第108話 水音陶花【1】
ちろん、ちろん、と絶えまなく水音が響いていた。
陶器に似た青白い手が、泉から水を掬いあげる。留めておくことのできない水は、彼女の指間をすり抜け水面にいくつも波紋をつくった。
皇宮の入り組んだ片隅にある
緑陰が落ちる石の縁にイリアナは身をもたせかけ、手を浸していた。変わらない透明な歌声が、辺りを囲む木立の枝間を抜け、皇宮の壁に反響する。
木漏れ日が揺らす水面が、虚になったイリアナの顔を清らかに照らしていた。
水を掬っては零し歌う。一日中同じ動作を繰り返すようになったイリアナを、フィシュアは皇宮の柱の影から見ていた。
「
いつの間にやって来たのかイリアナの護衛官のオレオが、立ち尽くして動けないでいるフィシュアの傍らに膝をついた。
「お部屋までお送りいたします」
身を強張らせたフィシュアを気遣うようにそっと、オレオはフィシュアを庭園の外へ促す。
外廊の先で控えていたロシュが師であるオレオを前にして、口を引き結ぶ。
ちろん、とまた指の隙間をすり抜けた水が、泉に波紋を広げる音がした。
ひかれるようにフィシュアはイリアナのいる泉を振り返った。
イリアナが口ずさんでいるのは、彼女がもっとも愛した歌だ。
そのうちの同じ旋律だけを幾度も繰り返し、イリアナは美しい声で歌う。
イリアナの手元から泉にかえる水音が、彼女の恋人が弾いていた弦のかわりに思えた。
失ってしまった恋人がやって来るのを、いつもの通りに待っている。
その音が消えてしまうのを、拒んでいるようだった。
「ああ……」
ずっと水面を見つめ続けていたイリアナが、何かを悟ったように恍惚と空を見あげた。
夢見心地なその姿をフィシュアは遠くから眺めていたのだ。
***
いつから歪みが生じていたのか、フィシュアは知らない。
幼すぎたフィシュアは、狂いはじめたことに気付けなかった。
宵の歌姫の——
決して誰もが認める佳人ではなかったが、自然と人目を引く人だった。
清廉な横顔には、侵しがたい高潔さがあった。誰もが意識せずにいられない、芯のある美しい師はいつだってフィシュアの憧れだった。
「背筋を伸ばして、お腹から声を出すの」
フィシュアの背と腹に手を添えてイリアナは言った。
「感情を込めて歌うのよ。宵の歌姫は、幸せを、願いを、届けるの」
ね、とイリアナは笑って、ほんのわずかひんやりとした、たおやかな手でフィシュアの頬を包み込んだ。
こつりと合わさった額の先で、藍色の眼差しが煌めきに満ちる。とても自分の瞳の色と同じとは思えない、夢みたいに美しい色だった。
ほら、とイリアナはフィシュアの頬をくすぐり、笑う。
フィシュアの歌の上達を一番に褒めて、自分のことのように喜んでくれた。
すべての歌には物語があるんだと、そう教えてくれたのはサクレだ。
吟遊詩人である彼は、物心ついた時から西の大陸を旅していたという。そうして彼は、旅の途中でイリアナに出会った。
歌の数以上にサクレはその歌にまつわる物語を知っていた。
「歌は物語を伝えるための手段でもある。その歌が何かの転機となったこともある。だから僕たちはこの先へ歌を継ぎ、付随する物語も語り継がなければいけない」
くしゃりと笑い、サクレはいつも誇らしげに語った。
サクレが
サクレの黒茶の瞳は進む先への希望を映していて、彼が紡ぐ物語と同じく鮮やかだった。
サクレのすとんと身のうちに落ちてくるような、それでいて少し高めの声が「
フィシュアが喜びと共に両手を伸ばすと、優しく抱きとめてくれた。
オレオは人の繋がりの確かさを教えてくれた。
イリアナの護衛官であった彼は寡黙ながらもあたたかかった。目が合うと静かに微笑みかえしてくれる。
いつも傍らに佇み、遠すぎない距離で見守ってくれていたオレオはフィシュアにいつも安心感を与えてくれた。
ロシュをフィシュアの元に連れて来たのもオレオだ。
「
普段のオレオならとても言いそうにない、冗談とも本気ともつかない助言を真顔で告げられ笑ってしまった日をフィシュアは今でも覚えている。
しっかりと頷いたら、オレオが頷き返してくれたことも覚えている。
今も変わらず拠り所にしている言葉でもある。
オレオがかけてくれる言葉はいつも安らぎに満ちていた。
フィシュアに初めて祝福のキスを教えてくれたのは、イリアナの婚約者のナイデルだった。
輪郭を確かめるように頬をなで、そのまま頬に口付けられたフィシュアは、驚いて目をぱちくりと瞬かせた。
イリアナとオレオがおかしそうに見守る最中、ナイデルだけが困った顔をした。
「教えていたんじゃなかったの。君、私にフィシュアの練習台になれって言っただろう」
「今教えるつもりだったの。あなたが先にしちゃうのが悪いわ」
「私が
開き直ったイリアナに呆れながら、ナイデルはフィシュアに向き直った。
驚かせてしまったね、とナイデルはフィシュアの両手をとり、申し訳なさそうに言った。
そして教えてくれたのだ、祝福の意味を。
相手の幸福を祝い、またそれを願うものだよ、と。
「宵の歌姫も人々の幸福を歌うから、込められる願いは同じだね」
ナイデルはフィシュアと目線の高さがあうよう腰をかがめたままそう言った。
「
じゃあ、とフィシュアはナイデルの頬に両手を伸ばし、してもらったのと同じように口付けた。
フィシュアが初めて誰かに与えた祝福だった。
それからその場にいた、イリアナに、オレオに。
サクレがやって来てからはサクレにも。
ロシュと初めて会った時にも口付けたら、とても驚かせてしまったけれど。
「いいかい、
「ふうん」
並んで泉の縁石に腰掛けたまま、フィシュアは耳半分に足をぶらりと振った。まだ皇都の外に出たことのないフィシュアには、現実味のない話だった。
聞いているのかい、とこつりと頭の頂を小突かれる。
聞いてるよぉ、と口を尖らせれば、ナイデルは「本当かな」と疑わしげに苦笑し、いつもと変わらず頭をなでてくれた。
「私が旅に出る時は、ナイデル様も連れて行ってあげる」
「そうだね。そうできたらいいけれど。私は私でここに仕事があるからね」
待っているよ、とナイデルはやわらかに目を細めた。
「無事に帰ってくるように。ここでいつも祈っている」
フィシュアは、優しい手の下で笑った。
遠い記憶に思いを馳せながら、フィシュアは泉の縁石に手を掛けた。
水中には藻が浮いていた。手を差し入れると、藻から離れた泡がふわりと上昇し水面で弾ける。
小魚の群れが銀鱗で陽光を弾きながら、突如世界に乱入してきた異物を避け、ぱっと散っていった。
触れた水は冷たかった。
泉に落ちてしまった髪先を気にすることなく、フィシュアはぼんやりと泉を眺めた。
一番苦手な歌を口ずさむ。
あの日、イリアナが繰り返し歌っていた旋律を辿っていく。
「泡沫の淡い雫は 闇に溶け
朝日に還る 夢を見る」
不思議だと思った。
眠って目が覚めたら、思っていたよりもずっと気持ちは落ち着いていた。
ロシュは大丈夫だと言われたからかもしれない。
気分がましになるとシェラートに諭されたからかもしれない。
今朝見舞ったロシュは本当に意識を取り戻していた。昨夜からは考えられないほど状態がよく、普段通り動こうとする彼に休暇を命じてきたくらいだ。
それでもナイデルのことが大きすぎたのは事実だった。
だから、ここに来てしまった。
危惧していたより幾分か、冷静でいられるだけだ。
「砂をばら撒き 掬いあげ
星を砕く 夢を見る」
いったいどこからだったのだろう、とフィシュアは今でも疑問に思う。
大好きな人たちだった。優しい彼らがいつまでも変わらず自分の傍にいてくれることを、あの頃のフィシュアは信じて疑わなかった。
いくら思い返してみても、未だにはじまりがわからない。
ある日、旅から帰ってきたイリアナとオレオは一人の吟遊詩人を伴っていた。
紹介されたサクレをあの日のナイデルは確かに歓迎していたのだ。
まるで必然であったかのようにイリアナとサクレは恋人となり、代わりにイリアナとナイデルの間に交わされていた約束はなくなった。
婚約の意味をおぼろげながらも理解していたフィシュアは二人の婚約解消を知った時、ナイデルに「大丈夫?」と聞いたのだ。
けれどナイデルは微笑を浮かべ、いつもと変わらず頭をなでてくれたではないか。
「初めから決まっていたことだよ」
「はじめから?」
「
それでも年中、旅をしなければならない
「相手が吟遊詩人なら、なおさらいいだろう」
ナイデルは二人を祝福してすらいた。
「サクレなら旅の間もイリアナと一緒にいてくれるだろうし安心だ。これで私の肩の荷もいくらか降りた」
よかった、と満足そうに微笑んでいたのだ。
「甘やかなさざめきに惹かれ
触れられぬ水に落ちる 夢を見た」
あの日、フィシュアはナイデルからサクレへの伝言を預かった。
言付けの内容をフィシュアはほとんど覚えていない。
ただ一つだけ。
場所の指定がプレディの庭園だったことだけは覚えていた。
どうして泉のあるランティアの庭園ではないのだろうと思ったのだ。いつもみんなで集まるのはランティアの方なのに、と。
不思議に思いはしたが、フィシュアは結局ナイデルの言葉をそのままサクレに伝えた。
サクレが殺されたのはプレディの庭園だった。
変わり果てた恋人を前にして、イリアナは精神を壊してしまった。
それからはもう誰の声もイリアナには届かなくなった。
ただひたすら、清らかな声で同じ歌を口ずさむ。
一人、泉の縁に寄り添い、歌い続けるイリアナをフィシュアを含め誰も止めることができなかった。
ナイデルは泣きじゃくるフィシュアを優しく抱きしめてくれた。
「
フィシュアは唐突に理解した。
あの時、フィシュアがサクレにナイデルからの言付けを伝えなければ、こんなことにはならなかった。
フィシュアは自分が犯した過ちに怯え、それでもずっと一緒に過ごしてきたナイデルを疑うことはできなかった。
どこかでおかしいと感じていても、ナイデルがイリアナを見守る眼差しは哀切に満ちていた。フィシュアを慰めてくれる声は友人を亡くした痛みを堪え、ひどく震えていた。
オレオとロシュはナイデルがフィシュアに近づくことを嫌がった。二人はあからさまにナイデルを警戒し、昼夜問わずどちらかは必ず怯えるフィシュアの傍に張りついていた。
庭園を満たしていたはずの穏やかな雰囲気は消えてなくなった。
ずっと続くと思っていた幸福な時間は、イリアナの死をもって完全に幕を下ろした。
泉から聞こえていた歌が、ふつりと途切れた。
イリアナは歌の通りに水に落ちた。
泉にたゆたい溺れ死んでいるところを早朝に発見された。特に暑い夏の日だった。
ひどい有様だったとフィシュアは後から漏れ聞いた。
イリアナの死を耳にし、泉へ駆けつけたフィシュアの目をロシュは覆い隠して閉じた。
見てはいけません、と後ろからしっかりと身体を抱きこまれた。
「イリアナ様……!」
フィシュアが伸ばした手は届かなかった。
失われた視界のせいか、辺りの喧噪と深い水の香だけが、はっきりとフィシュアの元に届いた。
だから、フィシュアはイリアナの最期を見ていない。
記憶にあるイリアナは、泉の水を掬っては歌い続けるきれいなままだ。
ふと、何かを悟ったように天を見あげた——その姿のままフィシュアの中のイリアナは永遠に時を止めた。
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