第8話 贖い

「うーん……」


 数日後の夜、利彦の部屋で「千年女優」を見終わった薫は、難しい顔で唸っていた。利彦が、いかにも嬉しそうな表情で尋ねる。


「どう? これ」

「……ちょっと、待ってくださいね」


 他の二人も、にやにやとしながら薫の返答を待つ。


「なんだろう……。幸せ、ではありますよね」

「あー、そうかもねえ」


 洋子が意味ありげにつぶやくので、薫は不安そうに春香の方を見た。


「な、なんか私、変なこと言っちゃった?」

「全然。どう見るかは薫の自由だよ」


 そう言われても、彼女は釈然としない様子だ。薫はその後しばらく黙りこんでから、「後でもう一回見たいかな……」とだけ言った。

 利彦が、また嬉しそうな顔をする。


「DVDは俺のだから、見たかったらいつでも言ってよ。ネット探せばいろいろ考察とか出てるけど、みんなバラつきあるし、自分なりに考えるのが一番楽しいと思う」

「……なるほど」


 すると、洋子がバッグから何かを出し始めた。


「ねえねえ、時間余ってるならエヴァも見よう? 全部持ってきたよ!」


 これには春香が待ったをかけた。


「ストップ。今の薫はたぶん最後まで見れない」

「そうかな?」

「あ、すいません……怖いのとか、まだ苦手なんです」


 申し訳無さそうな薫に、洋子は屈託のない笑顔で声をかけた。


「じゃあ、また気が向いた時にね。こっちは私の私物だから」

「なんか、せっかく持ってきてもらったのに、申し訳ないです……」

「気にしないで。みんなで楽しめないと意味ないし」


 結局、残ったDVDは洋子と利彦が二人で見ることにして、春香と薫は先に帰る事になった。利彦と洋子に見送られながら部屋を出る。



 マンションの通路を少し歩いたところで、薫が恐る恐る尋ねてきた。


「お姉ちゃんは見なくてよかったの? エヴァ」

「まあ、何回も見てるし、別に今日じゃなくてもいいかなって」

「そっか……」

「もー、そんな気にしなくてもいいのに。アニメはいつでも見れるんだから」


 あまりにも申し訳無さそうな薫の様子に、春香は少々呆れた。


「うーん。でも私、もうちょっといろいろ慣れた方が良いのかなって気はする」

「少しずつでいいよ。無理しないで」

「うん」


 それから二人はしばらく黙って歩いた。辺りでは虫の声が聞こえ、すっかり夏の夜といった様相だ。日付変更が迫る時刻だったが、ぼんやりと暑さを感じる。薫がしみじみ「夏だねえ」とつぶやいた。


 部屋に戻ると、二人は腰を落ち着けて紅茶を飲んだ。テレビをつけてみたが、特に面白そうな番組はやっていない。


「それにしても、三人とも仲いいね」


 そう言いながら、薫は笑顔で春香の方を見た。


「まあね。でも、トシくん役得だよねえ。今じゃ女三人に囲まれるんだから」


 春香が前髪をいじりながら冗談めかして言うと、薫は小さな声で笑った。それから、少し遠慮がちに聞いてきた。


「これ、聞いて良いのかわかんないけど……」

「なに?」

「やっぱり、利彦さんとはこのまま友達でいるの?」


 春香はしばらく考えた。それは、彼女にとって少々ややこしい問題だ。


「そうだなあ……。正直、今のままが良いかなって気はしてる。三人でバランス取れてるし、私たちがまた付き合いだしたら、ちょっと変な感じになるかも」

「そういうものかな……」

「実際のところは、私にもわかんないけどね」


 二人の間に、沈黙が流れた。薫が、春香の目を見ながら尋ねる。


「お姉ちゃんは、どうしたいの?」

「……どういう意味?」


 彼女の質問に、春香は少し驚いた。薫は慌てたように取り消す。


「あ、やっぱりいいや。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」


 春香もあえて深追いはしなかったが、頭の中に何か引っかかるものが残った。


「お姉ちゃんは、どうしたいの?」


 自分は、どうしたいのだろう。本当に利彦と友人で居続けることを、望んでいるのだろうか。今まで避けていた問をつきつけられた気がした。その晩、薫が眠りについても春香は眠れなかった。

 


 利彦と初めて話したのは、大学一年の時だった。彼女がサークルのミーティングでくるりのコピーバンドを組みたいと募集をかけたところ、彼が参加を申し出てきたのだ。それから度々バンドを組むようになり、いつしか二人で食事に行ったり、お互いの家で酒を呑んだりするようにもなった。付き合おうと言い出したのは利彦の方で、たしか大学二年生の夏頃だったと記憶している。

 最初の数ヶ月は特に何の問題もなく、むしろ良いカップルとして周囲にも認知されていた。そんな関係が変わり始めたのは、大学三年生の春頃からだ。


 その頃二人はサークルの運営に携わっており、春香は会計係としてそれなりに責任の重い立場にいた。一方、利彦はドラムを管理する係で、運営の中では比較的気楽な部類だった。ドラムはセッティング等に詳しい先輩が多数おり、そうした先輩を頼れば大抵の仕事は問題なく進む。それに対して、会計は部費の徴収や会議での収支報告など、何かと面倒なことが多い。平行して学業もこなさねばならないので、春香はストレスが溜まりがちだった。その矛先が、自然と利彦に向いてしまったのだ。


 もちろん、それだけが原因というわけでもない。利彦も当時はやや気遣いに欠ける部分があり、悪気のない言動が春香の神経を逆なですることも度々あった。そうした不和から、二人の関係は次第にぎこちないものになっていったのだ。結局、このままではお互いにとって良くないということで、春香の方から別れを切り出した。利彦も、特に異議を唱えることはなかった。


 だが、大学卒業後は同期の友人がほとんど県外に行ってしまったこともあり、二人はまた頻繁に会うようになった。職場の同僚はあくまで「仕事仲間」という雰囲気で、洋子を除けば休日に会うような人間はほぼいない。利彦と同じマンションになったのは完全に偶然だが、そのおかげで会う頻度はさらに増えた。洋子からも「本当に付き合ってないの?」と聞かれたほどだ。


 

 春香はふと、利彦と洋子のことが気になった。DVDの量から考えて、おそらく二人はまだあの部屋でアニメを見ているだろう。枕元の時計を見ると、時刻はもう二時前だ。あの二人に限って何か起きるようにも思えないが、全く不安がないと言えば嘘だった。


「結局、私はどうしたいんだろうな……」


 暗がりの中で天井を見上げながら、春香はそうつぶやいた。本当に利彦を単なる友人だと思っているなら、彼が洋子とどうなっても別に構わないはずだ。ただ、なんとなく今の状況に不安を抱いている自分がいる。これは、どう解釈したら良いのだろう。

 

 以前、よりを戻そうという話を出したのは利彦の方だった。就職して半年ほど経った頃、二人で酒を飲んでいる時に彼が唐突に切り出したのだ。その時、春香は「もう少し様子を見よう」と事実上回答を保留した。昔のような失敗を繰り返すのではないか、という不安があったからだ。それからもう、三年近く経っている。だが、利彦は特にその件を蒸し返すこともしなかった。もう、付き合おうという気はないのかもしれない。



 春香は深い溜息をついた。薫を起こさないようにそっと寝室を出て、リビングへ向かう。なんとなくタバコが吸いたかった。

 春香はいつも数種類のタバコをストックしている。ゴールデンバット、ショートピース、ハイライト、ショートホープ。どれもいわゆる「重い」タイプだ。彼女はショートホープを選んだ。これは、利彦がよく吸っている銘柄だ。


 天井を見上げながら、そっと煙を吐き出す。そういえば、タバコを吸い始めたのは彼と別れてからだ。きっと自分に恋愛は向かないのだろうと、半ば自暴自棄になっていた。最初に買ったタバコも、ショートホープだった気がする。吸いきれない時のことを考えて、一箱の本数が少ないものを選んだ結果だった。利彦は春香よりも前からタバコを吸っていたが、それがショートホープだと気づいたのは別れてからしばらく経った時だ。


 大学を出て、もう四年。気がつけば二十代も半ばを過ぎていた。


「ほんと、どうしよう……」


 タバコの煙は、長い間空中を漂っていた。

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