第42話 出立の前に【1】

「フィシュア、お腹大丈夫?」

「ええ。もう、すっきりよ」

 戻ってきたフィシュアに駆け寄ったテトは心配そうに彼女を見あげた。

 にっこりと微笑んだフィシュアに、テトはほっと息をつく。

 お礼を込めてテトの頭をなでたフィシュアの前に、差し出されたのは一杯のガラス杯だった。無言でガラス杯を突きつけてくるシェラートに、フィシュアは笑顔を引きつらせる。

「……何、これ?」

 入っているのは不気味なほどに濃い緑のドロドロとした液体だ。ガラスが透き通っている分、見えてしまう中身はいかにもまずそうで、あやしい代物でしかない。

「薬だ。腹にいい」

「や、でも治ったし……」

 反論すれば、さらに鼻先へ気味の悪い深緑の液体を突きつけられる。対照的に、ガラス越しに見えるきれいな翡翠色の双眸は有無を許さぬ光を帯びていた。フィシュアはシェラートから渋々ガラス杯を受け取る。

 見た目同様匂いもひどい。フィシュアは顔をしかめてガラス杯から鼻を離すと、もう一度この薬の調合主を見あげた。

 これはばれている? と恐る恐る窺い見るも表情を変えないシェラートからは、その答えを見出すことはできない。

 それでも、これを飲みくだすことだけは避けたかった。フィシュアは助けを求めるように隊長のヴェルム、副隊長たち、警備隊へと視線を走らせる。誰もが皆、苦笑いをしながら即座に視線をそらした。

 宵闇の姫をどんな時でも助けるよう本部から言い渡されているはずにも関わらず、彼らが助けてくれる気配はまるでない。

 薄情な警備隊たちに非難を込めた視線を送ってみたが、やはり苦笑いが繰り返されただけだった。

「シェラート、それ……」

 テトは真剣な面持ちでフィシュアが手に持つドロリとした液体を指差した。沸き起こった期待をフィシュアはテトに向ける。

「お腹にいいんだよね?」

「そうだ」

「じゃあフィシュア、ちゃんと飲まなきゃ!」

「…………」

 フィシュアを見あげてくる少年の黒い瞳には、親切心と心からの心配しか映っていない。

 今朝とまったく変わらぬ展開にフィシュアは呻きたくなる気持ちを我慢する。彼女には、またしても覚悟を決めるしか道は残されていなかった。

 緑の液体へと口をつける。見た目通りのドロリとした感触が喉をぞわぞわと押し広げて通っていく。予想を軽く上回る苦くひどい味にフィシュアは一度身体を大きく震わせる。痙攣しだしそうな身体を押さえ、必死に飲み干した。

「み、水……!」

 近くにあった椅子に倒れ込むように座り、机に突っ伏す。握り込んだガラス杯に瞬く間に水が現れるや、フィシュアは急いで水を口に流し込み、苦みを消そうと努力した。

 おかげでいくらかましにはなったものの、すぐに消えるほどその苦さは文字通り甘くはなかった。

「……テト、口直しのお菓子をいくつかみんなと選んできてくれない?」

「任せて!」

 快諾したテトとその場にいた警備隊全員をヴェルムは菓子の置いてある台所へと促した。

 フィシュアは虚ろな目でテトと警備隊の皆が食堂の出口の向こうへと消えたのを確認する。唯一その場に残ったシェラートを、フィシュアは机に突っ伏したまま見あげた。

「すみませんでした……」

「わかってるならいい」

「やっぱり、ばれてたんだ……」

「当たり前だ。嘘が苦手ならつくな、と言わなかったか?」

「……言われました。だけど、みんなにも頼んだし今回は大丈夫かと」

 うぅ、と呻き声を漏らすフィシュアを見下ろしながらシェラートは溜息をついた。

「あいつらソワソワと動きすぎだ。不自然すぎて全然役に立ってない」

 シェラートに一刀両断され、フィシュアはますます頭を机へと突っ伏した。

 そんなフィシュアに再び溜息を落としつつシェラートは椅子を引き、向かいの席に座る。

「まぁ、フィシュアのは仕事が仕事だからな。部外者に聞かれちゃまずいのもよくわかるが、行きたいなら一言いってから行け」

「いや、だって視察行きたいとか言ったら、また運ばれそうだったし。その前に許してくれるかわからなかったし」

「どうしてそうなる? 別にフィシュアの仕事に口出しするような権利は俺にはないだろう。警備隊の奴に任せておけば問題ない。だけど、どうせ一人で行ったんだろう?」

「何でそこまでわかったの!?」

 驚いて顔をあげたフィシュアに、シェラートは心底呆れたような顔を向けた。

「だから、フィシュアは嘘が苦手だって言うんだよ。ただの釜賭だ。というか、やっぱり一人で行ったのか」

「釜賭って、シェラートも大概性格悪いわよね……」

 うなだれたフィシュアの呟きに、シェラートは血相を変えた。

 フィシュアは急に張りつめた空気の意味がわからず眉をしかめる。

「何?」

「もしかして、一人でエネロップに会いに行ったのか!?」

「…………」

 どうしたらさっきの会話の流れでその結論に達するの、と内心悲鳴をあげながらフィシュアはこの状況を打開するため、必死で言い訳を探した。だが、シェラートはその間の沈黙を肯定と取ったらしい。こめかみに手を当てると深く嘆息した。

「お前なぁ、昨日の今日だぞ? あいつらに殺されかけたの忘れたのか? そんな奴らのところに供もつけずに一人で行くか、普通?」

「いや、でも、別に特に問題なかったし……」

「それは結果論だろうが! どうしてフィシュアはそう周りのことには聡いくせに自分のことには無頓着なんだ? 周りに害がなければ自分一人は傷ついてもいいとか思ってるなら、それは傲りだぞ? もう少し考えた方がいい」

 シェラートのあんまりな物言いに、フィシュアはムッとすると反論した。

「別に傲ってないし、きちんと考えてるわよ!」

「だけど、どうせ俺たちを巻き込みたくないとか勝手に思ってたんだろう?」

 フィシュアはその問いに答えず、シェラートからふいと顔を背けた。

「……まぁ、フィシュアがそう思ってくれること自体はありがたいし、特にテトのことがあるからわからないでもないが、もう少し周りに頼ることを覚えろ。昨日も思ったがフィシュアは何でも独りで抱え込みすぎなんだよ。俺たちは、まぁいいにしろ、ロシュだったか? その護衛官とか、フィシュアの近くでずっと支えてくれてた奴らにそれはひどすぎるぞ? もっと頼ってやれ」

「それは、ロシュに言われたことがある……」

「だろ?」

 今度は素直に頷いたフィシュアにシェラートは続けて言った。

「フィシュアは普段から昨日の夜くらい我儘言っても許されるんじゃないか?」

「昨日は駄々こねるな、とか言ってたくせに」

「俺に言われたら困るが、フィシュアの周りの奴らは喜ぶだろ」

「何それ。意味がわからないんだけど」

 怪訝そうな顔をしたフィシュアを見てシェラートは苦笑した。

「わからないなら、試しに今度やってみるといい」

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