第5話 安息

 次の日、春香が目を覚ますと時計は八時半を回っていた。一瞬仕事に遅れるかと思ったが、よく考えれば今日も休みだ。隣に目をやると、薫はもう起きて布団から出ていた。リビングに行くと、彼女は一人でテレビを眺めている。春香は眠気をこらえながら声をかけた。


「おはようー。ごめんね、いま朝ごはん作るから」

「あ、なにか手伝うことある?」

「うーん。パン焼いてベーコンエッグ作るだけだし、大丈夫かな。テレビ見てていいよ」

「ありがとう」


 春香はトースターに食パンをセットし、フライパンでベーコンを焼き始める。ずっと見張っていなければならないわけでもないので、彼女は薫に話しかけた。


「なんか音楽かけていい? テレビ見たいならそのままでいいけど」

「かけていいよ。そんなにちゃんと見てないから」


 春香はくるりの「ワンダーフォーゲル」をかけた。疾走感のある爽やかな曲だ。


「これもくるり?」

「うん」

「朝って感じがするね」

「そうそう。朝はよくこの曲が聞きたくなるんだ」


 部屋にベーコンの焼ける匂いが漂ってくる。春香は、薫がいつも何を食べているのか気になった。


「普段ちゃんとご飯食べてる?」

「一応、三食食べてるよ。朝はパンとヨーグルトかな」

「お腹空かない?」

「ちょっとね。もう慣れたけど」

「お昼はともかく、私と住んだら朝夕はなんか作ってあげるよ。そんなに料理できないけど」

「ありがとう。私は料理慣れてるから、その時は交代で作ろ?」

「オーケー!」


 春香は笑顔で返事をすると、一旦ベーコンの様子を見に行った。そろそろ裏返してもいい頃合いだ。パンの焼ける匂いもする。春香はこの匂いが好きだ。ベーコンを裏返し、両面焼けた頃に卵を入れてフタをする。これで三、四分ほど待てばベーコンエッグが出来上がる。


「お腹空いてきちゃった……」


 薫は匂いに空腹を刺激されたらしい。


「そういえば、何時から起きてたの? 私も、もうちょっと早く起きるつもりだったんだけど」

「八時くらいだったかな」


 その時、携帯の着信音が鳴った。春香のものではない。薫が鞄から携帯を取り出す。メールらしい。彼女は何度か画面をタッチし、返信を書いているようだった。動作が一段落した頃を見計らって、春香が声をかける。


「友達?」

「あ、うん。神国で一緒だった女の子。今日のお昼に会うんだ」

「あー、用事ってそれか」

「そう。ちょっとお昼食べながら話そうって言ってる」

「どんな感じの子?」


 薫は「うーん」と言って、しばらく考えていた。


「気が強いって言うのかな。根は優しいんだけど、最初は怖い人に見えるかも」

「へー。仲いいの?」

「昔より最近の方がよく話すかな。家も近いし」


 二人がそんな話をしていると、今度はキッチンタイマーが鳴った。


「あ、卵焼けたかな。今持ってくるから、先食べてて」

「うん」


 焼き上がったトーストに、ベーコンエッグをのせる。


「熱いから気をつけてね」

「ありがとう。いただきます」


 薫が食べている間に、自分の分に取り掛かる。薫は「おいしい」とつぶやいた。


「よかった。大したもんじゃないけど」

「やっぱり、『お姉ちゃんに作ってもらった』って思うとなんか味も違って感じるな」

「そう?」

「うん」


 春香はなんだか照れくさかった。



 二人が朝食を食べ終えた頃には、九時半になっていた。薫は一度シャワーを浴びてから、帰る支度を始めた。春香は彼女を駅まで送る。

 春香の家から駅までは徒歩十五分ほどだ。マンションの前は何もない野原で、筑波山がよく見える。よく晴れていたので、かなり遠くまで見渡せた。すこし進むと住宅街に入る。静かなところだ。


「なんだか、住みやすそうだね。空気もいいし」


 薫がつぶやく。空は透き通るように青い。


「私の育ったところはもっと田舎だけどね。この辺は新興住宅って感じ」

「へー。確かに、建物新しいもんね」

「ショッピングモールとかスーパーもあるし、住むには困らないかな」

「やっぱり、私は田舎っぽいところの方が好きだな。人がいっぱいいるの、ちょっと苦手」


 その言葉を聞いて、春香は薫の生育環境に思いを馳せた。山の中のコミューンで長年育ってきた彼女にすれば、見知らぬ人の多い都市部で暮らすのはストレスが多そうだ。五歳で施設をでた春香でさえ、外の暮らしに馴染むのには苦労した。十八歳まであんなところで育っていたら、なおさらだろう。


 そんなことを考えながら歩いていると、大通りに出た。大通りと言っても、高い建物はほとんどない。

 

「ここまでくれば、駅までもうちょっとだよ」


 春香がそう言いながら薫の方を見ると、彼女は空を見上げながらつぶやいた。


「なんだか、早くこっちに住みたくなっちゃった」

「それはなにより。私も楽しみだな」

「今の暮らしも、そんなに不満はないんだけどね。お金があれば、好きなもの買えるし」

「そういえば、あそこ出るまで、お金なんて使ったことなかったんじゃない?」

「うん。最初は怖かったな。『ほんとにこれ使えるの?』って」


 薫はそう言って困ったように笑った。


「電車も乗ったことなかったし……なにもかも知らないことばっかり。それでも、保護された施設で、ある程度社会に馴染む訓練はしたんだけどね」

「そっか……やっぱ大変だよね」


 春香はやりきれない気持ちになった。大人たちの都合で、ありもしない楽園の夢を見せられ、何も知らずに育てられた子供たち。たとえコミューンから開放されても、教団に奪われた時間は返ってこない。


「教団に育てられたって言うと、みんな同情はしてくれるけど、かと言って雇ってくれるわけでもないし……。難しいんだなって」

「そっか……。別に、薫が悪いことしたわけじゃないのにね」


 それから二人はしばらく黙って歩いた。気がつけばもう駅だ。春香は改札口まで薫を見送る。


「じゃあ、またね」

「うん、ありがとう」


 そう言って薫はホームの方へ消えていった。

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