第7話 哀歌(2)

 薫は自室に帰ってもまだ上機嫌だった。割りと物静かな子だと思っていたが、春香の思い違いだったのかもしれない。このくらい元気な方が、彼女の見た目にも合っている。すこし落ち着いた音楽が聴きたかったので、くるりをかけた。


「みんなすごいなぁ。私も楽器やりたくなっちゃった」

「そう思ってくれたなら何より。ギターかベースなら二、三万で買えるよ」

「私、あれがいいな。洋子さんのギター」

「タルボ? あれは十万以上するから難しいなあ。その辺じゃ売ってないし」

「そっか……。でも、なんかかっこいいギターが欲しい」


 二人は後日、楽器を見に行こうという話になった。部屋には「男の子と女の子」が流れている。春香はふと、あることに気がついた。


「そういえば……私とトシくんが昔付き合ってたって話、してなかった気がする」

「昔? 今は違うの?」

「よりを戻そうかって話も出たんだけどね。もうちょっと様子見ようってことになった」

「そっか……。二人でよく一緒にいるし、勝手に恋人なのかと思ってた」

「ははは……」


 春香は少し困ったように笑った。まあ、誤解されてもしょうがないだろう。


「大学時代に付き合ってたんだけどね、なんか失敗した。私も精神的に不安定だったし、付き合いだしたらぎくしゃくしちゃった」

「そういうこともあるんだね……」

「まあ、いろいろあるよ」


 そう言ったところで、春香の頭にある疑問が浮かんだ。


「薫は……恋愛経験あるの? あんなとこじゃ気軽に付き合えなさそうだけど」


 薫の顔色がにわかに曇った。やはり聞かない方が良かったかもしれない。嫌な予感がする。だが、一応返事を待った。


「……恋人は、いたよ」


 彼女はうつむきながら答えた。春香は話題を変えようかと思ったが、「あの……」と言いかけたあたりで薫が続きを話し始めてしまった。


「いろいろ制約はあったけど、別に恋愛は禁止じゃなかったし……昔から仲の良かった男の子から、十四歳の時に告白された」

「そっか……」


 その相手がどうなったのか、春香は聞きたくなかった。おそらく、後味の悪い話が待っている。


「あの日、亡くなっちゃったけど……」


 最悪の展開だった。


「わかった。それ以上は、もういいよ。ごめんね……せっかく楽しい感じだったのに」

「ううん、いいの。来月命日だし、いつかちゃんと話さなきゃって思ってた」


 薫は悲しげな微笑みを浮かべて、彼女の方を見た。春香は、すこし考えてからこう言った。


「……つらいことから、逃げることも必要だと思う。生きるために」

「そう、かな」


 薫がうつむきがちに答える。春香は励ますように、彼女の肩に手を置いた。


「そうだよ。でも、話してくれてありがとう」

「うん」


 春香は久しぶりに薫を抱きしめた。薫も彼女を抱きしめ返す。


「そうだ、あのタバコ、ある? 緑のパッケージの」

「ゴールデンバット? あるよ」

「吸ってみたい」


 春香は彼女の意図がよくわからなかった。だが、あのタバコも事件と関係しているらしい。


「別にあげてもいいけど、初心者向きじゃないよ?」

「えーっとね……。神国から脱走した私たちを、最初に助けてくれた人が好きだったタバコなの。だから、ちょっと味が知りたい」


 春香は彼女の言葉を頭の中でもう一度繰り返してから、静かにうなずいた。


「……わかった」


 台所に行き、加湿していたゴールデンバットを一本取り出す。そして、一通り薫に吸い方を教える。このタバコはフィルターがないので、吸うにはかなりのコツがいる。


「なるべくゆっくり、口の中に含むみたいに吸ってね。肺に入れると絶対むせるから」

「わかった」

「あと、葉っぱが口に入るから深く咥えないでね。こう、指ではさんで、軽くキスするみたいに」

「うん」


 薫がタバコを軽く咥え、春香が火をつける。独特の匂いが漂ってくる。


「……げほっ!」

「大丈夫!? だから言ったのに……」

「ごめん、ちょっと待って。もう一回吸って、だめなら諦める」


 薫はタバコを咥えなおし、先程より慎重に煙を口に含んだ。


「あ……」

「どう?」


 彼女は質問には答えず、もう一度タバコを吸った。


「うん……なんか、明子さんらしいな。うまく言えないけど」

「そっか。納得した?」


 薫は黙ってうなずいた。彼女は、しばらく静かにそのタバコを吸っていた。


「あつっ!」

「大丈夫? そろそろ消そうか」

「うん」

 

 タバコの火が消えたのを確認すると、薫は感慨深げにつぶやいた。


「悪くはなかったけど、お姉ちゃんみたいに毎日吸いたくはならないかな。それに、すごくクラクラする」


 春香はため息をつきながら、ゴールデンバットのパッケージを眺める。


「いきなりこんなの吸ったらヤニクラもするよ。それに臭いし、健康にも悪いし」

「……じゃあなんで吸ってるの?」

「好きだから。……じゃ、答えになってないか」


 二人は小さな声で笑った。その後、シャワーを浴びて、紅茶を一杯飲んでから寝ることにした。



 床についてから、春香は薫に一つ聞いてみた。


「ねえ、彼氏の名前、なんていうの? そのくらいなら、聞いてもいいよね……?」


 薫は、すこし間を置いてから、ゆっくりと噛みしめるように答えた。


「トオル、っていうの。本名は、今もわからないけど」

「トオルくん……だね。覚えておく」

「うん」


 春香はなんとなく、くるりの「アマデウス」が聴きたくなった。枕元のスマートフォンを手に取り、かなり小さめの音量でその曲をかける。


「……これ、誰の曲?」

「くるり」

「良い曲だね」

「でしょ?」

「リピート再生にしてくれる……? ずっと聴いていたい」

「いいよ」


 二人はしばらく黙っていた。物悲しいピアノとストリングスの音が部屋を包む。春香が、小さな声で尋ねる。


「……命日って、どこに集まるの?」

「埼玉の墓地。宗教とか、関係のないとこ。あの日亡くなった三人とも、そこにいるの」

「そっか」

「去年はお墓参りだけだったけど、今年はみんなでご飯食べようって言ってる」

「日にちは?」

「七月十七日。火曜日だったかな」

「じゃあ、私もその日は休みにしてもらうよ。駅まで見送る」

「ありがとう」


 春香は、薫の手を握った。薫がその手を握り返しながらつぶやく。


「……誰がどうして、こうなったんだろう」

「事件のこと? ヒコサカって教祖が首謀者じゃないの?」

「そうなんだけど、そういう意味じゃなくて、なんて言うか……」


 薫はしばらく考え込んでいるようだった。「アマデウス」は、その間も淡々と流れ続ける。


「私が調べられることは、全部目を通したつもり。だけど、本当に何もかも、あの人のせいなのかな」


 春香は、黙って続きを待った。


「……どうして人間は、何かを信じなきゃいけないんだろう。神様とか、他人とか、自分を」

「だって……何もかも疑ったら生きていけないよ? 例えばさ」


 春香はすこし間を置いた。


「例えば、うーん……そうだな。私が警察を疑ってて、薫が妹だって話は嘘かもしれないって思ってたら、今こんな風に話せてないよね」 

「確かに」

「疑おうと思えば出来るでしょ? でも、私たちはそうしなかった。だから、こうやって同じ家に住んでる。何かを信じるのが、必ずしも悪いわけじゃない」

「……そうだね」


 薫はさっきよりも強く春香の手を握った。春香は続ける。


「きっと加減とか、選択の問題なんだよ。何をどこまで信じるのかっていう」

「難しいね」

「うん、難しい。気をつけなきゃいけないけど、それも加減だよね」


 薫はまた何か考えているようだった。再び沈黙が流れる。耳元で、ピアノの音が響く。


「何か、正解みたいなものがあればいいのにね。こうすれば大丈夫っていう」


 春香はその「正解」について一通り考えてみたが、納得のいく答えは出てこなかった。目の前にはただ、底の見えない闇が広がっているだけだ。


「……正解は、きっとないんだよ。『これが正解だ』と思い込んじゃった人たちが、あの事件を起こしたんだと思う」


 それが彼女の答えだった。


「……そっか」

「たぶん、ね。そう思った方が楽だから。私は、正解なんてないと思うけど、これも間違ってるかもしれない。誰にも、なんにもわからないんだよ」

「なんか、不便な世界だね」

「うん」

「……私、わかんなくなっちゃった」


 薫はそう言ってため息をついた。


「何が?」

「私は、トオルを信じてた。でも、私がトオルを信じたことと、教団の人たちが神様や、ヒコサカって人を信じたことに、何か違いはあるのかな」

「……うーん」


 春香はしばらく考えてみたが、うまく言葉が出てこない。


「薫は、どう思うの?」

「今は、あまり違わないのかもしれないって思う」

「……そう、かな」

「たぶん、ね」


 春香は、薫の手を強く握った。


「そう思うの、つらくない?」

「……ちょっとね」

「じゃあ、一回それは、心の奥にしまっておこうよ。わざわざ今、考えなくても良いと思う」

「そっか……」

「言ったでしょ? つらいことから、逃げることも必要だって」

「うん」


 春香は、薫を抱き寄せた。


「しばらくこうしててあげるから、一旦難しいことは忘れて寝よ? ごめんね、変なこと言って」

「……ありがとう」


 部屋には「アマデウス」が、ずっと流れ続けている。薫は、春香の腕の中で深い眠りに落ちていった。

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