4-2

 午後の劇場は西のアストリアだった。

 比較的大きな劇場で、客席も三百ほどはある歴史の古い場所。

 東から西への移動はよくあることなのだが、この日は妙に疲れたのを記憶している。

 劇場で披露をした演目は、貴族の令嬢と若い執事の恋の話だ。

 見に来た貴族の者たちは、好奇な視線をステージに投げかけてきていた。そんなものは慣れているし、貴族という身分に対して多少の嫌悪感はあるのだが。

 見に来た客という点で、一般人と変わらない。そういったところで区別をすることはないが、やはりああいった視線は、私としては頂けない。モノとしか見ていない目は、正直言って嫌いだ。

 演技の最中、集中しなくてはいけないのに、やはりセリーヌのことを考えてしまう自分がいた。あの場に彼女がいたのなら、どのような瞳をしてくれただろう……。

 憶測する必要なんかない。

 セリーヌは変わらず、出会ったあの日のままの瞳で……、私の子供たちを見てくれるに違いない。


「……やはり、今日会ってちゃんと話そう」


 事を先延ばしにするのはよくないだろう。

 紳士として、いや男として。セリーヌの恋人として、彼女の全てを受け入れる。

 何があっても、あったとしても……私はセリーヌを、離したくない。

 決意を新たに、西からの家路を急ぐ。目指すは花屋、ラフェドレーヴだ――。


 中央都市へ着く頃には、すでに陽が沈み始め、空は黄昏れていた。

 この季節の日の入りは早く、あっという間に辺りは昏がりへと舞台を変えた。十月下旬の夜風は冷たく、秋は足早に過ぎ去ろうとしているかのようだ。

 森へと続く一本道。

 細やかな石のモザイクで整備された道路には、クラウスの蹄鉄が響き静かな空に溶ける。

 視線の先にはセリーヌの店の看板が見える。しかし店内からの明かりは洩れていなかった。

 やがて馬車は店の前で停車する。空足を踏む馬の足音でさえ、無駄に鼓膜に響いて聞こえた。

 見やった店の扉には、「CLOSED」の札が掛けられている。

 逡巡の後、御者席から下りると、私は内ポケットに手を入れながら店の入口へと近づいた。

 しかし、すぐ目の前まで来てあることに気付く。


「ん? 鍵が、かかっていない……」


 扉には僅かな隙間が開いており、施錠されていないことが一目瞭然だった。

 ……無用心だな。

 ヴァン=クライクは治安がいいとはいえ、鍵を掛けないなんてことは滅多なことではしない。

 ……たまたま忘れただけだろうか。

 ポケットに入れた指が触れる鍵の感触が離れ、空気を撫で、同じく金属製の取っ手へと手を伸ばす。

 無機質なドアノブの冷たさは、手だけではなく心までも冷やすような、少し寂しい感覚を与えた。

 ――――キィー……。

 押し開けると同時にカラン、とカウベルが鳴り響く。

 一歩足を中に踏み入れた店内は、植物たちの呼吸すら聞こえてきそうなほど静まり返っていた。


「……お邪魔します」


 言いながら店の中ほどまで歩いていき、


「セリーヌ、いるかい?」


 少しだけ声量を落として発した声に、しばらく経っても返事は返ってこなかった。

 自分の呼吸音すらよく聞こえる沈黙の空間。

 いきなり上がり込むのは紳士的ではなく、不躾で失礼だとは思うが、一抹の不安を感じた私は店内奥の階段を上ることにした。

 狭く軋む木の階段を、一段ずつ慎重に足をかけては上っていく。階段を上りきり二階へ出ると、小さな窓から月明かりが射し込み、廊下へ格子状の影を落としていた。

 セリーヌの部屋は廊下の突き当たりだ。ほかに部屋は大小合わせて四部屋あるが、まずは彼女の部屋から訪ねてみよう。

 廊下を歩き、突き当りを右へ。すぐ目の前には、部屋の扉がある。

 しばらく会わなかったためか、思いのほか緊張しているようだ。鼓動は早鐘を打ち、軽く走った後のように途切れ途切れの呼吸を繰り返す。

 一度大きく深呼吸し、乱れた呼吸を整えて、


「セリーヌ、私だ」


 扉越しに声をかけるが、やはり彼女からの返事はない。

 そうしておもむろにノブへ手をかけて、それを回し、


「入るよ?」


 一言断りを入れると扉を押し開けて、私はセリーヌの部屋へと入室した。


「セリーヌ?」


 鍵もかけず明かりも点けない。この花屋の主を一度注意しようと、入口から少し入ったところでその足を止めた。

 見渡す必要のない広さの部屋に、整然と並ぶ家具たち。

 ベッドがあり、いつも座っていた机があり、洋服ダンスに壁にはクローゼット。そして母からのお下がりだと言っていた、彼女の大切な宝物、ドレッサーがある。

 至ってシンプルな内装の部屋には、セリーヌの姿はなかった。忽然とその姿を消したような、当たり前のように感じる喪失感。まるで初めから“ここ”にいなかったような虚無感。

 いつもの笑顔がそこになく、しばらくの間、茫然自失となって時を忘れた――――。


 意識が向こうに飛んでいることに気付いたのは、月光がより強く部屋を照らし出したことによる。

 大きめの窓から射すやわらかな光の金色は、彼女の机を一層輝かせた。

 もつれそうになる重い足を動かし、引き寄せられるように彼女の机へと近づく。綺麗に整理された、無駄なものが一切ない机の上には一冊のダイアリーが。表紙からしても日記だと分かるが、手ずれしていない、まだ新しいもののようだ。

 そこにタイトルはない。

 ……他人の日記を勝手に覗く趣味はない。

 意識とは逆に手は日記帳の上へ――――そして、触れた。

 ……ましてやセリーヌの、人には絶対に見られたくないものだろう。

 無意識に手は表紙を撫でさする。

 ……誰にだって知られたくないものはあるはずだ。私の場合は……暗い過去か――。

 それもセリーヌには断片的にだが話しはしたが……。

 ――ふと頭を過ぎった回想。

 思い止まるつもりが、その事実につい魔が差し、私はおもむろに表紙をめくってしまった。

 ――――四月二十一日 日曜日。


「……この日付は――」


 最初の日にちが今年なことに、私はまず驚いた。しかもこの日は……忘れもしない。ハンメル劇場で、私たちが出会った始まりの日でもあるのだから。

 鮮烈に焼きつくあの時の泣き顔。感動してくれたことに不思議と胸が躍った感覚。今でも心に残っている。

 続く文章を読み進める。そこには案の定、出会いについて書かれていた。

 憧れを抱いていた人形師と会えたこと。貴族だと知って、もしかしたらと、昔出会った男の子に面影を重ねたこと。小躍りしそうなほどの嬉しい気持ちが、この日の日記には溢れていた。

 自分のことについて書かれていることを照れ臭く思いながらも、続きが気になりページをめくっていく――――。

 初めて屋敷に招かれたこと。そこで見たたくさんの人形。夢に溢れた屋敷と、主人の愛を受けて生み出されたその子供たち。人形師のお気に入りの場所へ連れて行ってもらったこと。素敵な時間を過ごせて泣きそうだったと、その時を、情景をフラッシュバックさせる内容。

 だが――――、


「まだ、何についても書かれていないな」


 嬉しさの中にも常に焦燥は付きまとう。

 しかしふと思う。本当にこのまま読み進めていいものなのか。

 一度考えてしまうと罪悪感がこみ上げてきて、理性が働き、もうそれ以上は手が動かせなくなった。胸中を渦巻いているのは、彼女への深い申し訳なさだけだ。

 窓から望む弦月を一瞥し、私はそっと日記を閉じた。


「……どこに、いるんだろう」


 誰も見ていない、聞いていない。

 そんな懐かしい一人の安心感からか、不意にこぼれた“僕”の気持ち。

 失いたくない大切な人、どこかにいってしまった愛する女性。その不安は余計に孤独を感じさせる。

 このまま待っていても時間の無駄だろうか? でもどこへ行ったのか、見当はつかない。明日になれば会えるだろうか?

 セリーヌの日記に視線を落とす。

 もう一度開いてみる勇気は、残念ながら私にはなかった。

 今の自分に成す術がないことに落胆し、微かに震える体を感じながら、私は部屋を後にした。

 一階へ下りると、私は薄暗い店内から暗い道路を見た。

 南は都市開発計画が頓挫したため、周辺に家はあまり建っていない。

 街路灯も申し訳程度にちらほらとあるだけで、夜道を煌々と照らす中央都市とは区別が見て取れるだろう。そこを通りがかる人影もなければ、馬車もない。道の先は私の屋敷がある森だけだ。

 こんな時間にろくな灯りも点らない、薄気味の悪い森へ出向こうなどと思う人間はそうそういないだろう。

 ――彼女が帰ってくるかもと、我ながら青臭く淡い期待を抱きながらしばらく立ち尽くしていたが、やはり待てど暮らせど帰ってくる気配もなく……。


「明日、もう一度来てみよう」


 振り返り、私は一度階段を見やる。

 小さくため息を吐くと、彼女が下りてくるその映像を想像しながら、踵を返し花屋を出た。

 念のため扉に鍵をかけると、肌寒い夜気に少し身を震わせながら空を仰ぐ。

 漆黒の空に浮かぶ宝石の瞬きは、余裕ない心に、ほんの少しだけ、安らぎという名の隙間を作ってくれたようだった……。

 そんな刹那的な安息も束の間。

 ――突如、静寂の夜闇を叩き割るような音が響いた。……蹄鉄だ。それは森の方から聞こえてくる。

 パカラッパカラッ、と間隔の狭い音の連続は、それが単騎であることを如実に物語っている。

 音に釣られ、私は森の方角へと体を向けた。

 すると、ちょうどそこへ森から出てきた一頭の馬、そしてそれに跨る人の姿を視認する。


「珍しいな、こんな時間に。……私に用でもあったのかな?」


 夜目が利くほうではないため、その人物像までははっきりと掴めないが、背格好や出で立ちから察するにどうやら男性のようだ。劇場関係者だろうか? ……王室関係でないとも言い切れないが、夜分に用件を伝えに使いを出すほど、暇じゃないだろうし不躾でないだろう。

 それにしても夜の来客は本当に珍しい。一月に一度あるかないかほどの稀さだ。結構なスピードで馬を駆るその人物は、前傾姿勢のまま颯爽と向かってくる。

 縮まる距離。

 するとその人影は、花屋に近づくにつれて馬の速度を落とした。そして私の馬車に横付けする形で停止させると、勢いよく下馬する。


「クリストファーさん!」


 早々に発せられた声を聞いてああ、と思った。市警のグレンだったのだ。しかしその出で立ちはいつもの警察の制服ではなく、軍服のようなものだった。

 これには見覚えがある。たしか――、


「グレン、パレードの騎馬隊に選ばれたのかい?」

「え? え、えぇ……そうなんですよ、僕も正直驚いて――って、そんなことはどうでもいいんです! それより大変なんですよ!!」


 引率に選ばれたことを祝おうと思った私の言葉を、「そんなこと」で済まされるとは思いもしなかった。

 十二月に行われる女王の生誕祭パレードの、しかもトップでマーチングバンドを引率する騎馬隊に選ばれるのはとても名誉なことなのに。それにまだ新米の市警がその任に就く、これほど珍しいこともそうないだろう。

 しかしどうもその様子がおかしい。とても喜んでいるようには見えないし、その表情からも、いつもの朗らかな雰囲気は伝わらない。


「一体どうしたんだ?」


 血相を変えるグレンに私は訊ねた。


「それが、セリーヌさんが――」

「――ッ!? セリーヌがどうしたって!」


 普段なら相手の言葉を遮る事はしないのだが、セリーヌが関わっているということについ声を荒げ話を割ってしまった。

 穏やかになりかけていた心がさざめき出し、不安の波風をたてる。


「……倒れたと通報があったんです」

「倒、れた……。それで、いま彼女はどこに……?」

「中央病院へ搬送したので、入院してると思います」


 セリーヌが、入院……? 


「……それはいつの話しだ?」

「今日の昼頃ですね。店の常連客の方から一報が入ったんですけど、丁度その時は休憩終わりで。慌てて駆けつけた時にはセリーヌさん、脂汗をかいて倒れていました。急いで病院へ搬送した後、クリストファーさんに伝えた方がいいと思って屋敷へ行ったんですけど……」

「そうか、仕事で外に出ていたから――」

「はい」


 頷く彼は神妙な面持ちで視線を落とした。

 同じ趣味を持つ人間同士、グレンとセリーヌは話が合う。互いに意見を交換したり、自分は忙しくて行けないからと、なかなか取れない劇場のチケットを彼女にプレゼントという形でくれたりしていた。

 突然のことに彼自身もあらぬ事と驚き、そして心配してくれているのだろう。

 ……いや、しかし待てよ。グレンは私のスケジュールを逐一チェックしているんじゃなかったのか?

 ふと心の黒い部分が顔を覗かせる。それは小さな染みだったが、やがてそこから不信が鎌首をもたげ始めた。


「なぜそれを、劇場まで報せてくれなかった……」

「え?」


 怒りに近い感情を含んだ声に驚き、グレンは顔を上げた。その気の抜けたような表情が、私を余計に苛立たせる。


「君は私の一ファンだと、セリーヌから聞いたことがある。なぜ劇場まで来て教えてくれなかった!」

「そ、それは、最近仕事も急がしくて、騎馬隊にも選ばれるし……調べてる暇がなかったんです。僕がしっかりしていれば……すみません」


 そう言って申し訳なさそうに頭を垂れるグレン。口にし、我に返ってから気が付いた。

 私はなんて、愚かで最低な人間なんだろう。彼が悪いわけじゃないことは十分解っている。不安や焦燥、やるせない思いと自身に対する怒り。様々な感情が入り混じり、自分でも感情のコントロールが出来ないでいる。結果、罪もないグレンに当たってしまった。

 このままでは彼を不快にさせるだろう。その程度の理性がまだまともに働く内に、私はグレンに謝ることにした。


「すまなかった。君が悪いんじゃない。私が、もっと彼女に歩み寄っていればよかったんだ」


 項垂れるグレンの肩に手を置き、私はその横を通り過ぎる。おもむろに御者席の扉を開けると、背後から声が聞こえてきた。


「クリストファーさん、どちらへ……?」


 それは遠慮がちな声色だった。


「病院だよ。……それと、伝えにきてくれて、ありがとう」


 振り返ることはせず、気まずさを押し込めて、今の自分に出せる最大限の感謝を込めつつ馬車へ乗り込んだ。


   ◇


 ――ヴァン=クライク中央病院。

 その名の通り中央都市に位置し、環状都市に点在する各病院と合わせても特に大きいところだ。

 中央には貴族階級と商人たちが数多く暮らしている。しかし、金目当てで上流階級しか相手にしようなどというせこい事はしない。

 中にはそういったあこぎな商売として開院しているところがないわけではないが……。中央病院は周辺都市に住む者、はたまた周辺国からの患者でさえも受け入れたり、施療院としても働く懐が深い病院だ。私も何度か世話になったことがある。

 馬車の駐車スペースにクラウスを繋いだ私は、正面玄関から暗い院内へと足を踏み入れた。

 受付には事務員が数名おり、なにやら作業をしているのが目に留まる。一先ず受付へ歩いていくと、


「あの――」

「すみません、受付時間は終了しておりますので、また後日、改めて通院していただけますか」


 言葉をかけようとした私より先に、食い気味で声が重なった。


「いや、患者としてではなくて、面会したい人がいるんだが……」


 渋面を浮かべる私に対し、事務員は、


「あ、そうでしたか。でもすみません、そちらも面会時間は過ぎているので、やはり後日、改めてということになりますが」


 淡々とした調子で事務的に処理し、申し訳なさそうに頭を下げた。

 ……やはり遅かったか。こうなることはなんとなくだが想像していた。


「ああ、なら病棟と病室だけでも教えてくれないだろうか」


 言いながら懐からメモ帳とペンを取り出した。


「患者様のお名前をお訊ねしてもよろしいですか?」

「セリーヌ・ラスベールだ」

「いつ頃入院されましたでしょうか?」

「今日の昼過ぎ辺りだろうか……」

「少々お待ちください」


 そう言って事務員は席を立ち、裏の棚へと歩いていく。入院簿だろうか。分厚い本のようなものをなにやら物色した後、目当てのものを見つけると早足でこちらへ戻ってきた。

 事務員は再び席に着くと、


「セリーヌさんは……どうやら検査入院のようですね。早ければ明日にでも退院できると思いますが、お聞きになられますか?」

「ああ。とりあえず教えてくれると助かるよ」

「かしこまりました」


 教えてもらった病棟及び病室番号を手早くメモする。

 受付時間外の訪問にもかかわらず、丁寧な応対をしてくれた事務の女性に私は礼を述べてから、病院を後にし今夜は帰宅することにした。


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