第102話 夕星の灯し風【9】
あれ、とフィシュアは部屋に集まっている顔ぶれを見渡した。一月前は確かに皇宮に帰って来ていたはずの長姉の姿がどこにも見当たらない。
「トゥイリカ姉様は?」
「お帰りぃ。フィシュアちゃん」
フィシュアを見るなり席を立った
ウィルナはひんやりとすべらかな指で、フィシュアの両手をとった。
ふわふわと境目を曖昧に揺らす広い袖口からはしなやかな手首がのびる。人懐こく藍眼が綻ぶと共に、波うつ茶髪が象牙色の鎖骨をなぞった。
やわらかな身体つきは、妹のフィシュアから見ても時折どきりとさせられる。
どこか現実味のない可憐さは、繊細に形づくられた最上の花を彷彿させた。髪飾りにあしらわれた藍石の硬質さだけが唯一、彼女が地に足をつけた人であると思い出させる。
「トゥイリカちゃんは、暇だからって旅行に行っちゃったの」
ウィルナは浮き立った調子でフィシュアの手を揺らした。
「アエルナ地方の……どこだったかな? 確か砂漠に近いところに行くって言っていた気がするんだけど」
「アエルナ地方に?」
それは命を受けたフィシュアがつい先日まで赴いていた場所だ。
長机の中央に座す
「わざわざ出向いてもらったのに悪かったな。こんなことなら、あいつに行かせておけばよかった」
まぁ座れ、とオギハからルディの向かいの席を示され、フィシュアは頷く。
フィシュアから手を離したウィルナは静かに自席へ戻り、フィシュアも定位置に着く。フィシュアの後に続いたドヨムも与えられた席にどっかりと腰を下ろした。
代々皇族の会議にのみ使用される一室。表面がよく研磨された白石の長机を取り囲むのは二十二脚の席だ。
今回中心として動く予定の者は
「けどさあ、トゥイリカが出かけたくなる気持ちもわからないでもないよな。アエルナの
ドヨムは空席となっている
「あら。何もないなら何もない方がいいじゃない。取り越し苦労は、取り越せば越すほどいいのよ。ねぇ、イオルちゃん?」
義姉ではあるもののウィルナよりも年下のイオルは、口端をあげ優美に微笑むに留める。
「あんまり意味がわからないんだけど、ウィルナちゃん」
口を挟んだルディの体勢が不自然なのは、やはり少なからず痛めているからだろう。弟の指摘を受け、ウィルナは口を尖らせた。
「そうだからルディはまだ子どもなのよ。わかってないなぁ」
「俺もさっぱりわからないけどな。ウィルナはいっつも意味不明」
ドヨムが鼻を鳴らすと、ウィルナはふわりと笑みを深めた。
「ん? 何かお姉さんに言ったかな、ドヨム」
素早く次姉から目を逸らし、ドヨムは「どうして、こう
「無駄口もそれくらいになさい」
ウィルナの対面から、ヒビカは弟妹を諌めた。
オギハは、ヒビカからの目配せを受け鷹揚に頷く。
オギハが机上で両手を組むと、その場の視線が一挙に彼へ集まった。
「じゃ、まずフィシュア。簡単な報告は先に受けてはいるが、確認してきたことを改めて話せ」
オギハの指示を受け、フィシュアは頷き口を開く。
「アエルナ地方キャピエ村の端に位置する野には、センジダ候からの報告通り民が集まり野営をしていました。人数は五十程。元いた場所で突然爆発が起こり、あがった火の手から避難してきたと皆が証言をしています」
「複数の地の民が集まってきているようだとセンジダが言っていたな?」
「その点も相違ありませんでした。ただ、センジダ侯が懸念したように何か思惑があり集まった者たちではないようです。旅人として立ち寄った私たちに対しても証言に一貫性があり、不審な点はありません。むしろ自分たちが遭遇した災難と置かれた状況に困惑し悲嘆している面が強く見られます。話していた地名と地域の特徴から、
そもそも今回の件が明るみとなったのは、アエルナ地方の複数の街が焼失しているとの報を受け調査が開始されたからだ。別件で行きあった強盗団から
当初報告された街を再調査すると、どの街にも一部の建物に内側から暴発したような不自然な痕跡があり、共有された特徴をもとに軍と警備隊で国内を調査した結果、同じアエルナ地方内で新たに三つの村の焼失が確認された。
アエルナ地方を管轄するセンジダから人気のなかった野にいつの頃からか定住する不審な者らが出たと国へ報告があがったのはそんな時だ。
フィシュアが現地で聞き取りを行った結果、彼らが語った地名と焼失した街村の名が一致していることがこれまでに判明している。
先に確認したセンジダの部下の調査官の報告とも食い違う点はなかった。
「センジダ侯へ避難民の支援要請を願います。彼らの多くはあの場に新たな居住地を作ろうとしていました。可能であれば定住許可を。難しい場合は、新たな移住先を定めていただく必要があります」
「伝えておこう」
引き受けたオギハに、フィシュアは「もう一つ」と付け加えた。
「奇妙な点があります。そもそも同じアエルナ地方内とはいえ、異なる地域にあった街や村の住民たちが揃ってキャピエ村の端の野に辿り着いたというのも不自然ではあったのですが……。話を聞いていると、火の手から逃げている最中、気づいたらあの野にいたと口を揃えて言うのです」
「気づいたら、か?」
オギハは軽く目を瞠った。その隣で目を細めたヒビカに促され、フィシュアは続ける。
「話を聞いた者たち全員が同じ体験をしていました。そのためセンジダ侯の調査官の話を聞くまで、自分たちが遠くへ来たという認識もなかったそうです。元いた場所へ様子を確認しに戻ろうとした者も、見知った場所そのものが近くに一つも見つけられなかったから諦めた、と。同村内とはいえ人里からは離れた場所だったこともあり、キャピエ村の存在も放牧に出てきた村人に発見された折、はじめて知ったそうです」
「それでセンジダに報告があがった時期がずれたか。なるほど奇妙だな」
「はい。被害を受けた場所からあの野までは相当の距離があります。逃げている最中に辿り着いたというほど短時間のうちに、あの場所に移動するのは人の力では不可能なはず。しかもそれぞれ異なる場所からです」
「それのどこがおかしいんだ?
ドヨムが頬杖をついたまま率直に疑問を投げた。ヒビカは眉をひそめ、弟の見解の甘さをつく。
「だから奇妙だとフィシュアは言いたいのですよ。自ら襲った街の生存者をわざわざ避難させる襲撃者がどこにいるのです」
「案外親切な奴らだったんじゃないか?」
「なぜそうなるのです」
「その可能性もなきにしも非ずだろ」
ドヨムは、ヒビカの非難をあっさりと跳ねのける。
「あらゆる可能性は考慮されるべきだ」
「それでも、それこそがおかしいの」
フィシュアは指摘する。
「
今回の
会議室を静寂が包んだ。
帝国の長い歴史において、
状況に不可解な点が多いこともあり、相手がどのように動くか予測が立て辛いのも事実だ。強盗団の言葉通り、本当に皇都を目的としているのかも確かなところは不明だ。
警戒を継続しつつ、相手の出方に応じ随時対処していくしか方法がない状況も変わりそうになかった。
停滞した沈黙を破り、ウィルナがぱちんと両手を合わせる。何か思いついたのかと続く意見を待つ視線の中、ウィルナは緊張感なく華やかに顔を輝かせた。
「そっか。今、
「あー、それな。俺、今日見てきたけど期待しないほうがいいぞ。なんか普通。ものすっごい普通。正直その辺歩いている奴らと変わらなかった。ヒビカよりも若く見えたな」
「えー、そうなの? 私の予想ではねー……」
「ウィルナ、ドヨム」
ヒビカに嗜められ、二人は固まった。
「退出してもよろしいのですよ?」
さっと互いに顔を背けたウィルナとドヨムが、ヒビカから隠れたそうに揃って身を縮める。オギハは苦笑した。
「ヒビカは厳しすぎるよな。でも、ま、二人も程々にな。アエルナの難民については、これ以上考えても無駄だな。考えてもどういう経緯でそうなったか相手の思惑が読めない以上わからない。頭には入れておく。ご苦労だった。次、ルディ」
はい、とこの中では一番歳下のルディが、顔を引き締める。
「皇都における火点けとそれに伴う物盗りの件数自体は減少傾向にあります。前回の報告からの火点けは五件、物盗りは二件です」
「犯人は」
「残念ながら後手に回ることも多く、すべては確保できておりません。便乗犯も頻出しておりました。話を聞いてはいますが、犯人同士繋がりがあるかは掴めていません」
ううん、と頷いて「
「あれが吹きはじめた今、一度火が点くとあっという間に広がるからな。そうでなくとも、これからの時期は火事が多い。いっそう気にはするべきだろう。人手が足りなければ軍からも人員を割くから、その時は遠慮なくドヨムに言え。むしろ、今日やられた分、ドヨムをこき使ってやるといい」
ドヨムは長兄の嫌みに顔をしかめた。ルディは曖昧に頷きながらも礼だけはきちんと述べる。
「それにしても
「そうですね。何か起こったら、ひとまず逃げなさい。体勢をしっかり整えてから向かえばよいのですから」
「お前はすぐ突っ走るからなぁ」
「フィシュアのまわりは人も集まるし、その分、警備も強化しておくけどね。ロシュがいるから大抵のことは何とかなると思うけどさ」
「いいか。何をおいてもまずホークで知らせろ。フィシュアが勝手に動くと実害が増えるかもしれない」
次々と投げかけられた心配とも
イオルだけは口出しせず、控えめに微笑し静観していた。
「ああ、もう、私が代わってあげられたらいいんだけどなっ!」
机上でうんと両腕を伸ばしたウィルナが、悩ましく眉を寄せる。
ヒビカは「無理でしょう」とすぐさま切り捨てた。
「ウィルナの歌声はとにかくひどいですから。ジブダがあなたの鼻歌のせいで頭痛がすると言っていましたよ」
「何それ、ひっどい! 帰ったら文句言ってやらなくっちゃ」
頬を膨らませたウィルナに、ドヨムは「義兄さんの反応は正常だろう」と憐れみを込めて呟く。ウィルナの音痴の程度を知っている他の兄弟も擁護することができなかった。
「やぁー、でも、そうだなぁ。警戒ついでに宵の歌姫の舞台でも見に行くか? しばらくフィシュアの歌も聞いていないしな」
「や。仮にも皇太子様がそう簡単に街なかに下りちゃだめでしょ」
真面目な顔をしてのんきな提案をした夫の袖を、イオルはついついと引っ張った。本気で行きかねないというイオルの懸念は正しく、間違っても出向かないようにとヒビカが重ねて釘を刺す。
議題の内容に対し和やかに進んだ会議は、その後もいくつかの案件を話し合い幕を閉じた。
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