4-3

 翌朝。

 いつもより早めに目が覚めた私は、散歩がてらに並木通りを歩くことにした。

 今すぐにでもセリーヌの元へ行きたいが、彼女も女性だ。いろいろと用意があるだろう。

 それまで少し時間を潰すのにも、日々の運動不足解消にも、散策は丁度いいと言える。まさに一石二鳥だ。

 しばらくの間、見慣れた紅葉の絨毯の上を歩いていると、リンゴの木までやってきた。

 以前セリーヌが「一つ残しておこう」と言った赤い果実は、所々啄ばまれた痕のように欠けていた。彼女の願ったとおり、森の生き物――――大半は鳥たちだろうが――――彼らの餌となったようだ。

 今日はよく晴れている。

 秋の涼風は並木道を通り、一気に屋敷側へと吹き抜ける。そのため屋敷の庭にはたくさんの紅葉の葉っぱが散らばっているのだが。その様子がまるでパッチワークみたいで、私はとても気に入っている風景だ。これから冬になれば植物たちは大半が枯れてしまう。森の景色も一変し、寂しい情景になってしまうだろう。

 その前に、私へのささやかな贈り物として、自然がこの光景をプレゼントしてくれているのではないか。優しい風に囁かれると、そんな気さえしてくるのだ。

 この景色の感動を、彼女とともに分かち合いたい。

 瞳を閉じて、自然の声に耳を傾け、風を感じ、私は大きく深呼吸をした。


「さて、そろそろ行こうかな」


 瞼を開き、視界一杯に光を取り込むと、踵を返して屋敷へ戻る。

 クラウスはいつもと変わらぬ顔つきで、ブルルッと鼻を鳴らして私を迎える。外へ出て行くのがたまらなく好きなのだ。それは自分と一緒だからだと思いたいが、動物の気持ちまでは分からない。主従の関係ではあるが、私は彼を友達だと思っている。

 クラウスもそうであって欲しいと、願いながらハーネスを取り付けた。

 馬車を走らせ、目指すは中央病院だ。

 石畳に蹄鉄の音響かせ、軽快に走ることおよそ三十分。ようやく見えてきたのは、昨夜も訪れた白壁の綺麗な外観をした建物だ。昨日は夜中だったために少し薄気味悪い雰囲気だったのだが、今は昼間で、打って変わったように落ち着きと清潔な様相を呈している。

 昨夜と同じく、馬車の駐車スペースにクラウスを繋ぎ止めると、私は正面玄関口から入り、そのまま東病棟へと向かう。

 メモ帳に書き記した病室は、「東病棟二百五十六号室」となっている。

 一階につき五十部屋用意されているため、階段を五階分上らなくてはならない。

 逸る気持ちを抑えつつ、マナーに気を配りながらも、私は早足でその部屋を目指した。

 多少の息切れをしつつも上がりきった五階分の階段は、日々の散歩程度の運動では文字通りの運動不足ということを自覚させてくれた。

 ――――二百五十六号室。セリーヌ・ラスベール。

 その名が書かれたプレートが掛けられた扉の前で、私は息を整える。

 このまま開けて入りたかったが、さすがに息切れしていては、急いて来たのだと思われる。会えなかったのが寂しかったと思われては、紳士として恥ずかしいことこの上ない。

 普段通りを繕い、いつも通りに話しかけよう。なあに、気まずくなんてないさ。私たちは、恋人同士なのだから。

 ドアノブに手をかけると、それをゆっくりと回す。

 ――――カチャッ。と音がしてから少し間をおき、扉を押し開くと、静かに病室へと足を踏み入れた。

 真っ白いシーツの敷かれたベッドの上に、その人は静かに腰掛けていた。開け放たれた窓から差し込む光、そして揺れるカーテンに合わせるようにそよぐ髪。

 私の姿を瞳に映し、驚きの表情の中に、少しの申し訳なさを浮かべて。


「クリス……」

「やあ。久しぶり、になるのかな」


 透き通る瞳の中の自分から目を逸らさずに、彼女の元へと歩み寄る。

 約一週間ぶりに見るセリーヌの顔は、どこか新鮮に思えた。しばらく会わなかっただけで、こうもぎこちない感覚になるのか。別れ方が別れ方だっただけに、やはり少し気まずさは残る。

 いつもと変わらぬ様子に見えるが、体の方は大丈夫なのだろうか。


「どうして……?」


 見上げるセリーヌは少し物悲しそうな顔をした。


「どうして? そんなのは決まってるじゃないか。君を迎えにだよ」


 言いながら歩を進め、セリーヌの目の前に立つ。そして、静かに腰を落とした。

 膝の上で組み合わされる、職業柄少し荒れた彼女の手に自分の手を重ね、そっと包み込んで微笑んだ。


「グレンから聞いてね……。君がここに入院してるって」

「そう、なんだ」


 俯く彼女は少し震えている。

 どうしたとは問わず、包み込む手に少しだけ力を込めた。少しでも温もりを与え、安心させてやりたかったから。


「なにも、聞かないんだ」


 震う睫毛の下、潤いを帯びた瞳は私を見ることはなく、視線を横へ流したまま彼女はそう呟いた。


「話したくなったら、話せばいい。悩みがあるなら、打ち明ければいい。私は君の……その、恋人なんだから……。頼ってくれていいんだよ」


 口にして、恥ずかしさのあまり目を逸らしたくなったが、ここで逸らしては男が廃る。

 それに、言った通り、私はセリーヌの恋人だ。支えなくてはならない、どんなことがあったとしても。

 真っ直ぐに見つめていると、不意に彼女の瞳から、涙の雫が零れ落ちた。


「ありがとう……クリス……」


 小鳥が鳴くようにして囁いた言葉。同時に彼女の頭が垂れてくる。そして彼女の顔が視界一杯に広がった。額が合わせるようにしてくっ付いた私たち。吐息が互いを行き来する。

 こんなに至近距離で顔を見るのはいつ振りだろう。距離を置く前に口付けしたのはいつだったろう。そんなことを考えながら、記憶の断片を呼び起こしていると……気づけばセリーヌはボロボロと涙を零し、すすり泣いていた。

 それはいつかの一場面を想起させる。

 何をしたわけでもないのに罪悪感を感じ、そして自然に彼女を抱きしめていた。


 強く、ひたすら強く。

 離さない、離したくない。

 もう二度と、離したりはしない。


 ただ一時、その思いだけが、私の行動理念だった。


   ◇


 やがて落ち着いたと思ったら、いつの間にかセリーヌは、私に体を預けたまま眠っていた。

 ……まともに寝ていないのだろうか。

 ベッドに横たえ、そのまま見下ろした顔には、なるほど。薄っすらとだがくまが浮かんでいた。上手くメイクで隠したつもりだっただろうか。気づかれたくなかったかもしれないが、気づいてしまったものはしょうがない。だがこのことは触れないでおこう。

 無垢な少女のようにあどけない寝顔はとても安らかで、そんな彼女の美しい金髪を掬い上げ、頬にそっと口づけすると――、

 ガチャ……。不意に病室の扉が開けられた。

 慌ててベッドから飛び退くと、入口の方へと向き直る。


「あ、お邪魔でしたか?」


 そこには一人の看護婦が立っていた。


「えっ、あ、いや……」


 咄嗟に言い訳することも出来ず、気まずくなって口ごもる。

 しかし微笑を浮かべる女性の小脇に、ベッドシーツを見つけた私は、それとなく訊ねた。


「シーツの交換に来たのかい?」

「ええ。セリーヌさん、しばらく検査入院されることになったので」


 女性の発したその言葉に驚きを隠せなかった。


「今日、一日だけじゃなかったのか……?」

「いえ、当初はそのつもりだったそうなんですけど、やっぱりしばらく様子を見たほうがいいってことらしいです」

「セリーヌは、そんなに悪い病気なのか?」

「え? ……あの、ところであなたは……?」

「え? あ、彼女の……恋人、だが」


 改めて赤の他人に伝えるということが、これほどまでに恥ずかしいとは思わなかった。きっと今頃顔を赤くしているに違いない。穴があったら入りたいとは、まさにこの状況のことを言うのだろう。

 気恥ずかしさから、遠くを見るようにして逸らしていた視線を女性に戻す。

 すると看護婦は何か思い出したようにハッとして、


「いえ……そんなことはないんですが……」


 どこか歯切れの悪い返事だ。


「以前彼女は風邪だと言っていたんだが――」

「ああ、先生もそう言っていましたよ――」

「しかしそれにしては長引いているような――」

「免疫機能が弱い患者さんの中には、たまにそういった方もおられますよ……」


 互いに言葉を被せ合うようにした会話。私はそれにどこか違和感を覚えた。


「本当に風邪なのか?」

「それもしっかり検査するための、入院ですから」


 無理したような作り笑いを浮かべながら、女性は私に微笑んだ。訝しがりながらも、ツーっと視線を下ろし左胸へと移す。白衣に取り付けられた名札には「アマンダ」と書かれていた。

 相手にも仕事があるだろう。これ以上引き止めるのも悪い。


「ああ、シーツなら私が変えておくよ」


 言いながら私は手を差し出した。


「え? いいんですか」

「セリーヌも寝ているし、今は起こしたくないからね」


 女性にも見えるように体を半身捻る。すると納得したのか、看護婦はこちらへ近づくと真新しいシーツを差し出して、


「では、お願いできますか」


 問われ、ああ、と返事しながら私はそれを受け取った。

 一礼し、病室を出て行く看護婦の背を見送ると、再び室内は私たち二人きりとなる。

 しばらくの間立ち尽くし、シーツを見つめながら一人、私は物思いに耽った。

 セリーヌが目を覚ましたのは、それから三時間ほど経ってからだった。

 あれから私は木製の簡素なスツールに腰掛けて、その安らかな寝顔を飽きることなく拝見していた。シーツを換えようとも思ったが、さすがに起こすのは気が引けた。あまりにも気持ちよさそうに寝ていたため、起きてからにしようと思い直したのだ。

 ドールのように整った顔は、けれど聞こえる息遣いと時折震える睫毛が、それは生あるものだと実感させる。作り物ではない、本物の人間。……人形師の究極の理想とも呼べる、至高の姿がそこにある。

 ――いつかの男のセリフが、再び脳裏を掠めた……。

 こうして寝顔を見るのも久しぶりで、なぜか感慨深かった。二人寄り添って寝た日々を思い出し、それもしばらく出来なくなると思うと、寂しいし残念な気持ちになる。

 惜しむように、仄かに薄ピンクをした頬へ、ちょうど手を触れさせたその時だった。


「……う、ん……」


 微かな息を洩らし、彼女の瞼が僅かに開く。

 やがてゆっくりと開けられた瞼から蒼玉が覗くと、差し込む陽の光を反射して、きらきらと光りながらその視線は宙を彷徨った。


「……あ、クリス」


 その途中、顔を向けたその先に私の姿を見つけたセリーヌは、安堵したようにホッと息をつく。


「おはよう、よく眠ってたね。気分はどうだい?」

「うん、快調、かな」


 眩しそうに目を細め、微笑みながら彼女は答える。そしてゆっくりと上体を起こした。

 ……うん、確かに見た目はいつも通りだ。


「機嫌は?」


 そんな彼女を少しだけ困らせてやろうと、悪戯な笑みを口元に浮かべながら訊ねると、


「……それ、どういう意味かな?」


 ムッとして子供のようにむくれると、セリーヌは私の頬に手を伸ばす。

 彼女はたまにだが、寝起きが悪い時がある。癇癪でもおこしたのかと、普段の朗らかな姿からは想像も出来ないほど、豹変とまではいかないまでも機嫌が悪いのだ。

 そのことを指摘されるのをあまり快くは思っていないらしく……、たまにそれを訊ねては、意地悪したくなる。それは恋人だけの特権だと思うのだが。

 結果、抓られることを知っているので、それを簡単に払いのけ……ると見せかけて私は素直に抓られた。


「あれ、どうして?」


 いつもみたく当然のように捌かれると思っていたのだろう。彼女は不思議そうに目を瞠り、私の頬を抓りながらキョトン顔で訊いてきた。小動物のような反応が見ていて面白い。


「いや、たまには抓られてみようと思ってね」


 少しだけひりひりする頬。だがそれすらも懐かしい。熱を伴ったこの痛みは、嬉しくさえ思う。

 逆光に白く縁取られた彼女は妙に神々しく見え、天使がいるとしたら、まさにこんな姿なのだろうと見惚れてしまう。

 人の頬を抓る天使。それもまた一興だ。

 そんなことを考えながら、ふふっ、と自然に笑みが零れた。


「どうしたの? 何かいいことでもあった?」


 微笑を浮かべると、気になる様子のセリーヌは小首を傾げる。

 いや、そう言って小さく首を振り、けれど私は頷きながら答えた。


「君と久しぶりに会えたからね」

「……わたしもだよ」


 同意を強く表すように、彼女は大きく頷いた。その声はどこまでも優しく、高く澄んだ空に響く教会の鐘のように、耳に心地よく木霊する。

 そういえば……と、私の頬から手を離し、セリーヌは突然思い出したように声を上げた。


「もうすぐだね、女王様の前での演技」

「ああ、確かに言われてみれば……本当にもうすぐだな」

「もしかして、忘れてた?」

「……いや、忘れてはいなかったよ」

「本当に? じゃあ、何日か言ってみて」


 間違えてるといけないから、と怪しむような顔をしてセリーヌは付け足した。


「セリーヌ、私はまだ痴呆になるには早いと思うんだけどね……十五日だよ。あと、二週間とちょっと」

「正解」


 よく出来ました、と言わんばかりの拍手が響く。やはり彼女は、どこか私を子ども扱いしている節がある。私が年下だからだろうか。二つしか違わないのに……。


「緊張してる?」


 訝しむ私を余所に、彼女は心配そうな顔をして訊ねてきた。

 いや、と首を横に振りながら答え、でも……と前置きし、


「不思議な感覚だよ。まさか自分が女王陛下の前で演技することになるなんてね。前にも話したが、本当に夢みたいだ。それは偏に――」

「クリスが頑張ってきたから、だよ」


 真面目な顔つきでこちらを見返し、セリーヌは私の言葉を遮った。

 私が言おうとしていた言葉を察し、それは違うと言わんばかりに強く、けれど諭すような優しさも感じる声で否定する。


「あの子達が輝いているのは、あなたが作ったからだよ。他の誰でもない、クリストファーという一人の人形師が愛情を一杯込めて作ったから、それがみんなに認められたんだよ。あの子達だけの力じゃない」


 不意に両の手を熱が包んだ。見れば彼女が手を取っている。


「それを忘れないで。あの子達がいるのは、あなたが今まで、辛い思いをしながらも前へ進んだから、進むことをやめなかったから。そして失敗しても、落ち込んでも、それでも踏み出し続けた足で、クリスは今こうして立っているんだよ」


 薄っすらと瞳を潤ませて、セリーヌは強く、でも優しく、私の心へ訴えかけてくる。

 ……不意に思い出した昔の日々。スランプに陥り、とても辛く、その辛さから逃れるために酒に、女に溺れた過去。消し去りたい我が人生の汚点。

 そしてある男に言われた一言、『君の人形は生きていない』

 作り物である人形と、作り物でありながら命を宿す“ソレ”に、まざまざと次元の違いを見せつけられ痛感させられたあの日。どれだけ私は小さかったのか、自らの矮小さを呪った。

 しかしそれで改心もさせられた。今まで自分が作ってきた物は、まさに“モノ”だったのだと。ただヒトの形を模したカラの器。そんなものに意味はなかった、人々の感動をよぶことなんて出来なかったのだ。

 それからただひたすらに歩んできた四年間。そうして出来た心の、体の数多の傷を、セリーヌはこうして包んでくれる、綺麗だと言ってくれた。長らく押し込めていた様々な感情が、胸を突いて溢れてくる。――――気づけば私は、涙していた。

 一番聴きたかった言葉、それを心の中でかみ締める。

 視界は水の中にいるようで、彼女の顔がぼやけてよく見えない。けれどこちらを見つめて微笑んでくれているのは幽かにだが分かる。

 不意にセリーヌの両腕がすっと伸びてきて、優しく頭を抱えられた。そのままゆっくりと倒されて、彼女のやわらかな胸元へ顔を埋める。

 ……温かい。

 素直にそう思った。なにか大きなもので包まれている感覚。

 日溜りの水に浮いているような浮遊感、自身を全て包み込む光のヴェールの優しさを感じた。

 ……親からは感じたことのない、これが、母性というものだろうか。

 そんなことを考えながら、少しの間、私はセリーヌの胸の中で静かに泣いていた。


   ◇


 窓辺には、小鳥が仲良くつがいで小休止に来ていた。

 今、私は窓の外を眺めている。

 五階からの景色といっても、視線の先に当たるのは背の高い建築物ばかりで、正直なところ綺麗だとは言えない。


「ねえ……」


 いや、ある意味では綺麗なのかもしれない。まるでパズルピースのように競合することなく組み合わさる建造物群は、見ていて気持ちのいいほどに芸術的でさえある。都市開発部が考えに考え抜いた結果のレイアウトなのだろう。努力の結晶だと言わざるを得ないほどバランスよく配され、絵画芸術のように完成度が高い。


「ねえったら……聞いてる?」

「ああ、聞こえてるさ。何度か声が聞こえたような気がしたからね」


 外へ視線を投げたまま、私は微動だにせず声の主に返事をする。少し不機嫌そうな声質にも、大した興味はそそられない。

 なぜなら、今、私は顔が熱い。とても熱いんだ。それは日光に当たっているからとかいうオチではなくて……。人に、いやセリーヌに泣き顔を見られてしまったということに起因する。

 紳士たるもの、人前で涙なんて見せるものじゃない、と私は思うのだが……。その自論がこんなところで辛くも崩れ去ってしまった。弱さは捨てたはずなのに、彼女の前で、弱い自分を見せてしまったことが情けなく思えてくる。

 故に、私は外の景色を眺め続けているのだ。


「もう、いい加減こっち向きなさい」

「いやだ、また年上ぶるつもりだろう?」

「またそんな子供みたいなこと言って」

「ぐっ……」


 ……まったく、ぐうの音も出ない。大人ぶってるのは自分だと言われたようなものだ。

 泣き所を突かれ、顔をしかめながらも私はゆっくりと体を向ける。視線は外へ向けたまま……。恥ずかしいんだ、仕方がないだろう?


「もう、ホント、子供みたいだねクリスは。おっきい子供だよ」


 呆れたようなセリーヌの口調に、ついに観念して振り向いた。

 別に彼女を落胆させたくないからとかそういうんじゃない。子供だなんて思われるのは嫌だから……。でも、ほんと。こうして言われてみると、瑣末なプライドだなと思う。

 見返す顔は声に反して、とてもにこやかに笑っていた。

 その笑顔が可愛くてつい見惚れてしまったが、私はある肝心なことを思い出す。


「ああ、そうだった。……もう聞いたかい? 入院が、しばらく続くこと」


 そのことを訊ねると、彼女は軽く目を瞠る。


「え、あ……うん。なんか、検査が長引くんだって」


 ただの風邪なのに、大げさだよね。笑いながらそう付け足して、彼女は少し困ったような顔をした。

 長引くものとは思わなかったんだろう。その表情からは文字通りの困惑が見て取れた。


「そうか」


 頷きを返すと、沈黙が互いの間を行き来する。重苦しさは感じないが、なんだか少し気まずい。ふと意識を外界へと移す。外からは鳥の鳴き声が聞こえた。

 もう少しで冬なのに今日は少し暖かい。コートが必要ないくらいだ。そんな陽気に誘われて、風と戯れる鳥たちが空を舞っている。


「でもしばらくと言っても、一週間もかからないだろう? 退院したら、また二人で出かけよう。再来月には女王生誕祭もある。出店を回って、パレードを見て……あ、そうだ。グレンが騎馬隊に選ばれたんだ。聞いたかい?」

「ううん」


 彼女は首を左右に振った。


「昨日会った時に教えてくれたんだ。もう制服に身を包んでいたよ。まだ若いから、衣装に着られている感は否めなかったが。彼の勇士は楽しみだな」


 セリーヌとパレードを見に行くことを想像して、一人テンションの高い私とは裏腹に、彼女はどこか寂しい表情をしていた。

「そうだね」と呟く顔は、どこか無理をしたような、そんな印象を受ける微笑だった。


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