第23話 夜伽話【6】

 サーシャは窓辺に座り、毎日ひたすら指輪に光る小さな青い石を眺め続けた。

 また、と約束した日から既に一年と二月ふたつきが過ぎていた。

 あれから、この石と同じ色をした瞳の持ち主は結局現れなかった。今はもうとっくに季節風ナディールの時期が訪れて久しい。

 今年の季節風が吹きだした頃、サーシャの元へやってきた国王の使者は、魔女と仲違いしたことも忘れたのか『ついに海賊たちが姿を現さなくなった』と、嬉々としてサーシャに礼を告げた。正直なところ、自分がどのように使者の対応をしたのかさえ、サーシャには覚えがない。

 あれからガジェンとその仲間たちは、どうしてしまったのか。

 サーシャ自ら、手を離したのだ。もうとっくに興味など失せてしまったのかもしれない。

 けれど、もし。あの時、笑っていたガジェンが、あの傷が元で死んでしまっていたら。

 最悪な考えさえ、頭に浮かびはじめる。

 せめて、私に飽いただけならいい。

 荒れているはずの冬の海の方角を、サーシャは高い砦の窓から臨む。見えるのは荒野ばかりで、ここからはとても海の様子など伺い知れないと知っていたのに。

 気がつけば、ただひたすら、ガジェンのことばかり考えていた。心配で、寂しくて、胸が痛かった。



 やがてまた季節は巡り、凪の季節がやってくる。

 澄み渡った春の空を、小鳥たちが穏やかに飛んでいく。

 サーシャは、青空を仰ぎ見る。すると、心の中で生まれた決心は、あたかもそれが当然だったかのように、すとんと彼女の中に落ちてきた。

 ――会いに行こう。今度は私が。

 確かめようと、サーシャは決意する。たとえそれが最悪の形であったとしても受けとめなければ、前に進めない。

 サーシャは瞳を閉じて、ガジェンが持っているだろう赤い石のついた魔法具の気配を捜す。

 すぐに魔法具は見つかった。壊れてなどいない。

 確かにここからずっと西。きっと海を越えた、さらにその先の大陸にそれはあった。

 サーシャは眼裏まなうらで、はっきりと赤い魔法具を捉え、転移した。


 辿り着いた場所はどこかの路地裏らしかった。

 探すまでもない。ちょうど裏木戸から出てきたらしい茶髪の男が、目に飛び込んでくる。

 ――生きていた!

 久しぶりに見た懐かしいその姿に、サーシャは胸を震わせた。

「ガジェン」

 空中から聞こえてきた女の声に男は振り返る。

 驚きに見開かれたその瞳は青。繰り返し眺めていた宝石と同じ色。

 間違いなくガジェンその人だった。

「サーシャ!?」

 ガジェンの表情が驚きから、笑顔へと変わる。

 反対に、サーシャの笑顔は、驚きを含んだ戸惑いへと変わった。

「……子ども?」

 ガジェンの腕にはちょうど一歳になるか、ならないかの、かわいらしい男の子が抱かれていた。ガジェンと同じ茶髪に青い瞳の男の子は、すぐ傍で、宙に浮いたまま動けないでいるサーシャを見つめ「とりっ、しゃっ」と手を伸ばしてくる。

 サーシャの問いかけに慌てはじめたガジェンを見て、サーシャは泣きたい衝動にかられた。

 やっぱり飽きてしまったのだ。あるいは、ただ、彼は“生ける宝石”が欲しかっただけなのかもしれない。

 他に大切な女がいた。

 ガジェンに好かれていると思い込んでいた自分にサーシャは辟易した。

 これ以上ここにいたら本当に涙が零れそうで、サーシャは踵を返す。もうここに用はない。

 しかし、転移しようとした瞬間、懐かしく、力強い手がサーシャの腕をつかんだ。

「――っわぁ! ちょっと待て! サーシャ、なんか勘違いしてるだろう!? 頼む! 頼むから、そのまま行こうとするのだけはやめてくれ!」

 必死に止めようと慌てるガジェンに、サーシャは怪訝そうな目を向ける。

「いったい何を勘違いするっていうの? その子はガジェンの子でしょう?」

「そうだ、この子は俺の子だ。だけど俺の子じゃない」

「わけがわからない」

 再び踵を返そうとするサーシャにガジェンは行かせてたまるか、と掴む力を強くする。

 そんなガジェンの様子にキョトンとしながら、彼と同じ青の目を持つ男の子は首を傾げた。

「パパ。パッパ?」

「――うっ、アズー、そうだが、ちょっとややこしくなるから黙っててくれ」

「お頭、アズー、そろそろご飯にしますよ、って、えっ!?……サーシャさん!?」

「ボッチェ!!」

 すぐ近くの裏木戸から顔を出した男は、ガジェンの海賊仲間だった。

 ここにいるはずのないサーシャの存在に驚く彼を見て、ガジェンは天の助けとばかりに顔を輝かせた。

「ボッチェ、悪い、事情は後で説明するから先にアズーを連れて行っててくれ」

 ボッチェは、ガジェンとサーシャを見比べて、あぁ、と納得する。「わかりました」と快諾したボッチェは、にやにやと込みあげてくる笑みを隠しもせずに、男の子を連れて元来た木戸へと消えた。

 ガジェンはほっと胸をなでおろすと、いまだ宙に浮かんだままのサーシャを見あげた。

「さっきの続きだけどな、アズーは俺が育てている俺の子どもだ。みんなにも手伝ってもらってる」

 じゃあ、どこが私の勘違いなんだ、と睨みつけてくるエメラルドの双眸にガジェンは嬉しそうに、にやりと笑う。

「なんだ、サーシャ、あれだけ断っておいて、俺に惚れていたのか?」

「――!?」

 カッと赤くなるサーシャを、ガジェンは慈しむような眼差しで見つめた。

「俺に会いたかったのか?」

「誰が!」

「いなくて寂しかったか?」

「…………」

 その問いかけにエメラルドの瞳から涙が零れ落ちた。

 サーシャの虚勢は、ここまでが限界だった。

「……サーシャ?」

 ガジェンが愛しき魔女を覗き込む。

 次々と溢れ出る涙に濡れたエメラルドはどんな宝石よりも輝いていた。

 少なくともガジェンにとっては。

 静かに泣き続けるサーシャにガジェンは、ふっと笑う。

「泣かなくてもいいぞ? アズーは俺の子どもだが、俺の子どもじゃないと言ったばかりじゃないか。アズーは酒場の前に捨てられていた孤児だったんだ。アズーをはじめに見つけたのは俺だった。これも何かの縁だ、と思って引き取って育ててるんだ。だから……まだは、いない」

 安心したか? と見上げてくる青い瞳にサーシャは一気に力が抜けた。

 はじめて自分から腕の中へと落ちてきた彼女をガジェンはしっかりと受けとめる。

「寂しかった。また来年と言ったのに」

 来てくれないから、とサーシャは額を、抱きしめてくれたガジェンの肩口に押し付ける。

 泣き続ける魔女の黒く豊かな髪を、ガジェンはあやすように、ぽんぽんとなでた。

「悪かったな、本当は行きたかったんだけど、アズーがまだ小さすぎて大変だったんだ。ほら、夜泣きとか……。今はちょろちょろ動きまわって船に乗せたら海に落ちそうだし」

 それになぁ、とガジェンは溜息をつく。

「あんたも悪いんだぞ? 自分は東の魔女だから俺とは一緒に行けないって言ったじゃないか。やることがあるって。だから、俺はその役目が終わった頃、それって次の東の魔女が決まる頃だろう? その時はアズーも一人前になってるだろうからな、それまでに改めて迎えに行こうと思ってたんだ」

 ガジェンの言葉にサーシャは顔をあげ、エメラルドの瞳を見開いた。

「俺はまだ諦めきれそうになかったからな」

 驚くサーシャに、ガジェンは、にかっと笑う。

「けど、サーシャの方から来てくれるとはな」

 頬を染めるサーシャをガジェンは強く抱きしめた。

「まさか、今更やることがあるから、やっぱり帰るなんて言わないよな?」

 耳元で囁かれる問いにますます顔を赤くしながらサーシャは自分の身体をガジェンに預けた。

「戻っても、たぶん、また何も手につかない」

 その答えにガジェンは嬉しそうに笑うと柔らかい黒髪へと顔をうずめた。

 くすぐったいその感触にサーシャも目を細める。

「私、本当にここにいてもいい?」

 突然、投げられた問いにガジェンは力を緩め、腕の中の魔女を見る。

 何も答えないガジェンに慌ててサーシャは訴えた。

「大丈夫。私もちゃんとあの子の母親になるから! きちんと育てる!」

 どこか論点がずれているサーシャの頬をガジェンは思いっきり引っ張った。

「――な!?」

「ほんっとに……なんでそんな当たり前のことを聞くんだ。ちゃんと俺の話聞いてるのか? 最初っから一緒にいてくれって言ってるだろう?」

 呆れた顔をして、大きな溜息をついたガジェンにサーシャは眉を寄せた。

「だって、最初は生ける宝石の私を貰い受けたいと言っていたでしょう? “生ける宝石”だからこそ欲しかったんじゃなかいの?」

「それ同じ意味だろう。別に“生ける宝石”があんたじゃないなら欲しくない」

 ガジェンの言葉に真っ赤になりつつ、そっぽを向いたサーシャは、ぶすっと呟いた。

「ガジェンは、いちいちわかりにくい。だいたい、さっきのだって、この二年来れなかったからって、子どもが大きくなるまで来ないなんて極端すぎるでしょう?」

「サーシャだって充分わかりにくいだろう。俺は好かれてるなんてちっとも、わからなかったぞ?」

 それは、とサーシャは口ごもる。

「ごめんなさい……私もさっき気づいた」

 ガジェンは脱力して、頭をサーシャの肩にのせる。

「それはないだろう……。なら、なんでここまで来たんだよ」

「いや、ただ、会えなくて寂しくて。ガジェンが子ども抱いてるの見て、泣きそうになって、まぁ、結局泣いてしまったけど、その時やっと自覚したの」

「じゃあ、アズーがいなかったら気づかなかったかもしれないのか? いや、待て。アズーがいなかったら今までどおり会いに行ってるだろうからな、やっぱり気づかなかったか」

「まぁ、そういうことになる、ね?」

 少しだけ申し訳なさそうに答えた魔女に、ガジェンはアズーと出会えた奇跡を心の底から感謝した。

 ガジェンはもう一度サーシャを抱きしめると、はっきりと言った。

「ここにいていいに決まってるだろう? というか、もうずっとここにいてくれ。せっかく捕まえたのに逃げられたら困る」

 サーシャはガジェンの腕の中で嬉しそうに頷くと、今度こそ安心したように身を寄せた。

 そうだ、とガジェンは呟くと、サーシャの耳元へ口を近づけ、最後の確認をする。

「じゃあ、俺の案、採用でいいのか?」

「そうする」

 二人はお互い顔を見合せ、笑いあうと、また抱きしめあった。

 二年間の空白を埋めるように。これからは離れることのない存在を確かめるように。


 それからすぐ、東の魔女はこのダランズール帝国西の国へと移り住むことになったのです。

 だけど、大丈夫。魔女に相談したい人は、気軽に東の国にある魔女の家の扉を叩いてみてください。

 すぐに、魔女は現れるはずです。

 ただし窓の外は東の国には見られない風景が広がっていると思いますが。

 今も東の国の魔女の薬指にはエメラルドの傍で青い飾り石が輝いているといいます。

 その上には、それに似合う細い銀のもう一つの指輪も。

 きっと彼女はこれからも末永く、幸せに暮らすことでしょう。もちろん大切な人の近くで。


 めでたし、めでたし。


***


「――って、え!? もうテト、寝ちゃってるじゃない。絶対、最後まで聞いてないわよね?」

 頑張ったのに、と残念がるフィシュアにシェラートが呆れたように言った。

「お前の話が長すぎるんだよ。なんでそんな、いちいち細かいんだ」

「これでも結構、省いたのよ? 私が聞いた話はもっとずっと長いもの。だいたい長くもなるわよ。これ、本人たちが、自分の子どもたちに御伽話って言って聞かせてた二人が結婚するまでの、のろけ話だから」

「さっき、昔々ってテトに言ってたじゃないか。今も、実在してるのか?」

「ええ、実在してるわよ。今は二十人の子どもたちのお母様とお父様。皇都にたくさんいた孤児たちを引き取って育てているサーシャとガジェンは有名だもの。皇宮も彼らに資金援助してるしね。話に出てきたアズーなんかはとっくに成人して今は船乗りをやっているけど。だいたい、昔々って言った後、本当はまだそう遠くない最近の話なんだけどね、って、ちゃんと付け加えたじゃない」

「お前はいちいちややこしいんだよ」

「あら。御伽話は昔々ではじまって、めでたしめでたしで終わるのが常識でしょう?」

 あっけからんと答えるフィシュアにシェラートは疲れを覚えて寝台に横になった。

 寝転がってしまったシェラートを見ながら、フィシュアはそのまま寝ようとする魔人ジンに声をかける。

「そういえば、あなたも黒髪に緑の瞳よね? もしかして、カーマイル王国の出身なの? それとも、魔人ジンの場合は関係ない?」

「ああ」

 それだけしか答えないシェラートに、フィシュアは眉を寄せる。

「それはどっちの問いに対する答えなのよ?」

 シェラートは気だるそうに「カーマイルだ」とだけ呟いた。

 それから、翡翠の瞳だけ向けると、フィシュアに言う。

「明日は早いんだから、お前も早く寝ろ」

「うん、まぁ、それもそうね」

 フィシュアは立ちあがると、気持ちよさそうに眠るテトの前髪をふわりとなでた。枕元の小棚の上にあるランプの火をそっと吹き消す。

 おやすみなさい、とフィシュアは、シェラートに小さく声をかける。答えはなかった。

 だからもう、あとは静かに、彼女は扉を閉じて部屋をあとにした。



 灯りが消えた闇の中、天井を見あげていたシェラートは目を閉じた。

 彼の瞼に浮かぶのは懐かしい故郷の姿。

 けれど、もう存在しているはずのない風景。

 彼がそれを語るのは、もうすこしだけ先の話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る