第90話 琥珀の破片【9】

「おやおや。今回は随分いつもと違った趣向で来られましたな、フィシュア様」


 突如部屋の中心に現れた三人に目を留め、北西の賢者であるシュザネは水色の瞳を煌めかせた。

 塔の円蓋に似た布の帽子を頭頂にちょこりと乗せた賢者は、豊かな白髭を撫でつけ、ふぉっふぉっふぉっと楽し気に肩を揺らす。

「お久しぶりです、老師せんせい

 机上に乱立する本の塔の隙間から、ひょっこりと顔を出した小柄な老人にフィシュアは挨拶した。

 テトとシェラートは呆然としながら部屋を見渡す。

 いかにも難しそうな分厚い本にはじまり、目につくだけでも地図、羅針盤、望遠鏡、陶磁器、菓子とあらゆるものが辺り一面、乱雑に散らばっていた。ドーム状の天井からは星と月の動きを示す軌道が吊り下がり、その横には子ども受けしそうな愛嬌のある表情の操り人形が連なっている。

 上体をそらし天井を仰ぎ見ていたテトは踵で絵本を踏みそうになり、慌てて足を上げた。よろけた背を、シェラートが片腕で受けとめる。

「お久しぶりですのう、フィシュア様。大方のお話は既に伺っておりましたが」

 シュザネは水色のつぶらな瞳を興味津々にくるりと輝かせた。なるほど、なるほど、とテトとシェラートを見て、シュザネはしきりに頷く。

 次の瞬間、北西の賢者は小柄な身丈には余る黄土色のあわせの衣をひらめかせた。おっとりとした好々爺そのもののような見た目に似合わぬ俊敏さで、雑多に物重なる机を乗り越える。

「この方がくだん魔人ジンですかな?」

 辺りのものを蹴散らし、とてとてと勢いよく走って来たシュザネは、がしりとシェラートの腕を掴んだ。

 突然のことにシェラートは、ぎょっとする。離すまいとするシュザネの力は老人にしてはなかなかに強く、老人であるがゆえ無碍むげに振り払えもしない。

「さすがは素晴らしい紋様で!」

 シュザネは快哉をあげた。水色の瞳を好奇心いっぱいに爛々と輝かせて、うっとりと眺める。

「いやはや、この手首の紋様には何か法則でもあるんですかのう? いやしかし、これを紙に写し取るのはなかなか厄介なことになるでしょうな。ということは、解明するのも難しい。うーん、どうしたものか」

 シェラートの腕を勝手に上げたり下げたりしながら、シュザネはぶつぶつと呟いた。やっと腕が解放されたと思ったら、今度はじろじろと頭頂から足元までためつすがめつされながら、ぐるぐる周囲を歩かれる。 

「おい、フィシュア……」

 唖然として、されるがままになっていたシェラートもさすがにフィシュアに説明を求めた。その間も、シュザネはまじまじとシェラートの観察を続ける。

「紹介するわ。この方が私の老師せんせいで、北西の賢者のシュザネ様。魔人ジン魔神ジーニーのに関してはダランズール帝国一——恐らくこの西の大陸一の第一人者よ」

 これがか、という疑わし気なシェラートに、フィシュアは「ええ」と自信を持って請け負う。

三番目の姫トゥッシトリア魔神ジーニーの御伽話にある通り、ダランズール帝国には実際に魔神ジーニーに与えられたラピスラズリがあるの。代々、皇帝と皇妃、そしてアーネからフィスの位を持つ十人の皇子トゥストリアに継がれてきた。これもその一つ」

 フィシュアは胸元の藍石に手を添えた。

 シェラートはわずか剣呑に目をすがめる。

「ジジイの?」

「私たちはそう聞いている」

 フィシュアが答えれば、シェラートは何か言いたげな顔をして黙り込んだ。黙考するシェラートの周りを、浮き上がったシュザネがふわふわと髭を漂わせてまわる。

 いい加減うんざりしてきたのか、目の前にきたシュザネと目があった瞬間、シェラートは眉根を寄せて、北西の賢者の浮遊の魔法を解いた。積み重なった本ごと滑り落ち、絨毯の敷かれた床に尻餅をついたシュザネが「おおっ!」と感動に打ち震える。

 そのまま再び飛びあがろうとするシュザネの頭を、シェラートは今度こそ問答無用で押さえ込んだ。

 フィシュアは、予想通りの老師せんせいの喜びようを横目に説明を続ける。

「貰い受けはしたんだけど、当時の皇族もラピスラズリを持て余したみたい。魔神ジーニー——ランジュールさんのラピスラズリは、一般的なものに比べ魔を防ぐ力が高いと言われているの。ただそう思って、何かあった時、切り札に使おうにも、そもそも一般的なものですら、どれほどの力があるのかわからなかった。

 だから私たち皇族はラピスラズリが持つ力と魔人ジン魔神ジーニーについて詳しい北西の賢者に教えを請う必要があった。北西の賢者も魔神ジーニーが託した皇族のラピスラズリに興味があった。双方の利害が一致して、北西の賢者はここ約二百年の間、皇宮に拠点を置くことを承知したの。

 だけど本来、魔女と賢者は国への干渉は忌避すべきだと考えている。常人にない力を持つ彼らは場合によって大きな影響を与えかねない。北西の賢者が住居として本宮から離れた塔の上を指定したのも不要な接触を避けるため。大したことない用事だったら、あの途方もなく長い階段を自ら進んで登ろうなんて、なかなか思わないでしょう?」

「——フィシュア。頼むから、それより今はとりあえずこれをどうにかしてくれ!」

 北西の賢者の挙動にまったく動じていないフィシュアにげっそりしながら、シェラートは懇願した。

 シェラートの手元からパッと転移し抜け出したシュザネは、ふむふむと豊かな白髭を撫でては、ぶつぶつと独り言を繰り返している。時折魔法の気配が灯るごとに、シェラートはそれを打ち消していた。

 何度捕まえても結果は同じなので、途中から放っておくことにしたが、至近でじろじろと観察されるのは気持ちのよいものではなく、むしろ煩わしい。

 今にもシェラートにしがみつきかねない老師せんせいを前にして、フィシュアは「あぁ」と言葉を濁す。

「代々北西の賢者は魔人ジン 魔神ジーニーを研究しているんだけどね……老師せんせい魔人ジンと会うのはシェラートが初めてなのよ」

「だから何だ」

「ええ、だから悪いんだけど……今すぐには無理。その状態に入った老師せんせいは誰にも止められない。だから、無理」

 フィシュアはさらりと笑顔で言い放った。

 唖然とするシェラートの足元で、引き出しから紙とインクペンを魔法で取り寄せたシュザネが、床に齧り付いて書きものをはじめる。北西の賢者から距離を取ろうとしたシェラートは、無言で足首をがしりと掴まれて溜息をついた。

 シェラートにはしばらく我慢してもらうことにして、フィシュアはテトの隣にしゃがみ込む。

「すごいでしょう?」

 テトは無言でフィシュアに首肯した。

 部屋に入ってからずっと、テトは天井に目を奪われていたようだった。話の間も、ちらちらと天井の方をしきりに気にしていたのだ。

 熱心に目を凝らしているテトの隣に腰掛けて、フィシュアもまた視線を天井へ向ける。

 ドーム状にまるく広がる天井には、晴れた青空が映っていた。風にのって流れてきたいくつもの雲が、形を変えながらゆったりと進んでゆく。

 薄い玻璃はりを通したようにやわらかに広がる光が、天井から下がる水晶の星に反射して、砂色の壁に虹をつくりだす。

「外から見た時には普通の屋根に見えたのに不思議でしょう? これも魔法なの。私が一番好きな老師せんせいの魔法。ちゃんと屋根はあるのよ。だから雨が降っても大丈夫なんだって」

 天井に吊り下げられた月と星の軌道も操り人形も、まるで空から降りてきているようだ。

 一見すると奇妙な光景だが、そのことが気にならないほど、天井を覆いつくす空は澄み渡り、目に沁み入る青さを持つ。

「これからの時間帯が一番きれいなのよ。ここは皇宮の中でも高い場所の一つだから、皇都全体を見渡せることもできるしね。陽が傾き出すとね、皇都中の建物が黄金に照らされるの。そうしたら、この天井の空の端に橙が灯りだしてね、茜、緋、赤、薄紫、淡青ってどんどん表情が変わって行くのよ。そして最後には藍色に染まって夜になるの。星が視界いっぱいに広がって、すごくきれいなんだから」

 変わっていく空の彩りをもっと近くで感じたくて、フィシュアは幼い頃によくこの塔へ登った。毎日登って来ると知っていても、シュザネは決して手を貸してはくれなかったけれど。

 息も切れ切れになって辿り着いた部屋。広がる空の世界と、シュザネが明かしてくれる知識の一つ一つが見たくて、フィシュアは飽きることなく何度もこの塔へ足を運んだ。

「テトも私と同じように気に入ってくれたのなら嬉しいわ。せっかくだから今日は楽しんでいってね」

 フィシュアはくすぐるようにテトのこめかみ辺りの髪をすいた。

 テトは天井からフィシュアに視線を移す。

「フィシュアは? フィシュアは一緒に見て行かないの?」

「うん。私はちょっと、この後も用事があるのよ」

 ごめんね、と謝るフィシュアに「そっか」とテトは残念そうに肩を落とした。

「待て。この状態のままで、一人だけ帰る気か」

 相変わらずまとわりついてくるシュザネのせいで、ひどく居心地が悪いらしいシェラートが顔を引き攣らせ言った。

 それでもぞんざいにあしらうことはできないでいるあたりシェラートらしく、フィシュアは苦笑しながら立ち上がる。

「いいえ。きちんと用事はすませてから行くわよ。老師せんせいには、ちゃんと聞くべきことを聞かないと。でも、この状態の老師せんせいだと、やっぱりいろいろ無理なのよね」

「じゃあ、どうするんだ」

「一時的になら、老師せんせいを止める方法はわかってるのよ。だから、その間に聞いてしまえば問題はない」

 フィシュアはちらとシェラートを見上げ、「だけど、怒らないでね」と念押した。


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