第9話 哀歌(3)

 七月十七日の朝は、よく晴れていた。八時頃に起きた春香と薫は、朝食を食べながらテレビを見た。画面に「神国事件から二年」の文字が映る。


「二年かあ」


 春香がつぶやくと、薫がしんみりとした顔で言う。


「なんだか、嘘みたい」


 春香は、なんと言えばいいのかわからなかった。しばらく、テレビの音だけが部屋に響く。


「あ、そうだ。お花買わなきゃ」


 薫が唐突につぶやいた。


「お墓に供える花?」

「うん。何が良いかな」

「うーん。花は詳しくないんだよね」

「じゃあ、花屋さんに聞いてみる。去年何あげたのか、忘れちゃった……」


 二人の間に、また沈黙が流れる。テレビでは、コメンテーターが教団の犯行動機を分析している。やけに断定的な口ぶりだ。特集が終わると、薫がまたつぶやいた。


「……『今日を越えて』が聴きたいな。岡林信康の」

「わかった」


 春香がプレーヤーをセットし、「今日を越えて」が部屋に流れる。薫の目を見ると、涙が浮かんでいた。


「懐かしいな……。この曲が、こんなに懐かしいなんて」

「そういえば、これも誰かの趣味なの……? 亡くなった三人の」

「うん、明子さん。明子さんが聴いてた」

「そっか……最初に助けてくれた人、だよね」

「うん。ずっと弟さん……その人も亡くなっちゃったけど、弟さんを待ってた」

「……そっか。どんな人だった?」


 薫はしばらく春香の方を見ていた。そして、涙を拭いながら笑う。


「お姉ちゃんと、似てると思うな。優しくて、でも強くて、かっこよかった」

「そう……。似てるかな、私」

「似てると思う。髪型とか、雰囲気とかも。結構前から、そう思ってた」

「そっか」

「うん」


 二人は朝食の続きに戻った。春香はゴールデンバットを一本吸ってから、片付けに入ることにした。その姿を見た薫が言う。


「ああ、そうやってると、ほんとにそっくりだね」

「……ごめん、消そうか?」

「ううん、いいの。私にも一本ちょうだい」

「わかった。どうぞ」


 薫がタバコを吸う姿を見るのは、この前以来だ。彼女が、煙を吐き出しながら重々しくつぶやく。


「……私、みんなを助けてあげられなかった」

「それは……薫のせいじゃないよ」


 春香の口から、思わずそんな言葉が出ていた。薫が首を横にふる。


「でも、何かできたんじゃないかって、思っちゃう」

「そうかもしれないけど、そうじゃないのかもしれない。誰にも、わかんないよ」

「そうかな……」

「うん」



 二人はタバコを吸い終わると、食器を片付け、身なりを整えて家を出た。駅まで二人で歩く。春香がふと気づいたように言う。


「あ、花屋、どうする? 途中でどっか寄る?」

「うーん。向こうで買おうかな。その方がゆっくりできるかも」

「じゃあ、そうしよう」


 あたりにはまだ、爽やかな朝の匂いが残っている。太陽が、二人の姿を照らす。雲一つない空だ。薫がふと、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。


「トオルはね。最後まで、私の事、守ってくれたよ」

「そう……」

「私が今こうやっていられるのも、トオルのおかげ」

「……じゃあ、私も感謝しなきゃ」

「うん」


 しばらく、沈黙が流れる。春香は、思い切って聞いてみた。


「どんな子だった……? トオルくん」


 その質問を聞くと、薫は立ち止まり、しばらく空を眺めていた。風が、彼女のさらさらとした髪をなびかせる。


「……強い人だった。もちろん弱さもあったけど。自分に正直だった」


 そう言うと彼女は、再び前を向いて歩き出した。


「なんていうか、『変だな』って思ったら、それをちゃんと言葉にできる人だった。私にはそれができなくて……だから、ちょっとうらやましかった」

「そっか……」

「なんだか、私って受け身なのかな。いつも誰かの言うことを『うんうん』って聞くばっかりな気がする」

「そうかな」

「たぶん」

「でもさ……」


 春香は、薫の顔を見た。


「トオルくんを信じたのは、薫の意思でしょ? 教団が正しいとされてる世界で、薫は教団よりトオルくんを信じたんでしょ? それは、結構勇気のいることだと思う」


 薫は、しばらく考え込んでいるようだった。


「そう……かな」

「そうだよ」


 春香はそう言って彼女の肩を叩いた。薫が静かに頷く。


「あんまり自信は持てないけど、そうなのかもしれない」


 二人は、しばらく黙って歩いていた。薫の目に、涙が浮かぶ。彼女は、その涙が止められないようだった。春香は持っていたハンカチでその涙を拭った。


「大丈夫? ほら、これ使って」

「……ありがとう」


 春香は薫を抱きしめた。


「落ち着くまでこうしててあげるから、ね?」

「うん……」


 しばらく薫は静かに泣いていたが、いつしか我慢できなくなったようだ。震えるような声で、誰に向けるでもなくこう言った。


「私……私、もうトオルに会えないんだね……。あの声も聞けない、あの笑顔も……もう」


 春香は、黙って彼女の頭を撫でていた。ふと、自分の目にも涙が浮かんでいることに気づく。不思議と、彼女の悲しみが胸に染み込んでくるのだ。薫はひとしきり泣いた後、春香の顔を見てこう言った。


「ねえ、ちょっと……『ナギサ』って言ってみて」

「……渚?」


 その言葉を聞いて、彼女は再び泣き出した。


「……どした? 大丈夫?」

「うん……ごめん。ちょっと……待って」


 薫は、一度深呼吸してから涙を拭いた。


「……ずっと、封印してたの、その名前。教団の人がつけたものだから」

「ああ……」

「でも、ちょっと思ったの、私にとってトオルが『トオル』であるように、トオルにとっても、私は『ナギサ』なんだって。明子さんや、貴志さんにとっても……」

「そっか……」

「だから、今日だけでいいから、私の事『ナギサ』って呼んで」

「うん、わかった。渚ね」


 渚は、またしばらく泣いていた。



 十分ほど遅れて駅に着き、春香は渚を改札口まで見送った。


「じゃあ、帰るときまた連絡するから」

「うん。いってらっしゃい。渚」


 二人は手を振った。渚がホームの方へ消えていくのを確認すると、春香は意を決して電話をかけることにした。


「あ、もしもし、トシくん? ごめんね、仕事中に。ちょっと、今晩遊びに行っていい? 久しぶりに、二人きりで話そうよ」

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