5-6

 ――――。

 ……なんだ……?

 鳥の鳴き声が聞こえる。

 それは生きていた時に、自分の目覚ましになっていたものだった。

 死んだはずの私が目を覚ました場所はリビングで、寝室ではない。ここは生きていた時に、私が最後を迎えた場所だった。

 周りを見ると、部屋がかなり散らかっていた。

 ワインのボトルがあちらこちらに散らばって……?

 ふとテーブルを見やると、小瓶が倒れているのに気付いた。KCN、シアン化カリウム?

 そうだ、私はこれで死んだんだ。ならこれは夢か。死んでからも夢は見るのか。なんだか不思議な感覚だ。

 しかし妙にリアリティのある夢に、徐々に疑問が鎌首をもたげ始めていた。

 そして突然、記憶の片隅にしかない不快感が私を襲った。


「うっ……」


 私は口元を手で押さえ、何故か洗面所へと走っていた。そして洗面台に手をつき水道の蛇口をひねる。勢いよく流れ出る水流が渦を巻き、私はそれに嘔吐した。


「はあ……はあ……」


 口の中の胃液独特の酸っぱさにより、次第に霞がかっていた意識がはっきりしていく。


「私は……生きている?」


 鏡に映った、病的なまでにやつれた自分に向かって疑問を投げかける。

 洗面台の陶器の、鏡の、自分の顔の質感。周囲にあるいろんなものを触って確かめた。夢ではない、間違いなく現実。私は生きている。でも何故?

 壁に手を付き体重を支えながらリビングへと戻った。そしてテーブルから落ちていた小瓶を手に取る。張られたラベルにはしっかりと「KCN」と書かれている。正規の薬屋の店主がニセモノを渡すわけはない、間違いなく本物だ。ではなぜ、死なない?

 薬の知識などないから分からない。私は間違った使い方をしたのだろうか。

 ――まさか、私は……生かされているのか。しかし、私に出来ることなど……。

 ふらつく足で向かった先は書斎だった。私は椅子に腰を下ろし、机に向かって突っ伏した。

 頭が痛い。まだ吐き気もする。二日酔い。


「ふふっ」


 ふと十五の頃を思い出した。子供だと思われたくない一心で、背伸びして街のバーに行ったんだ。そこでもやはり大人は私を子ども扱いする。私はそれにイラついて、カウンターに置いてあったボトルをラッパ飲みしたんだ。

 酒なんて初めて飲んだし、味もよく分からないまま気を失って……。どうやって帰ったのかすら覚えていなくて、気付けば二日酔いだ。

 あの頃は馬鹿だったな。


「……今でも、馬鹿かな」


 呟きの刹那、急に寂しさが込み上げてきた。屋敷の静けさがさらに拍車をかける。

 孤独を感じ、肩を掴み身を震わせる。


「寒い……」


 私は静寂に耐えられず、何かに突き動かされるように屋敷の外へ出た。

 外の日差しは暖かく、風が優しく樹葉を揺らし、自然の美しい旋律を奏でている。


「――?」


 カサッと不意に草の音が耳に届き、私はそちらへ意識的に振り返る。

 暗がりな屋敷から陽の下へ出たことにより、視界は未だにぼやけている。そんな中、まばゆい陽光の中に霞むシルエット。それは見慣れた形をしていた。

 大きくて幅の狭い黒い体躯、束ねられた黒絹が振り子のように左右に躍る。朧気だったそれは、次第に鮮明にその姿を形作り、


「――ブルルルル」


 同時に聞こえた音。首を左右に振り、精悍な顔つきでこちらを見つめている青毛の馬は――。


「クラウス……」


 名を呼ぶと、昨日別れを告げ自由にさせたはずの愛馬は、草を踏みしめながらゆっくりと近づいてくる。そして私の前で立ち止まると顔を摺り寄せてきた。

 その瞳は濡れ、泣いているようでもあった。しかしその顔は、とても嬉しそうだった。


「クラウス、お前……。ありがとう」


 私はクラウスを抱きしめ、友との再会を心から喜んだ。

 厩舎から手綱を持ってきてそれをクラウスにかけると、私は馬を引き連れてセリーヌの墓へと向かった。

 陽も当たり良い場所だが、改めて見てみるとなんだか寂しいところだな。

 ……それは、セリーヌがいないからかもしれない。彼女がいれば、どこだって楽園に思えたのだから。

 墓の前で跪き、私は亡きセリーヌに語りかける。


「セリーヌ。私はどうしたらいい? もう一度、死ぬ勇気もない」


 答えなど返ってくるはずもなく、私はただただ、墓を見つめ続けた。

 そして、気付いた。


「……もう一度、死ぬ? もう一度……」


 そうだ、私は一度死んだんだ。今の私は、私であって私ではない。

 ――っ!?

 心にかかっていた靄が晴れたような気がした。そして何かが吹っ切れた私の脳裏に、記憶という名の大海の底に眠っていた、とあるワードが思い浮ぶ。


「グリ、モ、ワール……。グリモワール?」


 それはたしかに私の脳裏をかすめた。光の速さで。

 一見するとなんでもない言葉のように聞こえるかもしれない。けれど確実に“それ”は私にとって本当の、そしてパンドラの箱に残された最後の希望なのだと悟った。


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