後編

第1話 福音(1)

 ヒコサカは一枚の紙を前に苦悩していた。その紙には四十余りの質問が書かれていたが、その二十七番目と二十八番目が問題だった。

 そこには、次のようなことが書かれていた。


質問二十七:あなたは命令があり次第、アメリカ合衆国の戦闘部隊に喜んで参加しますか。

質問二十八:あなたはアメリカ合衆国に忠誠を誓い、あらゆる外国又は国内からの攻撃に対して、アメリカ合衆国を防衛しますか。そして日本の天皇、その他外国政府及びその勢力下の諸勢力、組織に対し忠誠を拒否することを誓いますか。


 時に一九四三年二月のことである。ヒコサカは今、カリフォルニア州ツールレイク戦争移住センターに収容されていた。「戦争移住センター」などと言えば聞こえは良いが、早い話が強制収容所だ。当時、アメリカ西海岸に住んでいた全ての日本人、及びその血を引くものは「敵性外国人」としてこれらの施設に強制的に移住させられていた。ヒコサカもまた、その中の一人だった。


 

 ジョン・ヒコサカ(日本名:彦坂達郎)はカリフォルニア州サクラメントで一九二〇年に生まれた。だが、サクラメントでの記憶はほぼ無い。というのも、三歳の時に広島へ移り住んだためだ。両親はアメリカで農園をやっていたようだが、過酷な労働環境に耐えかねて帰国を決意したらしい。

 彼の居た広島市は、当時なかなかの大都市だった。市内を流れる川には毎日のように近くの島から野菜や魚を運ぶ船が行き来し、川岸にも多くの家が立ち並んでいた。川の至る所には遊泳場が設けられ、ヒコサカも夏場になるとよく友達と泳いだものだ。市内には路面電車が走り、「福屋」という四階建ての百貨店もあった。海を渡れば宮島の厳島神社があり、たまに家族で遊びに行ったりもした。


 だが、同時に広島は軍都でもあった。日清戦争の際には大本営が設置され、宇品港からは多くの兵士が出兵していった。軍事工場も沢山あったのを覚えている。父も帰国後はそうした工場で働いていた。ヒコサカ自身、幼い頃は自分もいつか兵隊になるものだと思っていた。



 そんな彼の考えが変わったのは、彼が高等学校(旧制中学校)に入ってからだ。学校では日々軍事訓練が行われ、行進や人を突き刺す練習などを厳しく叩きこまれた。だが、ヒコサカがアメリカ生まれであることを耳にした教師が、彼を執拗にいびるようになったのだ。曰く、「日本人でないお前に教えることはない」とのことだった。

 ヒコサカは納得がいかなかった。法律上、彼にはアメリカ国籍はもちろん、日本国籍もあるのだ。古くからの知り合いはそうした事情をよく理解していたが、そうでない者は教師の言い分を信じて彼をのけ者にした。


 そもそも、彼はどちらかと言うと体を動かすのが好きなタイプではなかった。苦手なわけではないのだが、彼が好きなのは絵を描くことだった。それなりに腕もよく、尋常小学校では学内コンクールで何度か金賞を取っていた。

 だが、引きこもって絵描きに熱中するような人間ではなく、友人と外で遊ぶことも多かった。いつもスケッチブック片手に出かけるので、近所では「絵かきの達郎くん」などと持て囃された。彼はこんな軍事訓練よりも、絵の勉強がしたかった。


 

 絵を学ぶには、アメリカに戻るしかない。彼がそう決意したのは、高等学校を出てからのことだ。一番の原因は、父の態度にあった。彼はヒコサカを江田島の海軍兵学校へ行かせようとしていた。当然ヒコサカは反発したが、父は聞く耳を持たず、文句を言えば即座に殴られた。なぜ父がそこまでして一人息子である自分を兵隊にやりたいのか、ヒコサカにはよく分からなかった。自分を「アメリカ人のくせに」と罵倒する人たちに命を捧げるよりも、彼はとにかく絵を描いていたかったのだ。

 

 そして一九三七年、ヒコサカは十七歳にして単身での渡米を決めた。


 父も母も、当然反対した。だが、彼の決意は固かった。ロサンゼルスには叔父の一家が住んでおり、事情を話して頼み込めば居候させてもらえる可能性もある。彼は、そのわずかな可能性に賭けることにしたわけだ。居候が無理でも、なにかしら仕事や住まいを紹介してくれるだろう。最終的に、彼の決意が変えられないことを悟った母が、渡米の資金を用意してくれた。



 こうして米国に渡ったヒコサカだったが、残念ながら叔父の家に居候させてもらうことは出来なかった。その代わり、当時「スクールボーイ」と呼ばれた住み込みの仕事を紹介してもらった。スクールボーイというのは、アメリカ人家庭で家事手伝いをしながら安い賃金をもらい、同時に英語やアメリカの生活文化を学ぶという、日系一世がよくやっていた生活スタイルだ。


 彼は住み込み先の家にあった車庫の屋根裏部屋を借り、薄暗い中でひたすら絵を描いた。スクールボーイの収入だけでは十分ではなかったため、近所のレストランで皿洗いなどもした。なかなか厳しい生活ではあったが、彼はなんとかして貯金を作った。暗い中で絵を描いていたせいで、視力も低下した。

 それでも、彼はそうした困難を乗り越え、二年後の一九三九年にはオーティス美術学院に入学が決まったのだ。



 こうして軌道に乗り始めたかに見えたヒコサカの生活だったが、アメリカ人の対日感情は思いの外悪かった。彼らは日本の中国侵攻を快く思っていなかったのだ。店によっては、彼が日系人だとわかると物を売ってくれないこともある。日本での生活が長く、英語が疎かったのも不自由さに拍車をかけた。「中国人です」と嘘をつくこともできたが、それは彼のプライドが許さなかった。法律上、あくまで彼は「アメリカ人」でもあるからだ。日本では「アメリカ人」と罵られ、アメリカでは「ジャップ」と罵られる。あまりに理不尽な境遇に、彼はやり場のない怒りを感じていた。


 そして、そんな状況は第二次大戦勃発とともに一気に悪化することになる。


 その頃、新聞には毎日のように反日・独・伊の記事がでかでかと掲載されるようになっていた。世間では、日米開戦の噂まで広まっているほどだ。中国人たちは日本人と間違われぬよう、常に「私は中国人です」と書かれたバッジをつけて歩いていた。

 叔父一家はクリーニング店を営んでいたが、白人の客足は途絶え始めていた。次第にヒコサカもスクールボーイを続けられなくなり、結局無理を言って叔父の家で居候させてもらうことになった。


 

 一九四一年十二月七日、その日は日曜日だった。八時頃に一家で朝食を食べながらヒコサカがラジオを聞いていると、臨時ニュースが入ってきた。それは、日本海軍の航空隊がハワイの真珠湾に碇泊しているアメリカ太平洋艦隊を攻撃しているという、衝撃的なものだった。みな、食事の手を止めてラジオに聞き入った。アナウンサーは率直に日本軍の攻撃ぶりを伝えており、太平洋艦隊がかなりの打撃を受けていることがわかった。


 ヒコサカは目の前が真っ暗になった。もともと日本に帰ろうという意志はあまりなかったが、開戦によってアメリカ人の対日感情が悪化するのは火を見るより明らかだ。何が起こるか分かったものではない。


 実際、それからまもなく日系人の資産は凍結され、社会保障などの支給も中止された。また、行動範囲は半径二十四キロメートル以内に制限され、武器やカメラを警察に提出するよう求められた。まともに買い物もできなくなり、一家はかなり苦しい状態になった。どこもかしこも「リメンバー・パールハーバー」だ。

 

 そして、いよいよ世論は日系人を強制隔離すべきだという方向へ流れ始める。その矛先は日本生まれの一世のみならず、アメリカ生まれの二世にも向けられた。彼らは一緒くたに「敵性外国人」とみなされ、アメリカ国籍であろうが関係無かった。「アメリカ国民だろうが、ジャップには変わりない」というのが白人たちの言い分だ。


 こうして一九四二年二月、とうとうルーズベルト大統領は「大統領令第九〇六六号」に署名した。それはアメリカ西部沿岸から、日本人およびその血を引く者を強制退去させる権限を陸軍長官に与えるというものだった。


 その結果、政府はカリフォルニア州の半分、オレゴン州、ワシントン州の大半を「陸軍軍事第一区」と定め、その地域から二世を含む全ての日系人を強制退去させることに決定した。退去させられた人々は事実上の強制収容所へ送られる。

 ヒコサカとその叔父の一家も、大統領令の発令から二週間もしない内に「収容所」へ送られることになった。

 

 ヒコサカは、二十二歳を迎えようとしていた。

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