2-3

「私が貴族だった、というのは以前にも話したが……。何から話そうか」


 招待することばかりが頭にあり、肝心なことをまとめていなかった。相当浮かれていたようだ。

 逡巡の思考の後、家のことから話そうという結論に至る。


「そうだな。生まれから話そう。……私の本名は、クリストファー=ブランフォードと言う。伯爵家の生まれだ」

「ブランフォード?」

「ああ。知っているのかい?」

「ヴァン=クライクの東側にある茶色いお屋敷ですよね」

「そうだが……?」


 なぜ彼女は知っているのだろう。私はファミリーネームを変えて生きてきた。それを知っている人間はごく僅かだ。信頼の置ける人間にしか教えていないため、家が他人に知られると言うことはないはず。貴族が溢れかえる都市で伯爵家と言っても、そこまで有名でもないと思うのだが。

 疑問に思っていると、セリーヌは笑みを浮かべた。


「わたし、よくあのお家にお花を届けに行くんです」

「そうなのか?」

「はい。つい先日も届けたばかりなんですよ。なんでも盛大なパーティーを開くとかで、飾り付けにぜひ店の花を使いたいって。それだけじゃなく、何度かお声を掛けて頂いた事がありますよ」


 これは驚いた。どうやらあの家は彼女の店の常連らしい。私も知らなかった事実だ。まあ、知ったところでどうなるわけでも、どうこう言うわけでもないが。

 するとセリーヌは、なるほどと頷く私に続けた。


「それに、そうだとしたら……多分わたしたち会ったことがありますね」

「ん? どういうことだい」

「幼い頃、ブランフォード家のご家族が、うちにお花を買いに来たことがあるんです。その時のことは今でも忘れません。両親が、『貴族の方に買って頂けた』と凄く喜んでいたので」

「それで……」

「はい。その時に一緒にいた不機嫌そうな顔をした、わたしより少し背の低かった男の子が、もしかしたらクリストファーさんなんじゃないかなって。思い出してみると、今でもなんとなく面影があるような気がしますし」


 彼女は思い出を楽しそうに語っているが、残念ながら私にはまるで記憶にない。しばらく記憶を探ってみるも、やはり思い出せなかった。

 眉を寄せて真剣に考え込む姿がおかしかったのか、セリーヌはくすくすと笑い出す。自分だけ覚えていないというのは、些か不公平ではないだろうか。少し悔しい気もする。

 でも意外だな。花屋ならヴァン=クライクを探せばいくらでもあるだろう。しかし彼女の店の花を買っている。確かに彼女の育てた花や仕入れられる植物はとても綺麗だ。店主がそうだからなのか、品があって可憐だと思う。だが、あの人たちがそれを感じられる心を持っているとは到底思えない。……そういう人間だからだ。

 苦々しい過去を思い出し、私は強く歯噛みした。


「どうしたんですか?」

「……いや、なんでもないよ。話を戻そうか」


 気を取り直すように小さく息を吐いて話を再開する。


「私は小さな頃から親の愛を知らずに育った。両親は何かとあれば社交パーティーに顔を出したり家で開いたり……。特に私に構うこともなく、世話は屋敷のメイドに任せきりだ。メイドもメイドで仕事がある。よって一人で過ごす時間が圧倒的に多かった」


 子供の世話など面倒なだけ、そう言わんばかりの適当な相手の仕方だったのは記憶に残っている。もの心つく前からそうだった為、それが当たり前なんだと思っていた。

 けど――。

 ふとセリーヌに視線を戻すと、切なげな顔をしてこちらを見つめていた。


「子供には広すぎる部屋に一人。友達もなく、話し相手はたまにやってくるメイドだけ。声に出してまで言葉にはしなかったが……寂しかった、んだと思う。だが口にしたところで、あの人たちが聞くわけはない。自分たちの事しか考えていない利己主義者だからな。子供ながらに、ずっとそれは感じていたことだ」


 いつも思っていた。早くこの家を出て一人立ちしてやると、こんな家から出て行きたいと……。


「そんなある日の事だった。私に転機というものが訪れたのは」


 私が人形に興味を持つきっかけとなった出来事だ。

 全てはある日、両親が一体の人形を買ってきたことから始まった――――。

 その人形の名前はシルフ。

 その名の示す通り、風の精霊をモチーフに作られたビスクドールだった。

 大きさは約二十センチほど。水色のワンピースを着た、雪さえ欺くような白い肌と銀の髪が印象的な少女。その背中にはまるで蝶のような、向こうが透けて見えるくらい薄い紫の羽が生えていた。

 私はその人形を見た瞬間、何かに囚われたように身動きが出来なくなっていた。

 呼吸すら忘れてしまうほどの衝撃を受け、感動した。世の中にはこんなにも美しい人形が存在するのかと。それと同時に自分を恥じた。どれだけ世界を知らないのだと。

 自分の未知がまだまだある、それを教えてくれたこの人形に感謝しつつ、私は作者が気になった。

 ケースに付けられていた鉄プレートにサインがある。どうやら製作者は中央都市にいるらしい。ヴァン=クライクにある『オールドリーフ』という店の店主だそうだ。

 シルフが一階の廊下に飾られてからというもの、私は毎日のように少女を眺めた。本当に綺麗だった。

 両親は殆ど家にはおらず、寂しい毎日を送っていた私にとってはシルフが遊び相手のようなものだった。ガラスケース越しに眺めるだけで触れられはしないけれど、私はそれでも満足だった。

 しかし眺めている内に、心の中にある衝動が芽生え始める。小さな種だったが、それは着実に私の心に根付いていった。

 そんなある日のことだ。私はついに決心する。人形師になろう。この人形を超える作品を生み出そうと。そして私は家を飛び出した。自分の部屋に置いてあった金目の物と衣服を鞄にありったけ詰め込んで……。


「――そうして私は貴族という身分を捨てたんだ。あの家にいたら、間違いなく私は腐っていたと思う。君とも、こんな素敵な出会いは出来なかっただろう」


 しかし家を出たところまではいいが、人形に関しての知識など何もなかった私は途方にくれた。いったいどうすれば……。

 それから数日は野宿だった。持ち出した物を小さく崩して手持ちはあったため、食べるものに苦労はしなかった。が、いつまでもこんなことはしていられないと、内心焦りを感じていた。

 そんな時、風に流されて脚に引っかかった偶然拾ったチラシ。そこには『弟子募集! オールドリーフオーナー ジャック』の文字が。

 これは天命かと思った。この期を逃すまいと、私は早速オールドリーフの門を叩いた。

 着いた頃には、既に十人ほど志願者が集まり、オーナーから説明を受けているところだった。どうやら三ヶ月住み込みで仕事をさせて、弟子に相応しいかを試すそうだ。

 私にしてみれば、住むところを貸してくれるのは有難かった。さすがに野宿は辛いから……。

 翌日から、早速仕事は始まった。

 まず朝食の準備。掃除。それからごみ捨てなどの雑用をこなし、また掃除。そして夕食の準備……その繰り返し。三週間はずっとそんな調子だった。もう既に脱落者は二名も出ていた。「雑用なんかやってられるか」、そう言って辞めていった。

 次の週からは多少なりと物に携わらせてくれた。

 朝からのやることは変わらないが、窯の温度調整を教えてもらえることになった。

 ゆっくりだが確実に前へ進めている、私はそれが嬉しかった。家では感じることのなかった充実感。

 だが調節温度を間違えるとすぐに殴られた。幼かった私は泣くのをグッと堪え、真剣に仕事に取り組んだ。

 早く覚えよう、そして早く一人前になって人形を作りたい。その思いだけが、私の体を突き動かしていた。

 ――そうして気付いたら一ヶ月半が過ぎようとしていた。

 その時には志願者は私を含め、もう三人だけになっていた。小さな失敗だけで殴られることに耐えられなかった他の志願者は、一人また一人と辞めていった。

 後で聞かされた事だが、私の他にも貴族出の者が数名いたらしい。人から殴られるなんて事は、温室育ちの貴族ならばかなりの屈辱だろう。私もまともに育てられていたのならば、挫折していたかもしれない。


「オールドリーフで修行をしていたんですね」

「ああ。オーナーには随分と世話になったよ。本当に感謝している」

「私もあのお店で、子供の頃にお人形さんを買ってもらったことがあるんです。高価なものはさすがに無理でしたけど、なんでもお弟子さんが作ったものだとかで」

「そうか。確かにオーナーの作ったものは高いからな。……それは今でも?」


 訊ねると、セリーヌは少し目を伏せた。


「それが、腕が取れちゃって……。両親はまた新しく買ってあげるから、と言ってくれたんですけど。捨てちゃうのは可哀想だし……。まだとってはあるんですけど」


 そして寂しそうに、申し訳なさそうに俯いた。

 普通の感覚なら捨ててしまうかもしれないが、彼女はそれですらも大切にしている。

 私と似たところがあるな。今まで作ってきた子たちの中で、不慮の事故により壊してしまった子がいなかったわけではない。ちょっとした不注意で落として割ってしまった子。吊るしていた糸が切れ落下して破損した子など様々だ。そういった子たちも、私はちゃんと箱の中にとってある。私にとっては、何も変わらない子供たちだ。彼女も似たような思いなのかもしれない。


「もしよかったら、私に見せてみないか?」

「え?」

「直せるかもしれない。腕が取れてしまっただけだろう?」

「本当ですか!? ありがとうございます!」


 驚きと歓喜が入り混じったような嬉しそうな顔をし、セリーヌはテーブルから前のめりになった。その瞳は期待からか輝いている。


「わたし、ずっと思ってたんです。申し訳ないなって。それに、両親の形見ですし。だから、直るんだったらぜひ直してもらいたいです。お願いします」


 そう言って、テーブルに額が付くほど深く頭を下げる。

 彼女の気持ちは本物だ。私も手伝えることがあれば協力したい。そして今のそれは、間違いなく自分にしか出来ないことだ。なおさら彼女の為にも尽力したいと思った。


「分かった、引き受けよう。今度来た時にでも持ってくるといい」

 私の言葉に、セリーヌは優しい笑みを浮かべて頷いた。

「そうだ。まだ明るい内に案内したい場所があったんだ。ついて来てくれるかい?」

「え? あ、はい」


 不思議そうに首を傾げながらも、セリーヌは私に続いて立ち上がる。ついでに時計を確認し、現時刻をよんだ。今ちょうど、時計の針は三時三十分を回ったところだった。

 彼女が以前、空が好きだと言っていたのを覚えている。あの時の横顔が今でも鮮明に思い出される。屋敷の近くには、まさに打って付け、絶好の場所があるんだ。そこへ彼女を連れて行きたい。きっと気に入ってくれるはずだ。

 二人並んで歩く廊下は、いつもとはまた違った雰囲気に包まれている。彼らから感じる視線のようなものが穏やかで優しく、温もりすら感じ取れるのだ。

 正直客人を招待して、こんなにも和やかな雰囲気になった覚えがない。私も本当に驚いている。

 やがて玄関まで来ると、私たちはスリッパを脱ぎ、それぞれ靴に履き替える。そして屋敷を出て、厩舎とは反対側。つまりは東に向かって歩き出す。屋敷の角を曲がり、その裏手へ。

 裏庭へやってくると、明らかに不自然に生え揃う木々のトンネルが見えた。

 ふと彼女を見やると、先の暗がりが少し不安なのか、心配そうな顔をしていた。


「不安かい?」

「い、いえ。……でも、あまり暗いのは得意じゃないんです」


 苦笑を浮かべるセリーヌに、私は少し悪戯な質問をしてみた。


「屋敷の中は、特に廊下なんかは結構暗い方だと思うんだけど?」

「あれは! ……お人形さんがいたからで」


 彼女はその問い掛けに一瞬声を荒げながらも、尻すぼみになっていく声で言葉を返した。

 小さく微笑み、安心させようと彼女の肩に手を回す。


「私じゃ頼りないかな?」

「えっ!?」


 その行為に驚いたのか、セリーヌは目を瞠って硬直した。耳まで赤くする反応が可愛い。


「さあ、このトンネルの向こうだよ。行こう」


 促した言葉に静かに頷くと、彼女は一歩ずつ、歩幅は狭くゆっくりながらも歩き出した。

 二人並んで、まるで誰かが作ったような背丈より少し高い木々のアーチの中を潜る。

 するとさわやかな新緑の香りに包まれた。風の通り道になっていて、揺れる樹葉のざわめきと香る緑に囲まれ、心が癒されていくようだ。

 そうしてしばらく歩くと、見えてきたのはトンネルの出口。光が洩れ、向こうの景色が幽かに覗える。揃ってトンネルを抜け、そして光の下へ。

 そこに広がっていたのは、切り株を囲うように、およそ円の形をした芝の広がる景色だった。

 暖かな陽光は、木々に遮られることなく広場に降り注ぐ。ここは屋敷以外では森の中で唯一、何故か空を見上げることが出来る場所だ。広場を取り囲む樹木からは、やわらかな木漏れ日が円の縁に沿うように照らしている。


「うわぁ……」


 感心するように大きく息を吐いたセリーヌは、光と戯れるように空に手を翳しながら、広場の中央へ向かって歩いていく。

 光に照らされた美しく長い金髪は、向こうが透けるほど透明感に溢れ、風に撫でられ宙を踊る。彼女の動きに追随するように揺れるブロンドが、キラキラと光り輝く粒子を撒き散らすその様は、まるで時の歩みが遅くなったかのように、私の中でゆっくりと再生されていた。


「……トファーさん?」


 時も忘れ彼女の姿に見惚れていると、不意に名前を呼ぶ声が聞こえる。


「クリストファーさん!」


 声により我に返ると、すぐ目の前まで彼女は詰め寄り、赤らめた頬を膨らましていた。


「うぇあ? ……あ、どうした――」

「どうしたじゃないです。あんまりジッと見つめられると、恥ずかしいんですけど……」

「あ、ああ。すまない」


 謝ると同時に呆としてセリーヌを見つめ返す。膨れっ面をしていたかと思うと次には、目のやり場に困ったように目線をあちらこちらに泳がせる彼女。コロコロと表情を変えては、結局決まりが悪そうに私に背を向けた。

 ややあって――


「切り株に、座りませんか?」


 涼しい春風がさわりと耳を撫でる。

 背を向けられているため表情は分からないが、なんとなくだが想像はつく。きっと耳まで赤くして、恥ずかしそうに視線を流していることだろう。


「そうだね、座ろうか」


 くすりと笑いながら返事して、私はゆっくりと歩き出す。

 草を踏む音が聞こえたのか、彼女もすぐ前を先行し切り株まで歩いた。

 いつ切られたのかも分からない、年輪を多重に巻く切り株は、二人が座るにはちょうどいい大きさだ。

 それぞれ隣り合って腰掛けると、セリーヌはワンピースの裾を直しながら訊ねてきた。


「さっきのお話の続き、聞かせていただいてもいいですか?」

「ん? ああ、まだ話し終えてなかったか。ええと、どこまで話したかな……」


 つい先ほどのことなのに、私は思い出せなかった。それは今しがた見たばかりの、彼女の美しいワンシーンに心奪われ、話していた内容を忘れたからで……。それを誰が攻めることが出来るだろう。仕方のないことだと思う。

 やがて、顎に手をやり悩む私を見かねたのか、彼女は顔を覗き込んできた。


「オーナーの弟子候補が、三人になったってところまでです」

「あ、ああ……ありがとう」


 忘れていた理由を思量し少し恥ずかしくなり、彼女と目の合いそうになったタイミングで視線を空へと投げる。いま目が合ってしまったら、間違いなく赤面してしまうに違いない。

 出会い、こうして会話し同じ時間を過ごす初日で、「おかしな人」というレッテルを貼られるのは大変よろしくないだろう。

 ゴホンッと一つ大きく咳払いをして、私は気持ちを切り替える。それから話を再開した。


「残った者が三人になった時、オーナーが言ったんだ。『三人ともなかなか筋が良い。出来れば皆を弟子にしたいところだが……わしは一人に、わしの全てを託したいと思っている』と」

「それで、どうなったんですか?」

「オーナーはさらにこう続けたよ。『お前たちが作った人形を、この店で商品として売る。そして一番最初に買い手がついた者を、わしの弟子とする』ってね」


 与えられた制作期間は三週間。その内に題材、そのキャラクターの設定や外見、そして人形本体を作らなければならない。今まで教授されてきたことを最大に引き出せたとしても、オーナーから見れば荒削りもいいところ。もしかしたら「ゴミだ」と冷たくあしらわれるような出来栄えのものしか作れないかもしれない。その思いが私を悩ませ苦しめた。


「それで、クリストファーさんは何を作ったんですか?」


 他の二人が大して悩みもせず、言われた初日から製作に入ったにも拘わらず。一人、一週間悩んだ末に、ようやく決めた私が作った人形は――。


「シルフだ」

「シルフ……」


 そう。私が幼い頃に見た、記憶の中にある唯一の人形。人形師になりたいと、家を出ることを決意させた、あの思い出の人形だ。

 オーナーであるジャックの反応が見てみたかった、というのはもちろんあるが。何より、あの時見た人形が、まだそれに関して齧った程度の知識と技術、そして経験しかない自分のものとでどれだけ差があるのか。それを確かめてみたかったんだ。


「でもいくらあの時の記憶を頼りにデザインを書き起こしてみても、粘土を練り真似て形作ってみても……まるで次元が違いすぎて、正直泣きそうになったよ」


 あの時見た人形はまるで生きているかのような躍動感に溢れ、その鼓動すら聞こえてきそうなほど完成されたものだった。しかし私が作ったものはどうだ。羽ばたきも脈動も、瞬きでさえも感じられない。それどころか流れる風すらも見えない、見て呉れだけを真似た、ただの『モノ』でしかなかった。


「結果……結果はどうだったんですか?」

「やけに気になっているみたいだけど、どうかしたのかい?」

「い、いえ。ただ、結果が早く知りたくて」


 そう言う彼女の表情は、急いているようにも見えたが、どこか不安げだ。多少気になりはしたものの、焦らす必要もないし、彼女自身がとても気になっているようなので私は先を教えることにした。


「結果は、私が作った子『シルフ』が最初に売れたよ」

「そう、なんですか」

「……ん? どうかしたかい」

「いえ、なんでもないです」


 小さく首を振った彼女は笑顔を返す。少し俯いたと思ったら静かに目を閉じた。そうして口元を緩めたまま何度か頷くと、そっか……と呟き、顔を上げると同時に瞼を開く。


「今度、お人形さん持ってきますね」


 その表情は先ほどとは違い晴れやかで、緑の薫る春風みたいに爽やかなものだった。

 今の今で、なにか心境に変化でもあったのだろうか。と私は不思議に思い、小首を傾げて彼女を見返す。するとセリーヌはなにかを思い出したように声を上げた。


「あ、ところでクリストファーさんは、おいくつの時に家出したんですか?」


 唐突な質問だったが、私に興味を持ってくれていることが素直に嬉しい。


「ああ……、九歳の頃だよ。オーナーに出会って、それから五年間あの店で修行をさせてもらった」

「やっぱりそうなんですね」


 そう呟くと、彼女は納得したように頷く。

 やはり先ほどから少し様子がおかしい気がするが、私の気のせいだろうか。


「なにが“やっぱり”なんだい?」

「え? ああ、気になさらないでください」


 と彼女は小さく首を振り、こっちの話ですから、と続けた。

 そうは言ってもやはり気に掛かる言動だ。多少の含みを持たせている気がしないでもないが……そこまでは気にしすぎだろうか。

 そんな私の不安を余所に、切り株から立ち上がったセリーヌは、数歩進んで振り返る。


「そう言えばクリストファーさんって、今おいくつですか?」

「ん? 年齢が気になるのかい?」

「はい。なんて言うか、すごく不思議な雰囲気だし、仕草や言動なんかも大人っぽいなって思って……」

「ああ、そんなことか。別に隠す必要もないことだしな。私は今年で二十三だよ」

「えっ……」


 年齢を告げた途端、セリーヌは驚いた顔をして、呆然としたまま固まった。そんな彼女の顔色から、ほんの少しだけ落胆のようなものが垣間見えた気がする。


「ど、どうかしたのかい?」

「……クリストファーさん」

「ん?」

「って、年下だったんですかーっ!?」

「え? ……えっ!? 年、上?」

「……はい……二つ……」


 互いに唖然と憮然とした面持ちで見つめ合うこと十数秒。それがやけに長く感じたことは言うまでもない。そして先に沈黙を破ったのは、私だ。


「私はてっきり年下だとばかり思っていたよ」

「わたしも、クリストファーさんは三つくらい上だと思ってましたよ」


 なんてことだ。まさか彼女が自分よりも年上だったなんて。

 確かにセリーヌは美人で大人びた風も感じられる。だが、まだ幼さの残るあどけない顔立ちをしている為に、私は年下だと勝手に決め付けてしまっていたのだ。

 それに年相応の落ち着きを感じない所も、その残念な理由に拍車をかけている要因の一つとなっているだろう。


「そうだったのか……。じゃあ、“セリーヌさん”でいいのかな?」

「いえ、別に“セリーヌ”って呼び捨てでいいですよ」

「ん? そ、そうか……」

「わたしはなんてお呼びすればいいですか?」

「そうだな……というか、まずは敬語自体をやめにしないかい? なんだか他人行儀で余所余所しいだろう」

「それもそうですね……あっ」

「いきなりは無理かな」

「う、ううん……あ、でもちょっと照れくさい、かも」


 頬をほんのり赤く染めながらセリーヌは俯いた。陽の差す顔は光を受けてより発色し、その色味が濃いことを気付かせる。

 確かに、いきなり砕けた態度に改めるというのも恥ずかしい気もする。

 だが年齢とか身分とか関係なしに、私は彼女……セリーヌと打ち解けたい。いろんな会話をして、互いに互いを解し、そして幸せを共有し分かち合いたい。

 いつの間にやら、私は彼女に恋をしてしまったようだ。もちろんそれに自分自身、気付いていなかったわけではない。

 初めて会った時から、セリーヌに対し何か特別な感情を抱き、揺さぶられていた心を感じていた。ただ単純に、彼女がドールを愛でてくれるから、というだけではない想いだ。

 それが今になって、ようやくはっきりと自覚できるまでに成長したようだ。

 だからと言って今、想いを伝えていいものかどうか私は悩んでいた。それはあまりにも時期尚早なのではないか。急過ぎて彼女は困惑しないだろうか。そんな思いが、私の胸中を掻き乱し渦巻いている。

 こんな気持ちになるのは久しぶりかもしれない。と言うかここまでピュアな感情を抱いたのは初めてだ。

 長い間、私は異性との交遊を禁じてきた。それは自分自身に対する戒めでもあったのだ。私は過去に過ちを犯したことがある。一時期のスランプで酒に溺れ、私は自我を失った。バーで出会った見た目の良い女なら誰でもよかった。とにかく、人形を作れないことを忘れたかった、そういう時期があったのだ。もう七年も前の話だ。


「ね、ねえ……クリス、トファー」


 深く考え込む私を訝しんでか、セリーヌは眉をひそめて顔を覗き込んできた。その声にはいまだ遠慮しているニュアンスを感じる。


「……ん? あ、ああ。そうだな――」


 だから正直、この気持ちがなんなのか最初は気付かなかった。でも今ならはっきりと分かる。これは……これが、私の初恋なのだと。


「セリーヌ」

「は、はい!」


 遠慮もなしにいきなり名を呼んだことが、よほど驚きだったのだろう。セリーヌは背筋をピンと伸ばし身を強張らせ、見て取れるほどの緊張した面持ちでこちらを見返す。


「私のことは、その……クリスと呼んでくれないか」

「クリス……」


 今までただの一度も、誰からも呼ばれたことのない、私の愛称だ。親にすら呼ばれた記憶がない。だから正直言うと、自分で愛称を相手に伝えると言うことすら照れくさい。だが、彼女になら呼ばれてもいいと思った。むしろ呼んで欲しい、私の名を。

 セリーヌは胸に手を当てると小さく拳を握り、瞳を少しだけ潤ませた。なにやら感慨深げな様子で、しばらく沈黙の時が流れたが――。ゆっくりと顔を上げた彼女は小さく頷き、静かに口を開いた。


「クリス」


 その音色はとても優しく、私の心の奥深くに、静かだが強くどこまでも響き渡る。今まで孤独を感じていた心に、まるで救いの手を差し伸べられたかのような、そんな温かさを胸一杯に感じることが出来た。

 その言葉をかみ締めるように、私はそっと目を閉じる。


「……ありがとう」


 自然に零れた感謝の言葉。いつも感じている感謝とは、また違った感覚だ。それをうまく言葉にして表せないことが歯痒い。

 少しして目を開けると、視界にはセリーヌの姿がある。光の下にいる彼女は、お世辞ではなく本当に美しい。しかし残念ながらそれを伝える勇気は、今のところ私には備わっていないようだ。

 見つめたことが気恥ずかしくなり、そっと彼女から視線を外した。


「そろそろ、屋敷に戻ろうか? どうする」


 あまり彼女を陽の下に晒していて、その白磁のような美しい肌を焼いてしまわないかと危惧した私は、それとなく戻ることを提案する。が――


「ううん。もう少しここにいたいな」


 そう言うなりワンピースを閃かせ、セリーヌは私の隣に再び腰掛けた。今度は先ほどよりもぐっと距離が縮まり……と言うかほぼ密着している状態だ。

「えへへ」と照れ笑いを浮かべながら、彼女はそっと肩に寄りかかる。

 息のかかるほどの距離感に、緊張を悟られまいと無意識にも呼吸を最小減に止めようとする。心臓は早鐘を打つように鼓動する。

 幸せな時間だが、少し落ち着かない。地に足が着いているのかも曖昧だ。

 そわそわとしたそんな時を、自然の声豊かな森の広場で、彼女と二人、日が暮れ出すまで過ごした――――。


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