第14話 旅の理由【2】

 最初の発病者が出た日から、村の三分の一にあたる人数がその奇病に罹るまで半月もかからなかったと言う。原因がわからない伝染病は、一向に収まる気配を見せず、そしてとうとうテトの母にも病魔の手は伸びた。

「だけどね、やっぱりもう会えないなんてそんなの嫌だから、『僕が絶対治すから待ってて』って約束してから別れたんだ。お母さんは泣いても仕方がないって言ってたくせに、僕が村から出る時、笑いながら泣いてた」

「……そう」

 フィシュアは静かに頷いて、テトの肩を抱き寄せる。

「きっとお母様はテトが言ってくれた約束が嬉しかったのね。だけど、同じくらいテトと別れるのも辛かったのでしょうね」

 フィシュアはテトの頭をなでた。頭に添えられた掌が髪の流れに沿ってふわりふわりと幾度となく行き来する。その手つきがあまりにも優しくて、テトは思わず泣き出しそうになった。熱くなりはじめた目頭にぐっと力を込めて堪える。

 テトは暗い雰囲気を振り払うように、努めて明るい声を出した。

「シェラートと会ったのはね、叔母さんが住んでいるリムーバっていう街なんだ。ミシュマールの村からはすっごく遠くってね、山道を馬車に乗って十日もかかったんだよ。叔母さんはとっても優しくしてくれたんだけど、僕はやっぱりお母さんとの約束が守りたくて、けど、どうしたらいいのかわからなくて、毎日、街の外れにある野原で泣いてたんだ」

 そうしたらね、とテトはフィシュアを見上げ、秘密を明かすように笑みを零す。

「いきなりシェラートが現れて、『どうしたんだ』って聞いてきたんだよ。理由を話したら、『なら俺が叶えてやるから、お前は俺の契約者になれ』って言ってきたの。それから、ずっと一緒に旅してるんだ。ね、シェラート」

 テトは喜色を浮かべて、向かいの寝台に座すシェラートに呼びかける。

 話を聞いたフィシュアは驚いた。反射的に、件の魔人ジンに目を向けると、彼は「俺に話を振るなよ……」とぼやいて、ひどく居心地が悪そうに渋面を作っている。

 フィシュアは、シェラートの様子を伺いながら、注意深く切り出した。

「ねぇ……魔人ジンって普通に街を歩いていたりするものなの?」

「あぁ。結構普通に歩いてるぞ」

「普通に!?」

 何の気はなしに返されたシェラートの答えに、フィシュアは言葉を失った。フィシュアの狼狽を気にかける風もなく、シェラートは驚く意味がわからないと言わんばかりに肩をすくめる。

「じゃなかったら、街にいる若者の間であんな手首に入れ墨を入れるなんてこと流行るわけないだろ」

「それは、みんなが本に載っているのを見て真似したんじゃないの?」

 少なくともフィシュアは幼い頃に魔人ジンに関する本を読み、なおかつ老師せんせいから教わったからこそ、魔人ジンの手首に黒い紋様があるのを知った。

 何をきっかけに、いつ頃から若者たちの間で入れ墨が流行り出したのかは定かではないが、フィシュアの目の前にいる魔人ジンの手首を取り巻く黒い複雑な紋様は、確かに装飾的で美しかった。真似をしたがる若者の気持ちもわからないではない。

 だからと言って、真似するのは若者たちが日々目にしているからだと言われても、フィシュアは納得がいかない。そもそも、魔人ジン魔神ジーニーの存在はこの大陸に住む者たちにとって常識ではありながら、その多くが謎に包まれているのだ。そんな存在が日常的に街中を闊歩しているはずがない。

 しかし、フィシュアの考えはシェラートによってあっさりと否定された。

「本にのってるってことは、そのことを知っていて書いた人間がいるってことだろう。しかも、その本の記述が誰に否定されるでもなくまかり通ってるんだから、書いた人間以外にもそういう魔人ジンを見た奴がいっぱいいるってことだ」

「…………」

 言われてみれば確かにその通りで、フィシュアは絶句した。つまり、答えは単純であり、ほとんどの人間が彼らの存在に気付かず過ごしているだけなのだ、と気付かされて愕然とする。

「まぁ、そういう訳で、俺はテトの魔人ジンになったんだ。話はもうこれで終わりだろう? テト、明日も早いんだ。早く寝ろ」

「うん」

 言うが早いか、シェラートは寝台にごろりと身を横たえた。テトもシェラートの言葉に従って、いそいそと寝台に入り、寝る準備をはじめる。

 一人取り残されたフィシュアは、さっさと寝台に入ってしまった二人を見やって、眉をひそめた。

「ちょっと待って。何言ってるの? 明日はちゃんとゆっくり休まないと」

 険を含んだフィシュアの声音に、シェラートは煩わしそうに目線だけを彼女の方へ向けた。

「訳を話したんだから、わかってるだろう。俺たちは、急いでるんだ。できるだけ早く起たないと」

「だからって」

「ごめんね、フィシュア。本当はその首飾りが何なのか気なるし、明日の夕方までいたかったんだけど」

 シェラートに加え、テトも掛け布からちょこりと顔半分だけ覗かせて申し訳なさそうに弁解してくる。

 ――この人たちはっ!

 フィシュアはさっと二人を睨んだ。込みあげてくる怒りに身体が震える。

 今日あんなことがあったくせに何を言っているのだ。あの水場での説教は何の意味もなさなかったらしい。二人には何も伝わっていなかった。

 こんなことで体力を使うなんて本当に無駄遣いだ、と頭の片隅では冷静な自分が呆れて溜息をついている。だが、実際のところ、フィシュアはすごい剣幕でまくしたてていた。

「あなた今日、倒れたばかりでしょう? テトだって、ぎりぎりだったんだから、明日はゆっくり休んでおかなきゃいけないに決まってるでしょう? 休む時は休んでおかないと結局、途中で無理がたたって村に着くのは遅くなるわよ? 大体どうやって行くつもりよ? まさか街の上を飛んで行くなんて言いだすんじゃないでしょうね? そんなことしたら珍しがられるか、鳥と間違われて射落とされるわね」

「いや、さすがに街の上は飛んでない……」

 フィシュアの剣幕に押されつつ反論を試みたシェラートは、次の瞬間ますます怒りに燃える藍色の双眸に『黙れ』と一蹴され、呆気にとられながらも賢明に口をつぐんだ。

「あなたはどうして自分が倒れることになったのか本当にわかってるの? 荷物を盗られて、旅に必要なものを何も持っていなかったからでしょう? なのに、そのまま出かけるつもり? 明日は休養と旅に必要なものを準備する時間にあてなきゃいけないに決まってるでしょう! 何も揃えないでどうやって旅を続けるつもりよ。大体飛べないからって、徒歩で行くつもりなの? それこそ時間の無駄よ。馬を使ったほうがよっぽど早いわ!」

 一気にまくしたてたフィシュアは、せわしなく肩で息をする。

 呆然とフィシュアの言い分を聞いていたテトは、まだ怒りの収まっていない彼女に向かって、恐る恐る話しかけた。

「だけど、フィシュア。……僕たちお金持ってないよ?」

 準備するしない以前の問題である。テトとシェラートにそもそもの資金がないのはここにいる誰にとっても明白なことだった。

 フィシュアはふいに窓に目を向けた。今はもう完全に夜の帳が落ちている窓の外は真っ暗だ。まるでテトの言葉が耳に届いていないのか、しばらく窓の外を眺め続けていたフィシュアは、深く息を吸うと、観念したように目をつぶった。

「……たし、が、……う」

「え? 何?」

 フィシュアの口から洩れた、掠れた呻き声に、テトはきょとりと目を丸くして聞き返した。

 フィシュアは瞼を押し上げる。決然とした意志の灯った双眸を、彼女はテトとシェラートの二人にはっきりと向けた。

「私が払う! 私も一緒について行く」

「本当に!?」

 テトは勢いよく寝台から飛び起きた。喜色を全面に現して、テトはフィシュアにしがみつく。

 フィシュアは複雑な顔をしながら、無邪気に喜んでいるテトを受け止めた。自分の決断を改めて言い聞かせるように、彼女ははしゃぐ少年の髪をなでる。

「何かご不満でも?」

 訝しげな視線を感じて、フィシュアは顔を巡らせた。

 翡翠の双眸と目がかち合う。

 いつの間にか上体を起こしフィシュアを凝視していたシェラートは、藍の双眸にひたと見据え返され、かぶりを振った。

「いや。正直に言うと、助かる。けどお前はいいのか? 皇都へ行くには遠回りなんだろう?」

 それはフィシュアが口にしたことだ。そう言って、彼女は当初テトの提案を断った。

 相対する深い藍色の瞳に揺らぎが走る。だが、それも一瞬の出来事で、次にシェラートが見た時には、揺らぎなど完全に消え去っていた。あとにはただ、凪いだ海のような静けさだけが残される。

 息をついて、フィシュアは微苦笑した。

「大丈夫よ。言うほど遠回りじゃないし」

「そうか」

 シェラートはそれ以上、何も言わなかった。

 深く踏み込まれなかったことに、フィシュアは胸をなでおろす。早々に話を切り上げるべく、彼女は話題を変えることにした。意識して、意地の悪い笑みを浮かべる。

「やっぱり、あなただけにテトを任せるのはすっごく不安だもの。また今日みたいに急に倒れられたら困るし。ねぇー、テト?」

 フィシュアに、「ねぇー」と相槌を返しながら、テトは上機嫌でくすくすと笑う。しかし、テトは急に顔を曇らせると、フィシュアの袖を引っ張った。

「ねぇ、フィシュア。払うって言っても僕たちの分までお金はあるの? 無理してない?」

 心配そうにテトは尋ねる。大丈夫よ、とフィシュアは自信たっぷりに請け負った。

「子どもはお金の心配なんてしなくっていいの。蓄えならそれなりにあるわ。三人分くらい余裕よ。それに見たでしょう? 私といれば宿と食事代はただよ?」

 そう言って、フィシュアはテトの眼前で首飾りについたラピスラズリを振ってみせた。

 取り込まれそうなほど深い色をした藍の石。テトは不思議そうにラピスラズリに手を伸ばす。

「……この石。本当に何なの?」

「まぁ、簡単に言うと身分証明書みたいなものかしら?」

「身分証明書? 何の?」

 まったく答えになっていないフィシュアの説明に、テトは重ねて問うた。けれども、フィシュアはテトの問いに答える素振りを見せず、代わりにテトの額に口付けを一つ落とす。

「それは、明日のお楽しみだったでしょう?」

 固まるテトの目の前で、フィシュアは唇の両端をあげて艶やかに笑う。

 またもや真赤になってしまったテトを尻目に、フィシュアはそろそろ部屋に戻ろうと、寝台から立ち上がった。

 ふと、目に入ったシェラートの表情に、フィシュアは言い訳するように首をすくめてみせる。

「今のは約束していた再会の、でしょう? あぁ、それから、おやすみの、かしら」

 シェラートはもはや何も言ってもだめらしい、と諦めて溜息をついた。

 ――と、額に柔らかな質感が触れる。確かにかすった熱の正体を悟るより早く、薄茶の前髪が目の前から離れた。

 シェラートは驚いて顔を上げる。すぐ間近には藍色の瞳があった。

 極限まで開ききった魔人ジンの翡翠の双眸を見つめ返しながら、フィシュアは稚気をたんと含ませて笑う。

「あなただけにあげないっていうのもかわいそうだしね」

 くすくすと可笑しそうに喉の奥で笑いながら、フィシュアはシェラートの黒髪に触れた。

「あなたの髪も意外と柔らかいのね」

 髪質が違うのかしら、とフィシュアは首を傾げながら、一人ごちる。

 唖然とするシェラートの黒い髪を、思う存分わしゃわしゃと掻きまぜたフィシュアは、ようやく黒髪から手を離し、扉に向かった。

「おやすみなさい」

 硬直したままの二人に言い置いて、フィシュアは部屋から出て行った。

 微かな音と共に扉は閉じられる。

 しばらくして、自失から立ち直ったシェラートは、疲れの滲む声でテトに「寝るか」と呼びかけると、投げやりな仕草で手を振って、ランプの灯火を打ち消した。


 だから、彼らは知らない。

 部屋を出た彼女の藍色の双眸が鋭く厳しかったということを。

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