018 竜(ドラグーン)は歌う

 イルスはなぜか、料理ができるようだった。シェルが熱心に説明してくれた事が本当なのだとしたら、イルスは例の黒大理石で飾られた食堂の厨房を乗っ取り、その場でこの料理をつくって来たということになる。

 とりたてて豪華というものではなかったが、四人分の腹を満たすのに十分そうな量の食べ物が、荷物の中に詰められていた。思い思いの場所に腰を下ろし、スィグルたちは食事をとった。見上げると、月は中天を過ぎかけている。シェルも酒には弱いらしく、喉を潤すために飲んだ分だけでも、顔を赤くして、よりいっそう陽気になっていた。

 「おいしいですか? おいしいですよね!」

 なぜかスィグルの近くに腰をおろしているシェルは、執拗にスィグルの感想を求めてきた。シュレーは、もうスィグルには特別何の興味もないし、もともとそんなものは無かったというような顔をして、イルスと楽しげに話している。スィグルは深々とため息をついた。

 「うるさいな。ちょっとは黙れよ」

 シェルの顔から目をそむけて、スィグルはつとめて冷たく言った。空腹なはずなのだが、あまり食欲がなかった。

「おいしいと思うんですけど。イルスがせっかく作ってくれたんだし…おいしいんだったら、そう言ってあげた方が…」

 しょんぼりしているシェルの声を聞いて、スィグルはなぜこの森エルフがうるさく料理の味について聞くのかを理解した。

「イルス」

 憮然と頬杖をついたまま、スィグルは数歩先の岩の上に腰掛けているイルスに呼びかけた。シュレーと話していたイルスが、不思議そうにこっちを見る。

「おいしいよ、料理」

 笑いもせずに、スィグルは嘘をついた。本当は、料理の味など感じないのだ。他の三人が口をそろえて不味いと罵る食堂の料理も、イルスが作った料理も、スィグルには少しも変わらなかった。

「嘘つくな」

 苦笑して、イルスが言った。スィグルは驚いて、葡萄酒のグラスを落としそうになった。

「なんで嘘だと思うんだよ」

「お前、ちっとも食ってないぞ」

「…ああ……あんまり腹が減ってないんだよ」

 少しホッとして、スィグルは笑いに顔を崩した。

「それこそ嘘だな。お前は嘘つきだ」

 イルスは笑いながら文句を言っているが、いくらかは満足そうだった。

 「どうして料理なんかできるんだい。海エルフは男が料理するものなの?」

 スィグルは、少しイルスに済まないと思っていた。だから、努めて楽しげな口調をつくって尋ねた。だが、それを聞いたイルスは、突然、面白くなさそうな顔をした。

「違う。俺は5歳の時から最近まで、師匠の庵で暮らしていたから、自分の食うものは自分でつくらなきゃ仕方なかったんだ。女手がなかったからな」

「え…じゃあ、イルスって、宮殿育ちじゃないの!?」

 唖然として、スィグルは心底から頓狂な声を出してしまった。イルスが苦笑する。

「そういうことだ」

 スィグルは、イルスが食堂の給仕役にまでいちいち挨拶する理由が、やっとわかった気がした。彼は、人にかしづかれて暮らすのに慣れていない様子だった。イルスは召使いが何かをするたびに、いちいち「ありがとう」と言うので、うるさくて仕方がない。初めは気さくなのだろうと思っていたが、それにしてはイルスは腰が低すぎる。黒エルフの都タンジールでは、下級貴族だって、イルスよりは威張って暮らしているものだ。

 「なんで、そんな事になったんだよ。宮廷にいられないような理由でもあったの?」

 悪気無く尋ねてしまってから、スィグルはしまったと思った。イルスの顔が、今まで見たことのない種類の表情を浮かべたからだ。それは、触れられたくない事情について話を向けられた者特有の表情だった。

「さあな。族長の命令だから、俺は詳しい理由までは知らない。俺がいると都合の悪いことが、あったのかもしれない」

 低い調子の声で、イルスは説明した。言いたくないなら、うまくはぐらかせば良さそうなものだが、イルスには、そんな器用なことはできないらしかった。

「母上が亡くなってすぐ、俺は師匠の庵へ、同腹の兄は辺境の領境を警備する駐屯軍に送られた。俺も、もうちょっと歳を食っていたら、従軍できたのかもしれない。いや…だめかな?」

 珍しく、うつむいてしまったイルスを見て、スィグルは責任を感じていた。イルスは自分が人質に選ばれたのも、父親に厄介払いされたのだと感じている風だと気付いていたのに、そんなことも忘れてしまうとは、自分は思ったより動揺しているのかもしれなかった。

 「じゃあ、君の剣術は師匠の直伝ということか。海エルフでは、そうやって技術を学ぶものなのかい」

 練習試合でイルスと立ち会ったことを、シュレーは思い出しているようだ。

「いいや。普通は兵学校に行く。優秀なら、その後もう少し学んで、将官になる。貴族でも、平民でもそうだ。俺が特殊なんだ」

 そう答えられて、シュレーも気まずそうな顔をした。なんとなく気味がよかったが、スィグルは笑うわけにもいかず、ただ押し黙っているしかなかった。

「どうして…そんな事に?」

 罪のない顔で、シェルがなにげなく尋ねた。シュレーが顔をしかめるのが見えた。どうやらシェルには、イルスが感じている引け目を理解できないようだった。戦士としての立身を願っているイルスが、部族の精鋭として教育される一団に参加できなかったことに負い目を感じているのは、誰が見ても分かることだ。

 いつも傭兵に頼ってばかりいて、自分たちは甲冑を着けることさえ疎む森エルフの卑怯者には、イルスの気持ちなど分かるまいと思って、スィグルはムッとした。だが、イルスはちょっと居心地悪そうに笑って、シェルの顔を見つめただけだった。

 「これのせいだ」

 そっけなく言って、イルスは彼の額を覆っていた額冠(ティアラ)を外した。部族長の一族であることを証す額冠(ティアラ)を、人前で外すことは不作法だと考えられていた。スィグルは呆気にとられかけたが、イルスの顔を見て、納得がいった。額の中央、眉間のすこし上あたりに、指先ほどの小さな青い石がついていた。それはイルスの瞳と良く似た色で、宝石のように澄んでいたが、装飾品の類でないのは、一目見ただけで理解できた。

 「竜(ドラグーン)の涙だ」

 ぽつりとシュレーが呟いた。さすがの彼も、心底驚いている様子だった。もちろん、スィグルも驚いていた。

「俺の部族では、頭にこれを付けて生まれてきた子供は、周りに災いを起こすって信じられてる。なんでも、特殊な魔法を持って生まれてきた証拠らしいな。神官がそう言ってたよ。俺と関わると不幸になると、みんな信じてる。母上が死んだのも、俺のせいだと言うヤツもいる。もしかしたら…親父殿もそう思っているのかもしれない。石のことを知っていて、俺とまともに付き合ってくれるのは、兄者と師匠だけだった」

 イルスはあまり興味がなさそうに説明している。スィグルはすぐには何も言ってやれないほど驚いていた。

 「竜(ドラグーン)の涙」とは、特定の者だけが生まれつき身体に備えている器官のことだ。それは、魔法の能力と深い関わりを持っていた。海エルフ族で、それが災いの証だと考えられているというのは、スィグルには初耳だったが、黒エルフでも、竜の涙を持って生まれた者が、特別な存在だと考えられているのは同じだった。

 それを額に備えている者は、訓練次第で、けた外れの魔力を発揮する。魔法を操る能力は、誰にでもあるものではなく、魔法部族だと名高い黒エルフでも、部族民の半数にやっと手が届く程度の割合だ。子供が魔力を持って生まれるのは、黒エルフでは吉兆だと考えられていた。魔法を使う子供は、将来、部族を守る魔法戦士に育つ。だから、強力な魔力を証してくれる「竜の涙」を備えているというのは、ある意味とても名誉なことだ。

 だが、持ち主に強い魔力を与えるこの額の石は、宝石のような無機の結晶ではなく、生きた身体の一部で、死ぬまで成長し続ける。成長の速度はゆるやかで、見た目にはわからない程度だが、魔力を使うのに比例して成長するため、自分の素養を頼みに魔法を使い続けた「竜の涙」の持ち主が、ある時突然、石に脳髄をつぶされて死に至ることが珍しくない。石の成長につねに注意しながら使うか、あるいは全く魔法を使わないように努めるしか、「竜の涙」による圧死を免れる方法はない。

 イルスが魔法を使うという話は、まだ聞いていない。使えないのかもしれないし、あるいは、単に自覚がないのかもしれない。スィグルは背筋が寒くなるような思いがした。魔力を持っていても、それが必ず表に出るとは限らない。ある日突然に発露した魔法を見て初めて、自分に魔力があるのを知るものなのだ。黒エルフでは、そういう力を示した子供には、必ず魔法を制御するための訓練が施される。制御の方法を知らないまま魔力を抱えていると、いつか、自制できない状態で魔法が暴走しだすことも考えられるからだ。

 だが、単に制御できないだけなら、ある意味、本人にとっては大した問題ではないのかもしれない。スィグルの魔法が制御できなくなった場合、体にたまった力が出尽くすまで魔法をまき散らし、周りを破壊しつくせば、すぐに力つきて意識を失う。その一時さえ、スィグルに近づかないようにすれば、部屋が壊れるのに悩むのがせいぜいだ。

 しかし、「竜の涙」を持っていると話は違ってくる。突然暴走しはじめた自分の力を止められず、急激に成長した石に脳髄を押しつぶされて死ぬことになる。本人の死はもとより、その膨大な魔力が与える被害も甚大だ。黒エルフでは、「竜の涙」を持った子供が生まれたら、産湯の熱も冷め切らぬうちに、その子を王宮に引き取るしきたりになっている。その子がたどる運命は、部族を守る偉大な魔法戦士としての栄華を得るか、力を制御できないと見限られて命を絶たれるかのどちらかだ。

 「生まれてすぐなら、切開して取り出す方法もあるらしいが…」

 口元を手で覆って、シュレーが言い淀みながら言った。その口振りからして、神殿の者たちも、「竜の涙」の効用を知っているらしかった。

 「ま…魔法は? 使えるの?」

 言い終わらないうちに、スィグルは自分の手の傾いたグラスからこぼれる葡萄酒に気付いた。だが、それに驚く気さえしなかった。

「使えない。ときどき、未来が見えるけど、でも、それだけだ」

 平然と、イルスは答えた。

「冗談じゃない!!」

 青ざめて、スィグルは叫び、無意識に立ち上がっていた。スィグルの足下で、グラスの割れる音がした。イルスの方が、よほど驚いた顔をしていた。

「使えるんだよ、使えるんじゃないか! 未来視するんだろ!?

どうやって? ちゃんと意識してできるの!?」

 血相を変えて近寄ってくるスィグルに、イルスは仰け反っている。ぽかんとしているイルスの頭を両手で掴んで、スィグルは彼の額の青い透明な石を見おろした。表に出ている部分は、小指の先ほどの大きさしかないが、頭の中にどれくらいの大きさのものが埋まっているのかは知りようがない。脳に絡みつくようにして成長する「竜の涙」の大きさと形は、持ち主が死んだあと、遺骸から取り出して初めてわかるのだ。

 タンジールの王宮には、歴代の魔法戦士たちが遺した、様々な色と形の「竜の涙」が保存されている。スィグルは子供の頃、老師に連れられて、一度だけそれを見せてもらったことがあった。どれも、透明で美しい石ばかりだったが、人の頭の中に収まるには大きすぎるように見えた。そこまでの大きさに育った「竜の涙」のために、その持ち主が命を落とすことになったと聞いて、スィグルは目の前に並べられた美しい石たちに、まがまがしい力を感じたものだった。

 王宮に仕えた「竜の涙」を持つ魔法戦士たちは、果てしない戦いの中、部族を守るために、命の危険を知りながら、魔法を用いて戦ったのだ。「竜の涙」は、ひと思いには持ち主を殺さない。頭の中で徐々に成長する異物に耐えながら生きながらえ、最期には、脳髄を押しつぶされる苦痛に悶えながら、長く引き延ばされた死に襲われるのを待つことになる。その死様はこの上なく凄惨なものだという。

 「意識しては無理だ。夢に似てるかな……たまに、明け方頃に見たり……起きてる時にも、断片的に閃くことはあるけど、大して役にたたない。一瞬だしな」

「じゃあ…じゃあ、未来視が始まっても、自分では止められないんだね!?」

 スィグルは目眩を感じた。イルスは自覚していないようだが、無意識のうちに制御できない魔力を発揮している。スィグルのように、手を触れずに物を動かしたり、傷を癒したりする力なら、誰の目にも明らかだが、未来視は見過ごされることが多いのだ。イルスがどの程度遠い未来のことまで、どの程度的確に視るのかによっては、使っている魔力が大きい場合も考えられる。誰も知らないうちに、本人さえ気付かずに、イルスは死に近づいているかもしれないのだ。

 「フォルデス、『竜(ドラグーン)の涙』は成長するんだ。以前に比べて、この石は大きくなったかい?」

 注意深く、シュレーが尋ねた。イルスがスィグルの手をどけさせながら、しばらく考え込む気配を見せる。

「なってない…と思う」

「未来視した後に、頭痛がしたりしない?」

 スィグルは性急に尋ねた。わけも分かっていないイルスを不安がらせるのは良くないと思いはしたが、スィグル自身が不安なのだ。

「……たまには」

「………!」

 口を開いたまま、スィグルは言葉を選びあぐねてしまった。イルスが動揺した目をしている。その額に埋まった石を透かし視られるものなら、そうして確かめたいとスィグルは思った。イルスの「竜の涙」は、イルスが無意識に力を使うたび、脳の中でちゃんと成長している。そうやって、少しずつイルスを殺している。

「なんだよ?」

「二度と力を使うな!」

 じれたイルスが呟くのと、スィグルが大声を上げるのと、ほとんど同時だった。

 「このままじゃダメだ。タンジールから魔導師を呼ぶよ」

 誰に言うわけでもなく、スィグルは宣言した。今からでも、魔法の制御法を身に付けさせれば、気まぐれに発露する未来視の力を抑えられるかもしれない。少なくとも、イルスの力がどれ程のものなのか、部族の魔導師なら判定してくれるだろう。

 「お前、俺が長生きしないって心配しているのか?」

 世間話でもするような、暢気な口調で、イルスが言った。

「それなら知ってる。だから気にするな。俺の師匠にも予言の力があって、俺の一生はもう師匠の口から予言されてるんだ」

「…なんて、予言されてるんだ」

 シュレーが無表情に尋ねた。イルスは何気ない視線をシュレーに向けた。シュレーの顔には、どんな表情も浮かんではいなかったが、それは、何かを隠すために無理に創り出した仮面のように、スィグルには見えた。

「俺は子供を二人もうけて、その子が成長するのを見ずに戦死する。師匠の予言が的中すれば、そうなる」

「そんな事を知っていて、よく平気でいられるな」

 シュレーはイルスから目をそむけて、静かに言った。

「戦死するのは仕方ない。俺は剣の道を選んだんだから」

「予言は、よりよい未来を掴むために使うものだと君は言っていたけど、自分の運命には大人しく従うというのか」

「生き続ける事に意味があればそうする。でも、死ぬことに意味があるなら、俺は死んでもいい」

「父親を失うと子供は不幸だ。後ろ盾もなく育つのは惨めだよ。君は血を残してはいけない、フォルデス」

 顔をあげたシュレーの眉間に、淡く皺が浮いていた。イルスは何かを悟っているように微笑で応えた。

「お前もつらかったか?」

 シュレーは軽く目を伏せかけただけで、何も答えなかった。視線をそらせて、シュレーは学院を囲む外壁に顔を向けた。灰色の分厚い壁は、相変わらずそこに立ちはだかっていた。

 「イルスのお師匠様の予言能力は、確かなんですか?」

 ずっと押し黙っていたシェルが、よく通る綺麗な声で問いかけてきた。

「師匠の予言は、外れることもある。未来は一定のものじゃないからな」

「じゃあ、イルスの未来も、予言と違うことだってあり得るんですよね」

 真剣な顔で、シェルは言い募ってくる。

「……でも、俺も視たんだ。自分が、戦場で死ぬのを」

 すまなさそうに笑って、イルスは言った。スィグルはイルスの魔力の強さを確信した。少なくとも、十年近く先の未来を、イルスは未来視したのだ。

「じゃあ、僕らはずっとこの壁の中から出られない方がいいです。ここにいる限り、イルスは戦場になんか行けないし、そこで死ぬこともない」

 シェルは落ち込んではいたが、強い意志の感じられる声で言った。言い得た話だった。

「ここで一生暮らすんじゃ、ダメなんですか?」

 シェルはなぜか、シュレーに顔を向けた。学院の外壁を眺めていたシュレーが、ゆっくりとシェルに視線を戻した。しかし、シュレーは無表情にシェルを見つめるだけで、森エルフの少年の問いかけに答える気配もない。シェルが動揺して、眉を寄せる。

「そりゃあ、この学院にいる限り、僕らは何もできないし、ただ毎日を送るだけかもしれないけど……でも、権力とか、戦とか、額冠(ティアラ)の継承ばかりが、この世界の全てじゃないと思う。みんなは、やっぱり、そういう事に興味があるんですか。ここを出て、戦をしたり、政治をしたり…それが望みですか?」

 シュレーがため息をついて、困ったように微笑した。シェルは今にも泣き出しそうにも見えたし、何を言われても屈しそうにないようにも見えた。

「僕らがここに人質としている限り、四部族同盟は続くし、戦いは起こらない。そうでしょう? だったら、ここで生き続けることでも、僕らはちゃんと役に立ってる。それは、意味のあることだと思います。殺し合ったり、憎み合ったりするより、その方がずっといいよ」

 シェルは一度うつむいてから、イルスに視線を戻した。

「戦場で死ぬのが剣士の名誉だっていうのは分かります。でも…イルス、あなたが死ぬっていう戦場では、どの部族が殺し合ってるんですか。僕たち森エルフと? それとも、他の部族ですか? 今、こうやってやっと平和になったのに、また殺し合うのを望むなんて、おかしいです。僕はどの部族とも殺し合いなんてしたくないし、イルスにも死んで欲しくない。みんなは、そうは思わないんですか?」

 悲しそうな目をしたシェルに責められて、イルスは何と答えればいいのか分からないという顔をしていた。シュレーは無表情にシェルの顔を眺めている。いつもシュレーの顔をうっすらと覆っている微笑の仮面を剥がしただけでも、大したものだとスィグルは思った。

 しかし、スィグルは、それを誉めてやる気はなかった。シェルに腹を立てているからだ。

 この森エルフは、イルスがどんな思いで自分の未来を見つめているのか考えもしない。イルスは別に、戦が起こるのを望んでいるから、自分の死に場所が戦場にあると未来視したわけではない。それは、この先に起こる動かしがたい出来事であり、予知者は単にそれを垣間みるだけだ。イルスは戦場で死にたがっているわけではなく、自分が戦死するのを「知っている」だけに過ぎない。このままだと、イルスが好むと好まざるとに関わらず、その運命は彼に降りかかるのだ。

 そんなことも理解できないで、ちっぽけな正論を振りかざすシェルに、スィグルは腹を立てていた。

 「お前のは、ただの屁理屈だ。自分の家族が殺されても、そう思えるか?」

 腕組みをして、スィグルはシェルを睨み付けた。背中の傷がうずくような錯覚がした。シェルが不意を突かれたように、スィグルの方に振り向く。

「自分の手を汚したことがない奴に、そんなことを言う資格があるか? 目の前に自分を殺そうとしてる敵がいても、お前はそうやって、ありがたい御講釈を垂れてやるのか? お前達だって、今まで数え切れないほど人を殺してきたんじゃないのか。どう違うんだよ、言ってみろ!」

「もうよせよ。言ったって始まらないだろ」

 スィグルの袖を引き、イルスが疲れた声で忠告した。それを振り払って、スィグルはシェルに歩み寄った。怯えているのは見え見えだったが、スィグルが間近で睨み付けても、シェルは唇をかみしめて耐え、いかにも頑固そうな視線を返してきた。

 森エルフの衣装である、華やかな長衣(ジュラバ)をまとったシェルの胸ぐらを、スィグルは手加減無く掴んだ。

「ここで人質をやってりゃ、いつまでも平和がつづくなんて本気で信じてるのか!? お前、馬鹿だよ、何も知らないんだな。この同盟はな、神殿が仕組んだことだ。そうでもなきゃ、戦いは今でも続いていたし、いずれは僕がお前とお前の家族を血祭りにあげることだって、十分あり得たんだよ! これからだって、神殿の都合でいつでも同盟は破棄される。そうなったら、お前も、僕も、イルスも、敵の部族の者としてここで殺されるんだ!! そうじゃないのか、猊下(げいか)? この坊やに本当のことを教えてやったらどうだい」

 シェルを突き放して、スィグルはシュレーを振り返った。シェルは無様に地面に転がった。シュレーは目を細め、怒りに高揚しているスィグルの顔を見た。

「次の戦機が訪れるまで、他部族の足を封じる…そのための人質だ。戦端が開かれて、敵対部族となれば、殺すほかないだろう」

「…うそです、そんなの!」

 シェルの声は悲鳴のようだった。

「無駄だと思うぞ。勝機があれば、族長は兵をあげるだろう。そのために、死んでも惜しくない者を人質に選んだんだからな」

 イルスが、場違いなほど平静な声で言った。

「僕の部族もそうだ。一人の命にかかずらわって、部族全体を窮地に陥れるような馬鹿なまねはしない。それだけの意志があるから、族長になれるんだ」

 苦々しい気持ちで、スィグルは父の顔を思い出していた。ひどく子煩悩で、いつも自分に甘い父、リューズ・スィノニム。領地でも、新しい砂牛でも、望めば何でも与えてくれた。スィグルが喜んで礼を言うと、父はいつも、これはお前が自分の命と自由の代償として手に入れたものだと言った。礼など必要ない。お前を襲う運命に対する、ただの購いだ、と。でも、父リューズは一度も、逃げ出しても構わないとは言ってくれなかった。命汚く逃げ延びるよりも、アンフィバロウ家の者として誇りある死を選べと教えられてきた。

 もしこのトルレッキオで命を奪われるような事があっても、スィグルはその運命を受け入れる覚悟だった。二度は逃げない。浅ましく逃げ回るのは、もう十分だ。

 「家族を見捨てるなんて…どうして、そんなこと考えられるんですか。僕が死ぬってわかってて、それでも戦いを選ぶなんて、僕の家族がそんなことするわけないです! どうして、そんなこと、簡単に言うんですか!?」

 シェルはスィグルを睨み付けたまま、泣いていた。簡単に泣く奴だと、スィグルはシェルを蔑んだ。その甘ったれた物言いにも腹が立った。まるで、あの時の自分と同じ。スィグルは言葉を失って、シェルを睨みつけた。

 「すでに一度、部族に捨てられたことがあるからだ」

 自分のものではない声に、それを告げられて、スィグルは立ちすくんだ。振り向くと、シュレーの冷酷な視線に行き当たった。

「黒エルフ族の族長、リューズ・スィノニムの進軍を止めるため、森エルフ族は傭兵を雇って、スィノニムの息子と妻をさらわせた。彼らは四年間を森エルフの虜囚として過ごし、その後、部族の軍に救出された。スィノニムの妻の名はエゼキエラ。二人の息子の名は、スィグル・レイラスとスフィル・リルナム。森エルフ族は、彼らを地下墓所への生け贄に捧げたと神殿に報告している。君のことだろう、スィグル・レイラス・アンフィバロウ殿下。よく生きていたね」

「…知ってたのか」

 スィグルは、自分の顔がひきつるのを止められなかった。

「悪いんだが、神殿はいろいろと良く知ってる。各地の神殿が、聖楼城に向けて、定期的に報告を送ってくるからね。その記録を使って、ここに来る前に、私は君たちのことを調べた」

 にこりともせずに、シュレーは平然と答えた。

「……全部…知ってたんだな」

 何もかも知ってるんだ。そう思うと、スィグルには、自分の手がカタカタと震え出すのが見えた。シュレーは心なしか悲しそうに見える微笑を浮かべた。

「マイオス、先に傷つけたのは君の部族の方だよ。恨みを受け取るべきだ。君たちは、レイラスと彼の弟を拷問にかけて、墓穴に閉じこめたんだ」

 シュレーは知ってる。あの暗闇の中、スィグルがどうやって生き延びたのかも、知っているのかもしれない。

「嘘だ…そんなこと知らないです……僕がやったんじゃない。同じ森エルフでも……僕には…どうしようもないじゃないですか…!」

 混乱しきったシェルの声が、スィグルの耳をついた。

「レイラスも、同じ黒エルフだというだけで拷問されたんだよ。彼はまだ、王宮から一歩も出たことがなかった。君の同族を一人も殺したことがないし、傷つけたことさえなかったんだ。今の君と同じようにね」

 スィグルの足下の小石が、かたかたと揺れながらふわりと浮き上がった。魔法が暴走しかけている。でも、それを制御する方法を、スィグルは思い出せなかった。不意に、イルスの手がスィグルの手首を掴んだ。驚いて視線を向けると、イルスの青い目がじっとこちらを見上げていた。あいつを黙らせてくれ、イルス。スィグルは声にならない声で、イルスに懇願した。

 「レイラス、マイオスに背中の傷を見せたやったらどうだい。きっと彼も納得してくれるよ。『砂漠の黒い悪魔の息子にして、おぞましき獣の子、汚濁の中にて死すべし』……君の背中には、森エルフの文字でそう書いてある。森エルフの鉈(マチェテ)で彫られたんだ。マイオス、君は、その痛みと屈辱を思うべきだ」

 一見、優しげにも思える微笑を浮かべて、シュレーは言った。スィグルは自分の歯がカチカチと鳴る音を聞いた。

「……殺してやる」

 震える舌で、スィグルは呟いた。シュレーは相手が違うだろうと言いたげに、薄笑いを浮かべ、頭を抱えて蹲っているシェルに目を向けた。シュレーに掴み掛かろうとするスィグルの両腕を、立ち上がったイルスが、ごく自然な動作で掴んだ。イルスを吹き飛ばしてシュレーに襲いかかるのは、スィグルにはた易いことだった。だが、スィグルはそれを必死で堪えた。

 「他人の秘密をペラペラとよく喋るやつだ」

 イルスが穏やかに抗議した。

「レイラスを楽にしてやったんだよ。理由を知らなければ、マイオスはいつまでも彼に付きまとうだろう。そうするにしても、それなりの覚悟が必要じゃないかと思ってね」

「そんなこと、スィグルに自分でやらせれば済むことだ」

「レイラスには、まだ、その勇気はない。私はいつまでも茶番に付き合っていられないよ、フォルデス」

「お前も殴られたいのか?」

 困り果てたように、イルスが尋ねる。シュレーが笑って首を横に振った。

 「ほ…本当なんですか? いまの話……ほんとうに?」

 頭を抱えたまま、くぐもった涙声でシェルが言った。

「僕の部族が……そんなことするわけないです。みんな、いい人ばかりなんだ。いつも、人を傷つけちゃいけないって……教えられてたんです。本当に…みんな、そう言って……」

「お前の……」

 こみ上げる言葉で、スィグルの喉が詰まりそうになった。声が震えるのを抑えようと、スィグルは歯を食いしばり、息をついた。

「お前のお優しい同族に聞いてみてくれよ……生きたまま墓穴に閉じこめるのは、傷つけたうちに入らないのかって。それとも僕は人じゃないのか? 獣の子だから、死んでもいいのか? 鞭で打っても、剣で切りつけても、生きたまま獣に喰わせても、少しも気がとがめないっていうのか!? ケダモノなのはお前らだ! お前らの方だ!! お前らなんか、みんな、獣に喰われて死ねばいいんだ!!!」

 目を閉じたまま、スィグルは声を限りに叫んだ。言葉を重ねるごとに、なぜか胸が苦しくなった。

 不意に立ち上がったシェルが、何も言わずに針葉樹の森の中へ走り去った。スィグルはその足音が遠ざかるのを聞いた。シェルにはねのけられた枝の鳴る音が、遠くの暗闇へと遠ざかっていく。

 胸が焼けるような気がして、スィグルはいつまでも顔を上げられなかった。

 その後ろ姿がすっかり見えなくなるまで見送ってから、シュレーが疲れたような声で、再び話し始めた。

「レイラス、君は、私やマイオスに何をして欲しいんだい。ここで君に殺されて死ねと言われても、私は困る。確かに、君は不幸だった。それは事実だと思うよ。だが、私もマイオスも、君の不幸には責任がない。憎いというなら、憎むのも君の自由だ。だが、私には私の都合もある。君が自分の都合を主張するなら、私にもその権利があるだろう」

「…そんなもの知るか!」

 堪えきれず、スィグルは貯えた魔法の力を、シュレーの足下に叩きつけた。小石と土が弾き飛ばされ、シュレーの体にまともに打ちかかった。しかし、シュレーは目を閉じて顔をそむけただけで、それから逃れようとはしなかった。

 「マイオスの言葉を借りるわけではないが、今の私には、世界のこの状況を、どうすることもできない。君の憎しみに、どう報いてやることもできないよ。だが、いずれは、それだけの力をつけて、君の恨みに応えよう。だからそれまで、待ってくれないか?」

 神殿で教えを垂れる竜(ドラグーン)の末裔の声だった。シュレーの緑色の瞳を、スィグルは震えながら見おろした。シュレーは、物怖じする気配もなく、まっすぐにスィグルの凝視を受けとめていた。

 「……あいつらの指を一本ずつ切り落としてから、地下の穴蔵に閉じこめてやりたいんだ。ずっとそう思ってきた」

 かすれた声で、スィグルは言った。

「いずれは、君にそれだけの力をあげるよ。その力を使うかどうかは、君の自由だ。許すのもいいし、君の痛めつけた連中を拷問して殺すのもいい。もし殺したとしても、私は君を非難しないよ。…もちろん、賞賛も、しないが」

 スィグルを見つめるシュレーの顔には、石つぶてが付けた細かい傷があったが、それでもお、神殿の祭壇から民を見おろす大神官の趣があった。スィグルは力無く首を垂れた。

 「どうして欲しいんだ、猊下(げいか)」

「永遠の友情を誓ってくれ」

 こともなげに、シュレーは言った。スィグルは自分の耳を疑った。

「どういうことだよ」

「言った通りの意味なんだが。君のことが気に入ったので、友達になりたいんだよ」

「僕はいやだ」

「それは君の都合だ」

 楽しげに、シュレーは反論した。

「詭弁だよ!」

 目眩がする思いがして、スィグルは頭を振った。

「そうかな、フォルデスはどう思う?」

「回りくどいし、余計なことをやりすぎだ」

 スィグルの腕を掴んだまま、イルスが呆れたように言った。

「僕はあんたが嫌いだ。神殿の犬め。理由はそれだけで十分だろ。よくもそんな事が言えるな!? どうかしてるんじゃないのか!? あんたのジジイが退屈しのぎに弄んでる部族の者にも、家族もいれば、血も流れてるんだ。お前らの神殿なんか、みんなブッ潰してやる!」

 激昂して、スィグルは喚いた。

「そうか……私もそう望んでるよ、レイラス」

 ひどく満足げに、シュレーが満面の微笑をたたえた。スィグルはふと毒気を抜かれる思いがして、神々しいシュレーの微笑に見とれた。

 その時、地を震わすような音が聞こえた。それは、何かの哭(な)く声のようだった。地の底からわき上がるような響きで、それは、ファーーーーンと長い声をあげた。

 「なんだ…この音?」

 辺りを見回して、イルスが言った。しかし、シュレーは大して動揺する風もなく、足下の地面を見おろしただけだった。

「竜(ドラグーン)だ。哭(な)いている」

 何もかも知り尽くしているのかと思わせる言葉で、シュレーが言った。

「学院の地下には、竜(ドラグーン)が棲んでいるという伝説がある。時折聞こえるこの声は、その竜の哭く声だと言われている。誰もその竜を見たことがないが、なぜか竜がいることを疑わない」

 シュレーの言葉に応えるように、竜がまた哭いた。何かを探し求めてさまよっている姿を思わせる、悲しげな声だった。哭き声が聞こえるたびに、地面の下で、大量の空気が震える気配がした。山肌の岩盤の下には、大きな空洞があるようだった。

 「そうだ…君が約束してくれたら、私の秘密も教えると言っていたな、レイラス。知りたいかい?」

 額から流れ落ちた血の滴をふき取って、シュレーはスィグルを見つめた。スィグルは、シュレーと約束したつもりはなかった。彼は世界を滅ぼすつもりだという。そのついでに、森エルフを虐殺させてやってもいいと言いたいのだろうか。

 竜の声は、自分たちの真下から聞こえてきているようにさえ思えた。スィグルが言葉を覆さないのを確かめて、シュレーは満足そうに笑った。

 短衣(チュニック)を脱ぎ、シュレーはおもむろに片肌をさらした。月明かりとは違う、淡い光が、心持ちうなだれたシュレーの背中からこぼれ、一対の白い光の束が、その中から立ち上がった。ゆっくりと吹き上げる光の帯は、見る間に固まり、淡く透ける塊となっていく。

 成長を終えたそれは、まるで大きな鳥の翼のように見えた。シュレーが森の夜空に一対の白い翼を伸ばすのを、スィグルは信じられない思いで見守った。スィグルの腕を掴んでいた手がゆるみ、イルスが息を呑むのが聞こえた。

 鳥の羽ばたきに似た音をたてて、かすかに向こう側が透ける純白の翼が震えた。ため息をついて、シュレーが顔をあげた。片肌を脱いで、背中の白い翼を拡げた姿は、まさに神殿の壁画に描かれた、天使の絵姿と酷似していた。

 神聖神殿の祭壇の奥の壁には、かならず、28人の天使の姿が描かれている。物心付いた子供が、神官から、まず最初に憶えさせられるのは、この天使達の名前だった。スィグルも、タンジールの王宮内にある神殿で、呪文のような響きのする耳慣れない名前をいくつも憶えさせられたものだった。たった一度教えられただけの難解な名前を、スィグルが全部暗記してしまったと聞いて、父リューズは新しい領土でも手に入れたように喜んでくれた。あれは幾つの時だったのだろうか。

 星々の声聞く者ノルティエ・デュアス、炎抱く守護者アズュリエ・カフラ、虚ろなる祈りの記録者サフリア・ヴィジュレ…。どの天使たちも、神官とよく似た衣装をまとい、その背には、巨大な純白の翼を広げた姿で描かれていた。その厳かな壁画の一番はしに、胸を矢で射抜かれて倒れた姿で描かれている天使の名は、静謐なる調停者ブラン・アムリネスといった。シュレーがその名に帯びる官職の名と同じ、神殿が守り伝える伝説の中に登場する、天の使いの名だ。

 スィグルの目の前で、大きな純白の翼を広げたシュレーの姿は、ブラン・アムリネスを名乗るのに相応しいものに見えた。

 「…は…羽根が……」

 驚きのあまり、スィグルの舌は上手く動かなかった。それを見て、にやっと嫌味ったらしく微笑するのは、いつもと変わらないシュレーだった。簡単な手品に引っかかった子供を見て喜ぶように、シュレーは立ち尽くしているスィグルとイルスを交互に眺めている。

 「神殿の一族の秘密さ。門外不出なんだ、秘密にしてくれるね。でも、これで解っただろう、神殿の白羽の紋章の理由が」

 紋章と似た形になるように、シュレーは翼を開いて見せた。もう頷く他はなかった。

「近々、この翼は切り落とすことになっている」

「切り落とす…?」

 イルスがやっと絞り出したような言葉で、口を開いた。

「神殿の一族は、神殿を出る時に、翼を切り落とすのが掟だ。これが神聖神殿の血を受けたという証拠だからね。私の母は、神殿を出て私を産み落とすために、翼を切った。だから私も同じようにする。そうでもしなければ、この血から逃れることができないんだ。それに…どうせこの翼には意味がない。山エルフの血が半分混ざったせいで、私の翼は役に立たないんだ。小さすぎて、飛べないからね」

「神官たちは、みんなそうなのか? 翼を持っていて、飛べるのか?」

 ほの明るい光を放つ翼に、イルスは手をのばした。シュレーは特に嫌う様子もなく、翼を広げ、イルスに触れさせた。

「血族ならばね。この翼で飛べることが、大神官になるための第一条件だ。だから、私には無理なんだよ。いくらお祖父様が私を気に入っていてもだ」

「だから…一族を捨ててきたのかい」

 スィグルが尋ねると、シュレーはにやっと笑った。

 また竜が哭いた。ファーーーンと高らかな声が、地下のうろに響きわたっているのが分かる。

 「そうさ。いつまでも続く茶番には耐えられない。道が塞がっているなら、それを切り拓くのが私の信条なんだ」

 翼をのばして、シュレーはスィグルの頬を撫でた。羽毛に似た感触のするそれは、暖かかったが、ただの光の塊のようにも見えた。

 柔らかく暖かな翼で触れられると、心の奥底にある何かが癒されるような気がした。スィグルは伏し目がちになり、今も淡い光をこぼれさせている白い翼に頬を押し当てた。

 くすくすと子供が忍び笑いするような声が、スィグルの耳元で聞こえた。とても密やかなその笑い声は、神聖な響きに満ちていた。これは確かに、つい半時前、世界を滅ぼす魔法の話を自分に囁きかけてきたのと同じ、不思議な声だった。そう思って視線をあげると、そうだよとでも言いそうな顔をしたシュレーと目があった。

 再び目を細めて、スィグルはため息をついた。あの声はきっと、この翼が伝えてきたものだ。子供の頃、スィグルを神殿の奥に連れていった神官にも、これと同じ翼があったに違いない。名前をもらった時の記憶に残る、白く光る暖かい何かで触れられる感触を、スィグルはぼんやりと思い出した。

 「本当なら、フォルデス、君には秘密にしておこうかと思っていたんだよ。でも、秘密には、秘密をもって購うのが神殿の礼儀でね。私は、竜の涙を見たのは初めてだ。神殿にも知らないことはあるらしい。満足だよ」

 面白そうに言って、それを最後に、シュレーは翼をたたんだ。見る見るうちに輪郭が溶けていき、小さく縮んだ白い光の塊が、シュレーの背中に戻っていく。短衣(チュニック)を着付け直して、シュレーは小さく伸びをした。

 「できたら、フォルデス、君に私の翼を切り落としてもらいたいんだが」

「冗談はやめろ」

 身震いして、イルスは即答した。

「君の腕を見込んで頼んでいるのに」

 シュレーが微かに笑った。

 スィグルは、目の前の不思議な少年の数奇な運命を思った。彼はまだ、本当の意味では神籍を捨てていなかったのだ。スィグルは、大人びて、おさまりかえった風なシュレーの心の中にある逡巡を見た気がした。

 「それじゃあ、レイラス、君はどうだい。森エルフの指の代わりに、私の翼を切るのでは、満足できないかな」

 白系種族の頂点に君臨する神殿の一族から、純白の翼を切り落とす自分を、スィグルは思い描いてみた。それこそまるで、おとぎ話の中の出来事のようだ。だが、竜(ドラグーン)の哭く夜には、どんなことも不思議ではないような気がした。

 翼を切り落とされれば、それは生涯消えない深い傷として、シュレーの体に残るだろう。そして、シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネスの名は葬られる。その代わりに、彼が何を手に入れようとしているのか、スィグルには分からなかったが、スィグルの憎しみを購うためには、そう悪くない代価のように思えた。

 「…いいよ。切ってやる」

 静かな心で、スィグルは取引きに応じた。イルスが肩をすくめ、シュレーが満足げに微笑した。

「それまでに剣の腕を上げておいてくれ、レイラス。手元が狂って命まで取られるのはご免だ」

「いつ、やるんだい」

「君の準備ができたら、すぐにでも」

 微笑みながら、シュレーが答えた。すでに覚悟は固まっているらしかった。

 「だったら、もうしばらく待たせることになりそうだよ。なにしろ僕は、剣の使い方をまだ知らないんだ」

 にやっと笑って、スィグルは言った。

「…そうか」

 意外そうに答えるシュレーの顔は、心なしか引きつっていた。

「どうしても待てないっていうなら、今ここで挑戦してみてもいいけど?」

 真面目な顔で、スィグルは尋ねた。シュレーが苦笑した。

「いや…やめておこう」

 竜(ドラグーン)は、まだ哭き続けていた。

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