第37話 言葉が通じないヒーローへの放置プレイ
シャント・コウ…山藤がモノと言葉のつながりにようやく気付いたころ、雪道をジャリジャリいわせながらバスがやってきた。
ダルマストーブの傍を離れて、夕方の冷たい風の中で身をすくめながらいそいそとバスに乗り込む人の列の最後に俺がついたのは、スマホの中でシャント…山藤がもたもたやっているのをイラつきながら見ていたからだ。
とにかく、掃除をしながらテヒブが教える言葉をひとつとして覚えることができない。いちいち指差しながら発音しているのに、なかなか上手く繰り返せない。スマホ画面のフキダシも、表示はこんな感じだ。
テヒブ《シャント、服》
シャント《……》
テヒブ《リューナ、服をそっちへ》
テヒブ《シャント、靴》
シャント《……》
テヒブ《泥を拭いておいてくれ、リューナ》
その度に、リューナが手に取った物をシャント…山藤が横取りしてはあさっての方向へ持っていく。テヒブは、指示が正確に伝わらなかったときはその都度やり直しをさせた。リューナはそんな指図で、いちいちそれを奪い返さなくてはならなかったのだった。
物の持ち運びだけではなかった。
テヒブ《シャント、階段》
シャント《……》
テヒブ《リューナ、シャントを連れて来てくれ》
階段ひとつ降りるにもこのざまなのだから、どこへ行くにも見当外れだ。1階に下りたところで、「部屋の台所でテーブルを拭く」という単純なこともできない。
「部屋」と言われれば再び階段を登ろうとするし、「台所」と言われればベッドを直し始め、「テーブル」と言われれば椅子を階下に持っていこうとするのだった。結局、割り込んできたリューナが代わりにやるのを黙って見ているしかなかった。
ましてや、「皿」「フォーク」や「スプーン」を洗って並べるなどと言う作業は、危なっかしくて見ていられない。テヒブが指さして教えたものを覚えきれず、リューナが木桶に張って外から水を持ってきても、それで洗おうとするのは言葉で告げられていないものばかりだった。
その度にテヒブは後ろから同じ言葉を囁いて、自分の手で二人羽織よろしく取ってやる。ここまでされたら普通は覚えそうなものだが、シャント・コウこと山藤耕哉の鈍さは常軌を逸していた。日が暮れる頃にはテヒブもすっかり疲れ切って、何も言わずに台所のテーブルに頬杖をついたまま、椅子に腰かけて動かなくなってしまった。
リューナはと言えば、シャントのほうをちらちら気にしながら部屋の隅々までホウキをかけ、埃を払い、壁を拭いたり椅子を足場にして天井を磨いたりしていた。だが、テヒブがすっかり諦めたのを見ると、雑巾を水桶に投げ出して顔を両手で覆って震えはじめた。
泣いているらしい。
いたたまれなくなったのか、シャント…山藤は扉を開けるとその場を出ていった。行く先は分かっている。俺は後も追わないで、テーブルにもたれたテヒブと泣いているリューナがどうするか眺めていた。
シャント…山藤が向かったのは、言葉を頼りに覚えることのできた唯一の場所だった。テヒブは切羽詰まったシャントを背中から押しながら、まるでペットにトイレのしつけをするかのように、「廊下」の奥の「便所」までいちいち連れて行ったのだった。
そこからシャントが戻ってくるのを待っていたのだろう、テヒブはなかなか顔を上げないリューナの肩をぽんと叩いた。
《ちょっと畑の皆の顔を見てくる》
本当にそんな用があるのかは分からなかった。もしかすると、気まずいこの場を離れるための口実かもしれないという気もした。
リューナもそう思ったのか、はっと顔を上げてついてくる。だが、テヒブは手を開いて遮った。
《一緒にいてやれ》
そう言い残してドアに手をかけるのを、俺は見逃さなかった。毎度のことだが、このままでは埒が明かない。「守護天使」としてシャント…山藤にヒントを与えてやろうにも、手足になってくれるモブがいないことにはどうにもならない。
連れてくるには、まず探し出さなければならない。視界にないものを見つけることはできないわけだが、ありがたいことにテヒブがドアを開けてくれた。その先には、村人たちが働く畑があるはずだ。
俺はスマホの画面を左右に撫でて、視点を動かした。空いたドアの先を見ると、畑の間を走る入り組んだ道の向こうに小さな人影がいくつも見える。
……いた!
そのひとりをタップすると、ネット上のストリートビューを動かしたときみたいに、画面が一気にそっちへ向かって疾走する。
いつの間にか発車していたバスの中で俺が捕まえたモブは、逆三角錐のマーカーをくるくる頭上で回しながら、豪雨のせいで中断された豆の収穫にいそしんでいた。
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