(11)父と母

 帰宅後、博士からもらった書類と自宅に届いていた受験案内をテーブルに出すと、雅也は両親を部屋から呼び出した。


 だまって椅子に座る二人を前にして、雅也は目を合わせずに言った。


「僕、研究職の試験を受けようと思う」


 緊張しながら切り出したが、父も母もきょとんとしている。

 雅也は少し考え、できるだけわかりやすい言葉を選びながら続けた。


「心理学の研究をしたいんだ。もちろん試験に合格したら、だけど」


 膝の上の手を握りしめ、雅也は顔をあげた。


「僕、物理にあまり興味が持てない、ということに気がついた。そして自分が将来どう生きるか、自分が何をするのか、ということを考えたとき、人間についてもっと知っておく必要があると思ったんだ」


 両親との間にしばらくの無言が続く。


 次の言葉を雅也が言いかけたとき、父が口を開いた。


「お前が自分で決めたことなのか?」


 こちらの目をじっと見据えている。相変わらず青白い顔だが、その目には心なしか生気が宿っていた。


「うん」


「研究職って……合格したら来年から大学院生ってこと?」


 恐る恐るという感じで母が聞いてきた。


「そういうことになる……かな」


 重苦しい空気が漂う。

 だが、雅也を見る両親の目には、これまでにはない意志の力が見て取れた。


 しばらくして、父が言った。


「雅也」

「はい」


「精一杯やりなさい」

「はい!」


「母さん。私たちが知らない間に、雅也は大人になったんだね。何かあったら、支えてやろう」


「そうね。私たちの自慢の息子ですから」


 ほっと胸をなでおろした雅也が見た母の目には涙がうるんでいた。



 テーブルの上に置かれていた書類を父が手に取り、指で指紋押印サインすると、雅也に渡す。


「応援するから、頑張れ」

「ありがとう、父さん」


「もっと……これまで雅也ともっと話せていたら良かった……」


 その母の言葉を聞き、雅也は悟った。博士や真奈美の言った通りだと思った。以前の自分には両親の期待に応えたいという気持ちが確かにあった。しかしここ数年、努力するほど親子の間に溝ができる気がしていた。そのせいで自分自身が不安定になり、勉強嫌いに、と悪循環にはまり、気持ちが薄れていった。だけどそれは結局、こうして相手に言葉を伝えることができなかった自分のせいだったのだ。


 そう思うと同時に、雅也の頭には新たに一つの疑問が生まれた。


「父さん」

「何だい?」


「父さんたちって、今、幸せなの?」


 唐突な質問に父と母が顔を見合わせる。


「今は幸せだよ。お前と話せて」


 しばらくして出てきた父の答えは、雅也の意図とはかみ合っていなかった。


「えっと……じゃあ、父さんは昔どんな子供だった?」


「私か? うーん……どんなだったかな? 母さん」


 両親が再び顔を見合わせた。


「そうね。お父さんの小さいころは、気が利かなくて、いじめられっ子だったけど、まじめで正直な子供だったわ」


「あれ? 母さん、父さんの小さいころのこと、知ってるの?」


「幼馴染だったのよ。同い年で幼稚園から一緒だったの」


「母さんはいつも私を助けてくれてたな」


 父の言葉が意外に思え、雅也は首をかしげた。


「……なんだか立場的に今と逆じゃない?」


「それがね、高校生になってお父さん、急に大人になったの」


「急に?」

「将来やりたいことがあるからって、頑張るようになったのよ」


 そう言った母の顔は心なしか紅潮して見えた。


「父さんのやりたいことって、なんだったの?」


「建築士だよ。家やビルを建てる仕事がしたかったんだ」


「かっこよかったのよ。今もだけど、ね」

「おい……」


「じゃあ父さん、家を作ったことあるの? すごいじゃないか!」


「いや……それが……ないんだ」

「えっ?」


 微妙な雰囲気。

 それを打ち消すように母が答えた。


「時代が悪かったの。お父さんが建築士試験に合格したころから人工知能が多くの仕事をこなすようになって、人間の出番がほとんどなくなっちゃったの」


「そんな!」


「お前に声をかけてやれなかったのは……その、なんだ、怖かったんだよ。お前をあまり頑張らせてはいけないんじゃないか、私と同じ目に合うんじゃないか、何かに打ち込んで、失敗したら、お前は生きる意味を失ってしまうんじゃないかって。私のように」


「…………」


「でもそうじゃなかった。さっきお前が生まれた時のことを思い出したんだ。あの日私は、お前から生きる勇気をもらった。私たちにはまだ、やるべきことがあるって。そして今日、もう一度希望をもらったんだ。私もお母さんも、できること、役に立つことがあるって、お前は思い出させてくれた。息子の成長を見守ることの価値に、気付かされたんだ」


「……なんだよ、それ」


「ん?」


「おかしいじゃないか! 子供のために生きるなんて!」


「違うのよ。私たちがそう望んでいるの」


 母は、微笑んで優しく答えた。


「どういうことだよ!?」


「お前が小学校に上がったころ、頑張ってたよな? 父さんや母さんを喜ばせようと思ってくれていたんじゃないか?」


 雅也を見据えながら父が問いかける。


「それは……そう……だけど」


「だが最近、壁にぶつかってなかったか? 心の底では『物理をやめてもいいんだろうか?』って迷ってなかったか? 私たちからの期待が負担になってなかったか?」


「それは――」


「なんでもいいんだよ。私たちにとっては、お前が自分で決めた道を選んでくれたことが一番うれしいんだ」


「そんなに簡単なことなの? だけど適正、ないかもしれないんだよ?」


「何言ってんだ。お前、さっき自分で言っただろ? 『人間についてもっと知っておく必要がある』って。それを聞いて私はハッとさせられたよ。確かにそうだ。人工知能が人間のことを、人間以上に理解できるはずがない。それに気づいたお前なら大丈夫だ、私のようにはならない、そう思ったんだ。百歩譲ってお前に適性がないとしても、物理なんかより希望があるしな。全面的に賛成だ」


「…………」


「それでももしお前が将来、くじけそうになったら、私たちが絶対に力になってやるから」


「そんな――」


「親子っていうのは、そういうものだ。私たちは今、お前に教えられたんだよ」


「…………そう」



 ――バタン


 自分の部屋に戻った雅也は、後ろ手にドアを閉めた。


(なんだよ……僕なんか全然ダメじゃないか! 父さんがそんなこと考えてたなんて、全然知らなかったよ……何がお前の方がすごい、だよ! ふざけんなよ!)



 ◆◇◆



 同じ時間、博士の自宅の応接間ではパジャマを着た真奈美と博士がお茶を飲んでいた。


「おじいちゃん、なんであのタイミングで出てきたのよ」

「まずかったかい?」

「だって、聞いてたんでしょ? あたしたちの話」

「いや、何も聞いてなかったよ」

「なら、いいんだけど……」


「彼らを誘惑しようとしてたの?」

「い、いやいや、そういうわけじゃ――」


 答えながら湯飲みをテーブルに置く。


「真奈美は玲くんと雅也くん、どっちが好みなのかな?」

「うーん……悩むところね……玲は超かっこいいし、もろタイプなんだけど、性格的に合いそうにないんだよね。雅也は雅也で優しいけど頼りなさそうだし……でも、できることなら、どっちもあたしのものにしたいな」


「そんなこと言ってると、両方に逃げられますよ」

「大丈夫よ。あたしには強い味方がいるから」

「味方ですか?」

「おじいちゃんよ。あの二人はおじいちゃんを頼りにしてるわ。だからあたしが恋人候補にならないはずがないもの」

「あのね……」


「おじいちゃんはどっちがあたしにふさわしいと思う?」

「どうですかね。でも今は男性優位の社会ですからね。真奈美ももう少し女の子らしく振る舞ってみるとか?」

「それはわかってる。でも、だからこそ今の婚活は12歳までが勝負なの!」

「婚活って……」


「だって仮想世界って若い男の子たちには刺激が強すぎるんでしょ? だからそんなものに惑わされない今のうちに、あたしがリアルの魅力を見せつけて、正しい道に導かなくちゃ」


 そう言いながら真奈美は手を腰に当ててポーズをとった。


「……うまくいくといいですね」

「だからおじいちゃん、絶対協力してね!」

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