。

「なるほど」

 妙な感心をして、シュレーは破顔した。スィグルがますますむっとする。

「おい猊下、これは空論じゃないって言うのか!?」

「彼は速いよ、確かに。馬上槍(ランス)をかわすのなんて、海エルフの兵には大して難しいことじゃないのかもしれない」

「僕の部族がノロマだって言うのか。なんて侮辱だ!」

 激昂して、スィグルが言った。ずいぶんと気位の高い黒エルフだ。

「俺たちからみたら、お前らはみんなノロマだ。仕方ないだろう、そういうものなんだから」

 当惑した顔で、イルスが応えた。かっとしたスィグルが、目にも止まらぬ速さで平手打ちを食らわせようとした。しかし、イルスはわずかに首を巡らせただけで、事も無げにそれを避けた。勢いづいていたスィグルは、獲物を失ってフラリとよろけた。

 「く…くやしい……」

 低い声でスィグルがうめいた。

「レイラス、彼は速いって言っただろう。甘く見てたのかい」

「スィグル、あんまり暴れてると、教官に目をつけられるぞ」

 畳み掛けるように、シュレーとイルスが口々に忠告した。

 その時だった。

 「殿下は、我が学院の伝統に敬意を払えぬとおっしゃるのか!!」

 突然響き渡った怒声に驚かされ、シュレーはびくりと身を硬くした。スィグルが目を見開いて、広場の石段を振り向く。イルスが眉間に皺を寄せ、石段の上に立っている教官たちを見遣った。

 「マイオスだ」

 石段の上で、教官たちに詰め寄られている金髪の少年を見つけて、シュレーは呟いた。学院の制服を身につけてはいるものの、シェル・マイオスの明るい金髪は、快晴の空の下ではとびぬけて目立っていた。束ねもしていない、金色の長い巻毛は、本物の黄金でできているように、場違いな優美さを醸し出している。

「…びっくりした」

 隠し切れないため息をついて、スィグルが小声で言った。

「どうしたんだ、あいつ」

 イルスが心配そうに囁いた。広場に集まった学生たちが、物見高くざわめいている。シェル・マイオスの表情は、ひどく暗かった。心なしか、いくらかやつれたようにも見える。思いつめたように眉を寄せ、唇を引き結び、森エルフの少年は、背の高い教官に囲まれて、弱い生き物のように大人しくうつむいていた。

 「僕は…戦闘には参加できません」

 震えているが、強い意思を感じさせるシェル・マイオスの声が聞こえた。

「模擬戦闘への参加は本学院の学生の義務である!」

 甲冑を着けた山エルフの教官が、雷鳴のような強い声で叱責した。

「殿下、ご体調がすぐれないのであれば、本日の模擬戦闘はご欠席いただいても差し支えございません」

 甲冑の教官をやんわりと押しのけて、別の教官が告げた。しかし、シェルは頑強に首を振った。

「戦闘には参加できません。今回も、その次も、ずっとです。もう戦も起こらないはずです。何のために、こんなことをするんですか」

 言い終わる頃には、シェルはうつむき、その声は消え入りそうだった。シュレーはため息をついた。

 「とっとと森へ逃げ帰ればいいんだ、腰抜けめ」

 微かな声で、隣にいたスィグルがつぶやいた。しかし、その声には以前のような覇気がなかった。シュレーはうな垂れたスィグルの横顔を盗み見て、薄く笑った。

 「模擬戦闘には参加していただく」

「それほどお嫌でしたら、すぐに退場なさるとよろしいでしょう。模擬戦とはいえ、戦術は実戦と変わりません。気迫の足らぬ兵は、長くは生きておられませんので」

 教官の物腰はやわらかだったが、丁寧に絹でくるんだ石をぶつけるようなものだった。言葉にひそんだ明らかな侮蔑の気配を聞き取り、学生たちが次々と忍び笑いした。どよめくような笑い声の中でも、シェル・マイオスは頑固そうにうつむいたまま、じっと拳を握り合わせ、言葉を翻そうとはしなかった。

 「本日の模擬戦闘の将軍の名をお呼びする。呼ばれたら壇上へ。課題をご説明する」

 立ち尽くしているシェルを押しのけ、甲冑の教官が一歩前へ進み出た。

「西の将軍、アルフ・オルファン・フォーリュンベルグ殿下」

 教官の声が告げ終わるのを待たず、学生たちが大声でアルフ・オルファンの名を呼んだ。勝ち誇ったような微笑を浮かべながら、アルフ・オルファンが壇上に姿を見せた。

 晴れがましい壇上から、アルフは、強い視線をシュレーに向けてきた。挑みかかるように笑う義弟の視線を受け止め、シュレーは無表情になった。深い息をつき、教官が次の名前を告げるのを待つ。

「東の将軍、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス猊下」

 学生たちのある者はどよめき、ある者は言葉を失って沈黙した。シュレーはアルフ・オルファンの視線をかわしてうつむき、ため息をついてから、顔をあげた。

 「あれはお前のことか」

 抑揚のない声で、イルスが尋ねてきた。

「ちがう。私は、シュレー・ライラル・フォーリュンベルグだ」

 囁くように答えてから、シュレーは歩き出した。壇上へ上がるために。

 ちらりと振り向くと、イルスが腕組みしてこちらを見ていた。イルスはただ無表情にこちらを見ているだけだったが、シュレーはなぜか、耐え難い恥を感じていた。

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