第111話 紡ぎの言葉【2】
「ねぇ」
階段を曲がり消えてしまった義妹を見送り、イオルは隣に立つシェラートに呼びかけた。
「ものすごく傷ついた顔をしていたわよねぇ? まったく愛らしいこと。昔の自分を思い出すわ。
イオルは皮肉を口元にひらめかせた。
嫌悪を隠しもせず顔を歪めるシェラートに首をそらす。
「なぁに? 私のせいだけではないと思うんだけど?」
シェラートは鬱陶しそうに顔を背けた。まわりこんだイオルが、おもしろそうに目を細める。
「お前はそんなのばっかりね。弁明すればよかったでしょうに」
「結果は変わらないだろ」
「傷つけられたら困るもの、ねぇ? ほんっと、たった一つが選べないなんて、大変ね」
忍び笑ったイオルは
爪先でとんとんと軽やかに階段を登り、段上で肩越しに振り返る。
「もう一つ教えてあげましょうか。シェラートが気になっているかもしれないこと。あの
イオルは笑みを深めた。花が咲き綻ぶようにたわむ口元をイオルは手の甲で覆い隠す。
「でも、……そう。お前、あの
はたしてそれができるかしらね、とイオルは無言に徹するシェラートに得意気に囁いて、くるりと階段に向き直った。逸らされた横顔はさも面倒そうだ。
「さて。私もオギハに会いに行かないと」
イオルはうきうきと告げる。
打って変わり上機嫌で階段を跳ねのぼる契約者に、シェラートも従った。
追随する
「用意は?」
「できてる。繋いであるから、いつでも大丈夫だ」
「そっ。ご苦労さま」
イオルはシェラートを労って、会議の場へ向かった。
***
昨夜、灯火が連なる薄暗い廊下で待ち構えていたイオルは、フィシュアの部屋の前に立ったシェラートに言った。
「何があったのか教えてあげましょうか?」
皇太子妃の後方には、皇宮に来た日に出迎えにきた初老の侍従が控えていた。
シェラートは眠るフィシュアを腕に抱きかかえたまま、眉をひそめる。
「何があったのか?」
「そう。何があったのか」
イオルはやわらかに相好を打ち崩し、シェラートの肩に頭を預けて眠っているフィシュアに視線を向けた。寝息さえたてないその様は、支えられていなければ糸を断ち切られた人形とさして変わりはない。
というより死んでいるみたい、と言いさし、イオルは眼差しをあげた。剣呑な雰囲気を隠さないシェラートから視線を背ける。
「……まぁ、いいわ。まさか湯浴みもさせずに、その格好のまま寝かせるつもりじゃないでしょうね?」
こんこんと眠り続けるフィシュアからは、医務室前ですれ違った際にあった傷が跡形もなく消えていた。対して舞台衣装はところどころ焦げ、多量の血がまとわりついたまま。裾間からのぞく腕や足、そして顔にも煤汚れが残っている。
皇太子よりも幾分薄い色素の義妹の髪は火事にあった名残か、熱に晒され毛先が縮れていた。
シェラートは押し黙ったまま何もしゃべらなった。そこまで気が回っていなかったらしいことが、イオルには容易に見てとれた。
「その
当然の権利を主張し、イオルは手を差し出した。
その手を見下ろしはしたものの、シェラートは応じなかった。フィシュアの身を支えたまま警戒を強め、何をしにきたのかわからない皇太子妃の出方を窺う。
皇太子妃は付き従っていた初老の侍従長へ肩越しに命を出した。
「ファッテ、フィシュアを。――これでいいでしょう? いいから渡しなさいな。どうせお前じゃ何もできないでしょうに」
気を尖らせたイオルを宥めるように、ファッテは静かに歩みでた。
「シェラート殿。どうやらお気を失われているご様子。ご心配なのはもっともですが、中の者に
「そうよ。騒動があったからといって、皆が皆、持ち場を離れているわけじゃないでしょう。そのままにする方がよっぽどかわいそうよ」
シェラートはフィシュアの色のない顔を見た。イオルの指摘通り、ひどい有様なのは変わらない。
ぐ、とフィシュアを支える手に力を込めた。預けられた頬が肩に擦れ、頼りないフィシュアの息遣いが間近で触れる。
辛抱強く待っていたファッテの冷静な眼差しに促され、シェラートは仕方なくフィシュアを手放した。
預ける以外に方法もない。
ファッテが慎重にフィシュアの身体を支え直す。確かに腕にかかっていた重みは、あっけなくシェラートから他に移った。
強制された眠りが揺り起こされるはずもなく、ぐったりしたままのフィシュアは身じろぎさえしない。
イオルはフィシュアが完全にファッテの手に渡ったのを待って、亜麻色の扉をこつんと叩いた。
イオルの推測を裏付けるように、すぐさま一人の侍女が顔を出した。
部屋の主が無事に戻ることを心待ちにしていたらしい。ぱっと顔を輝かせた年若の侍女は一瞬のち、扉前に立ちはだかるのが皇太子妃と気づき、さっと顔を伏せた。
「いいから、ひとまずフィシュアを」
礼を述べ、そろと面をあげた侍女は、侍従長に横抱きされたフィシュアの姿を目にし青褪めた。
口を押さえて悲鳴を飲み込んだ侍女の肩にイオルはそっと手を置く。
「フィシュアの血ではないわ、安心なさい。眠っているだけ。ここにいるのはあなた一人?」
「私の他に、もう一人おります」
侍女は声を震わせながらも毅然と答えた。
そう、とイオルは静かに頷く。
「湯の用意をなさい。このままファッテにフィシュアを運ばせます。私たちは寝室で待機しておくわ。あなたたちは汚れを落とし終えたら、フィシュアをファッテに任せなさい。その後はあなた方を含め、
皇太子妃から見据えられた侍女は重々しく命を受諾する。
手早く扉を引き開いて廊下に居並ぶ面々を部屋の中へ招き、準備を整えるべく足早に奥へ立ち去る。
イオルは侍女に続きファッテを先に行かせた後、部屋の前に立ち尽くす
「シェラート殿? まだ帰られたら困るのだけど」
「安心しろ。帰るつもりもない」
シェラートはためらいなく答えた。
部屋に残してきたテトが心配ではある。今もフィシュアのことを案じ気を揉んでいるだろう。早く無事を知らせて安心させてやりたいが、イオルがこの場から退くつもりがないのなら、シェラートもまたフィシュアの傍から離れるわけにはいかなかった。
信用ならないのだ。
口にする言葉の割に、イオルはフィシュアを心配してはいないようだった。むしろ態度の端々には、この状況を楽しんですらいる気配がある。
わざわざ呼び止めたのだ。皇太子妃が用があるのは、はじめからフィシュアではない。
それが何であれ、簡単に部屋に帰してくれるはずもない。
「そう? それはよかった」
イオルは、ふふと微笑を洩らした。
耳を苛む笑声が嫌味なくらい優しげに、廊下の暗がりに響く。
シェラートは誰に強制されるでもなく、皇太子妃より先に自ら部屋へ足を踏み入れた。
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