3ー5
人形の修繕を終えた後、私たちはリビングでくつろいだ。
彼女と屋敷で過ごすことの多くなったこの頃。愛する我が子と、愛しいセリーヌ。
ゆっくりとした時の流れに身を任せ、皆とともに過ごすこの時間は、いつの間にか私にとってかけがえのない癒しとなっていた。
時間も時間ということで、
「セリーヌ、食事をテーブルへ運んでくれないか」
夕食の準備に勤しんでいた私は、キッチンテーブルに皿が溜まってきたためそう促すが――――。
彼女からの返事はない。
熱せられたフライパンの上では厚切りの肉がフランベされて、湯気とともに芳ばしい香りが立ち上り鼻腔を刺激する。
突如――、
「――――――」
ジューッという焼き音に混じり、微かだが音が聞こえた。
それは聞こうとしなければ気づかないほど、衣擦れのような小さな音だった。
人形でも倒してしまったのかと安易に考え、彼女に視線を送る。
しかし、それは間違いだった。
「セリーヌっ!?」
目にした彼女は床に座り込み、腰の辺りを押さえて苦しそうに呻いていた。
慌てて火を消し止めて、彼女の元へと駆け寄る。
「大丈夫か、セリーヌ」
肩を抱き、その顔を覗き込むと、セリーヌは僅かに顔を逸らした。
吐息は熱く、呼吸は荒い。
「くぅ……」
「痛い、のか?」
そんなことは聞くまでもない。彼女の表情がそれを如実に物語っている。
だがどうしていいのか分からずに、ただそんなことを訊くことしか出来なかった自分が情けない。
苦悶に満ちた顔で、声を出さぬように必死なのか……セリーヌはくぐもった声を唇の隙間から洩らす。体を抱いてやることしか出来なかったが、そうして数分が経ちようやく痛みが治まったのか、彼女はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。
「――ごめんね」
なぜ謝るんだ。
私には理解が出来なかった。
「セリーヌ、大丈夫か」
「うん、ちょっと、疲れてるだけだと思うから。風邪かな?」
肩を貸し、セリーヌを立たせ、テーブル椅子まで連れて行く。
触れ合う肌から若干の熱っぽさを感じた。
足取りは正常に近いと思うが、どこか危うげで庇っているようにも見える。
ゆっくりと椅子に座らせ、私はその場でしゃがんだ。
「疲れてるって……だから言ったろう。あれほど迎えに行くからと」
「うん、そうだね」
「ただでさえ立ちっぱなしで働き詰めなんだ。そのうえ十数分もかかる道程を、人形を持って歩いてくるなんて」
悪戯を咎められる子供のように押し黙り、俯くセリーヌはか細く震えている。
「無茶だよ」
呟いた私の声に、でも――そう言って彼女は静かに顔を上げた。
「歩いてきたかったの」
濡れ光る双眸が、真っ直ぐに見つめ返す。
「あの長い並木道を歩いてくるとね、心が弾むんだ。クリスへの想いが、強くなるの」
胸に手を当て、無理をしたような笑みを作り、彼女は続ける。
「いつもはあなたに迎えられて、馬車から眺めるだけのただ流れてゆく風景もね。歩いてみると、視点が違うだけじゃない。あの道程は、一歩一歩が……あなたに会うための想いの階段なんだよ。だから――」
セリーヌの声が震えた。涙に沈めた声色とともに、薄っすらと滲む瞳。
不思議と綺麗とまでは思わなかった。いや、思えなかった。
触れれば今にも壊れてしまいそうな、儚げで存在そのものが覚束ない彼女の雰囲気。苦しみを無理やり押し込めたような表情が、爪を立てて私の心を鷲掴む。
「そこまで思っていてくれるのは嬉しい。だがセリーヌ……。もう少し自分の体は労ってくれ。君にもしものことがあったら、私はどうしたらいい? 二人の時間がなくなる、そんなのは嫌だ」
「分かってる、分かってるけど」
「それより、病院へは行ったのかい?」
やわらかな口調の問いに、彼女は左右に首を振った。
「どうしてだ?」
「ただの風邪、だから」
「そんなものは見てもらわなければ分からないだろう? 何時からだ? 思えば随分前から咳はしていたね。本当に風邪なのか? もし違うんだったら早――」
矢継ぎ早に繰り出す言葉を遮って、彼女は声を上げた。
「――風邪だもん! ただの……風邪、なんだから」
瞬間、セリーヌの瞳を溢れんばかりの水分が潤していく。堪え切れなくなった涙は、頬に幾筋もの川を作った。
セリーヌの嘘。
一瞬だけ見せたその挙動を、私は見逃さなかった。
君は気付いていないかもしれない。嘘をつく時、視線が左右に一度振れることに。
普段なら、「可愛い」と思い微笑でも浮かべるのだろうが……。今はもちろんそんな気分じゃない。「森の動物たちと話してきた」とかいう愛らしい冗談でも、「熊さんと昼寝してきた」とかいう茶目っ気のある嘘でもない。
話が話なら――――いや、本人が隠してる以上、憶測でしかないしその域を出ないのだが――――彼女は、何かを患っている?
病院には行っていないと言うけれど、本当は行ったんじゃないのか。セリーヌは不安で苦しい痛みと、孤独に闘っているのか。
目の前で俯き、大粒の涙を膝へと落とす彼女を見て、私は心苦しくなった。
それは痛ましい様子を見たからだけではない。大事なことなのに、大切ないことなのに、私に打ち明けてくれない。そのことがとても痛い。
(……私は君の、なんなんだ?)
「なにも、話してくれないんだな」
沈痛な面持ちで問いかける。だが――、
「ごめん、ね……ごめん……なさい……うぅ……」
セリーヌはただ謝るだけ。
声を我慢しているのだろう。口を噤んだ彼女の嗚咽は、息とともに鼻から抜ける。
間断なく湧き出る泉のように、絶え間なく涙を生むその瞳は、本来の美しい空色をしていない。半分ほど閉じられた碧眼は、悲しみの色をより濃くし、濁ったような印象を受ける。
それが絶望なのかどうなのか、私には解らない。話をしたいがそんな状況じゃないだろう。
これほどまでに悲しむセリーヌを今まで見たことがないために、正直、私自身も行動の選択に戸惑っている。
重苦しい静寂に包まれたリビングに、コチッコチッ――――と、時を刻む時計の音だけが響く。
人形たちですら、この静謐過ぎる場の空気に、萎縮しているみたいだった。いつもの楽しげなパレードのような雰囲気は、まるで感じられない。彼らにも解るのだろうか。人型ゆえに……。
膝の上でスカートをギュッと掴んで震える彼女の手に、包み込むように自身の手を重ねた。
言葉はなにもかけない。
ただそうしていることしか出来ないが、少しでもセリーヌの不安が拭えれば。そう願わずにはいられなかった。
――すすり泣く声が止んだのは、それから十数分経ってからのことだ。
室内に響いていた時計の音は、さらにその音量を増したように聞こえる。それに伴い、外からの音も届くようになっていた。
互いに言葉を交わすことはなく、空間が圧迫されるような息苦しい沈黙が、絶えず波紋を広げてリビングを伝播していく。
「そろそろ、帰るね」
「夕飯は?」
ぽつりと呟きを落とし、私の言葉に返事することもなく、彼女はおもむろに立ち上がる。
視線を下へ落としたまま私に背を向けたセリーヌは、ふらりと危うげな足取りで部屋を出て行こうとした。
「あ、送ろうか――」
咄嗟に立ち上がり、その手を取ろうと無意識に伸ばした私の腕は、むなしく空を切る。
数歩前へ進んだ彼女は、立ち止まり、小さな背中を向けたまま、
「今日はありがとう。さよなら」
悲しみに沈めた声でそう囁くと、そのままリビングから出て行った。
しばらくして聞こえた重い音――――。玄関の扉が、閉まる音だ。
屋敷中に妙に響いたそれは、心の奥底まで沈殿する不安のように、残響をいつまでも耳に木霊させた。
温もりに触れられなかった右手が涼しい。
空っぽの手のひらを誤魔化すように、私は強く拳を握る。じんじんとした熱と痺れが少しずつ広がり、愚かな自分にいつまでも痛みを与えてくれるよう切に願う。
しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くして、セリーヌが出て行った先を見据えた。儚げに見えた後姿が、何度も目の前で繰り返される。
聞こえる時計と自然の音。
秋の夜長に聞く自然のアンサンブルは、時を刻む“モノ”をタクトに、バラバラな音色を奏でている。
だが心なしかその旋律は、『別れの曲』に似ているような、そんな気さえした。
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