第94話 激流の中の幻獣

 馬の頭が襲いかかってくるのを見て、僕は首をすくめた。鼻の中に冷たい水が一気に流れ込んでくる。

 もがく僕の頭の上を、川の中の馬が通り過ぎていく。

 だけど、逃げられたわけじゃなかった。大きな魚の尻尾が、僕の身体を弾き飛ばす。

 息は楽になったけど、その代わり、僕の身体は水面に突き出た岩に叩きつけられた。

 ……ケルピー川馬

 水の中の真っ青な馬に、僕は見覚えがあった。ファンタジー系RPGに時々出てくる幻獣だ。

 魚の尻尾を持っていて、旅人を川に引きずり込んで溺れさせる。その内蔵は、このケルピーに食べられてしまうという。

 ……もう、だめだ。

 泳げない僕がこんな流れの激しい川に落ちて、しかもこんなのに狙われたら、助かるわけがない。

 それでも、僕は必死で岩にしがみついた。手が濡れているもんだから、滑りやすくなってる。指に力を入れて、流されないように耐えた。

 ……痛い!

 崖から落ちたせいで打ったところだ。あっちこっちがズキズキして、どうにも我慢が出来ない。腕も、手の指もそうだった。

 ……指が! 指が!

 1本、また1本と岩から離れていく。水の中にはまるのは、時間の問題だった。

 ……こんなところに落ちたら。

 川の流れはものすごく速いけど、水はきれいだった。これが現実世界で、キャンプかなんかに来てるんだったらどれだけいいだろうか。

 でも、ここは異世界だ。吸血鬼や幻獣が平気でうろうろしてる、危険な世界だ。

 現に、川の底まで澄んで見えそうな水の中には、ぼんやりとケルピーの影が見える。

 ……僕が落ちてくるのを待ってるんだ!

 指が痺れてきた。もう一方の手をかけられたらいいんだけど、グェイブを握ってるからダメだ。

 ……捨てちゃおうか?

 一瞬だけ頭に浮かんだことを、僕は顔をしかめて、なかったことにした。

 ……これがなくちゃ、ヴォクスに勝てない!

 そうなのだ。僕はリューナを守らなくちゃいけない。こんなところで谷川にはまって、ケルピーに食われている場合じゃないのだ。

 ……戦おう!

 僕は岩に引っかかっている指に、力を込めた。もう一方の腕を思いっきり伸ばして、水の中に見えるケルピーの影に向かって、グェイブを突き出す。

 何か、固いものに触った気がした。

 ……当たった!

 だけど、倒せなかったら意味がない。いきなり水しぶきが上がって、そこに現れたのはケルピーの頭だった。

 グェイブで突き刺そうと思ったけど、指の力は限界に来ていた。手がつるっと滑って、僕の身体は川に滑り落ちた。

 ……まただ!

 口とか鼻から水が入ってきて、苦しくなった僕はもがいた。何をどうしたのかよく分からないけど、頭が水の上に出て、息ができた。

 青い空が、ぐるぐる回っている。

 いや、僕の身体が回っているのだった。

 ……岸は?

 何とかして水から上がらなくちゃいけない。その場所を探してみたけど、流れが速すぎて溺れそうになっているのに、見つける余裕なんかあるわけがなかった。

 それでも、グェイブだけはしっかりと握りしめていた。こんなに強力な魔法の武器は絶対に手放せない。

 ……もしかすると、ケルピーも?

 グェイブが1回当たっただけで、僕を襲うのを諦めたかもしれなかった。

 ……早く、ここから!

 そう思った時、また身体が水の中に沈んだ。水の流れていく方に、足が引っ張られる。何かが巻き付いている気がした。

 ……ケルピーの尻尾?

 グェイブで斬りつけたくても、両手は川の流れてくる方にバンザイ状態だ。息はどんどん苦しくなってくる。

 ……手が。

 水の冷たさと勢いで、だんだん痺れてきていた。グェイブを握っていられない。

 ……もうダメだ。

 我慢したけど、身体がいうことを聞いてくれなかった。僕の手から、グェイブがすっぽ抜ける。これで、ヴォクス男爵とも、ケルピーとも戦う方法はなくなった。

 ……いいんだ、もう。

 このまま溺れてしまうんだろうと思うと、もう何をする気もなくなった。

 でも、苦しいものは苦しい。水の入ってきた鼻が痛くて痛くて、僕はもがいた。じたばた暴れた。

 それが良かったのかもしれない。

 僕の身体が岩にぶつかったとき、ものすごい痛みと共に足が自由になった。

 ……今だ!

 そのまま岩にしがみついたけど、水面の上に上がるような力はない。川の流れで、手はまた引き剥がされた。

 ……限界。

 もう、息ができなかった。頭の奥がジンと痺れる。

 ……溺れる。

 怖いのと冷たいのと苦しいのと痛いので混乱してたけど、そんな言葉だけは、ふいと頭に浮かんだ。

 ……死ぬんだ。

 そう思った瞬間、身体が沈んだ。何かが身体にのしかかっているた。目を開くと、大きな馬の前足が、僕の身体を押し倒していた。

 目がぼんやりとかすんできた。でも、川の底から空が見えた気がした。真っ青に、ゆらゆらと揺れていた。

 ……川底?

 何も考えられなくなる直前に思ったのは、流された割には意外に浅い川だったってことだ。

 その瞬間だった。

 ケルピーが突然、両足を高々と上げたので、僕の身体はまた谷川に浮かんだ。流れは相変わらず、速くて強い。だから、僕は水面に出た岩で、また痛い思いをすることになった。

 ……助かった。

 今度の岩とは相性がいいようで、僕はしがみつかなくても、咳き込んで水を吐くぐらいの余裕はできた。

 何よりも良かったのは、川がそれほど深くないということだった。岩にもたれて足を川底に付けると、水面はせいぜい僕の胸ぐらいまでしかなかった。

 そうは言っても、川の波は上がったり下がったりしているので、ときどき、僕の顔まで来る。そういうときは、息を止めて横を向くしかなかった。

 ……ケルピーは?

 何で、僕から足をどけたんだろうか?

 ……そうだ、グェイブ!

 流れて行ってしまったのかもしれないと思うと、心細くなった。またケルピーが現れたら、戦いようがない。

 ……逃げようかな?

 無理だった。今は大きな岩がストッパーになっているだけで、一歩でも足を横に踏み出したら、また川に流される心配があった。

 ……冷たいなあ、それにしても。

 暑いのもつらかったけど、あまり冷えすぎるのもきつい。凍えてしまいそうだった。

 ……このまま、日が暮れたらどうしよう?

 それまで、気力が持たない気がした。身体も疲れてきている。

 ……もう、立ってんのもいやだ。

 でも、座るのは無理だ。そこまでやったらどうなるか、だいたい想像はついた。

 ……やっぱ、もうダメかな。

 そう思うことしかできなかった。

 ……溺れるか、ケルピーに沈められて内蔵を食われるか。

 二つに一つだと思ったけど、すぐにどっちでも同じことだと気付いた。

 何だか、腹が立ってきた。

 諦めるのは僕の勝手だけど、どうにもできないヤツに諦めさせられるのは、なんか面白くない。

 ヤンキーにたかられて金渡しちゃったときみたいな。

 そんな金なら、自分で落としたほうがまだ諦めがつく。 

 ……やってやる! そんなら!

 僕は足元の岩を蹴って、水の中に飛び込んだ。こうするしかない。どうせ泳げやしないけど、ケルピーから逃げまくって溺れさせられるよりはマシだ。

 息が苦しい。水が鼻と喉に痛い。水の中で身体がぐるぐる回って、どっちが上でどっちが下なのかも分からない。

 流れに身体を任せていると、僕は顔を上にしてぽっかり水に浮かんだ。

 ……息ができる!

 だけど、それもムダになった。波を跳ね上げて、馬の上半身が僕に覆いかぶさってきたのだ。

 ……食われる!

 覚悟したけど、ケルピーは襲ってこなかった。頭と足がいきなり沈んで、速い水の流れからは魚の尻尾がうねっと現れる。

 その先っちょには、見慣れたものが刺さっていた。

 ……グェイブ?

 目の前に振ってきた長い尻尾に、僕は一瞬だけ川底に沈められた。水の流れに手とか足を引っ張られて、身体が裂けそうになる。

 でも、僕はしっかりとグェイブを掴んでいた。

 ……離すもんか!

 ケルピーが暴れているのか、尻尾の動きで身体が上下左右に振り回される。水の上に浮かんだり、水中に潜ったり、川の底を引きずられたりする。

 ……めちゃくちゃだ。

 それでもなんとか、空気を吸えるうちに吸っておくことは覚えた。水に沈んだら息を止めなくちゃいけないけど、ケルピーがじたばたするもんだから、尻尾は割と水の外に跳ね上がっていた。

 ……もしかして、かなりダメージ?

 倒せるかもしれないと思ったけど、それは甘かった。ケルピーは前脚で水面を蹴って、思いっきりジャンプしたのだ。

 ……しまった!

 僕が慌てたのは、その反動でグェイブが尻尾から抜けてしまったことだ。

 落とさないようしがみついたけど、身体がくるくる回って、また水の中に落ちる。

 ……「GAME OVER」。

 ゲームで負けたときの画面が、頭に浮かんだ。もう、体力の限界だったのだ。このままケルピーに沈められて、溺れて死ぬしかない。

 ……死んじゃったら、内蔵食われてもわかんないよな。

 だけど、そんな僕の想像を、ケルピーは思いっきり裏切ってくれた。

 目の前に迫ってきた真っ青な馬の頭が、大きな口を開いた。

 ……このまま?

 食うのは溺れさせてからのはずだと思ったけど、この異世界がRPGの設定どおりとは限らない。

 怖いものをちょっとでも見ないで済むように、僕は目を閉じた。ケルピーが、がっぷりと僕に噛みつく。

 ……え? 

 痛くなかった。息も苦しくない。

 ……ここは?

 目を開けると、僕は谷川の岸にいた。大きな岩の上に転がされているのに気が付いて、身体を起こす。グェイブは、まだ手の中にあった。

 ……ケルピーは?

 谷川を見ると、長い尻尾が速い流れの中に沈むところだった。助かったのだ。

 ……何で?

 何が何だか分からないでいると、波の間から現れた青い馬の頭が振り向いた。ぎくっとしたけど、ケルピーは何もしないで水の中に消えた。

 ……そういえば、ネットで見たっけ。 

 ファンタジー系RPGのデータベースに、こんなことが書いてあった。

 ……「ケルピーにくつわを噛ませることができれば、思いのままに操れる」。

 もしかすると、刺さったグェイブでもコンロトールできたのかもしれない。だったら、助かったのもそのおかげなんだろう。

 でも、僕はこんなことも思い出していた。

 ……「ただし、解放したあとは呪われる」。

 でも、別に怖くはなかった。ここで溺れるくらいなら、後で呪われるほうがまだマシだと思ったからだ。 

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