第8話 失楽園(4)

 二人の間に、長い沈黙が流れた。台所からアキコの話す声が聞こえる。


「はい、ですから、品川の方で新興宗教が勝手にコミューンを作って住んでるらしいんですよ。ええ、そうです。あたしが直接見たわけじゃありません。でも、現に子供を二人も保護してるんだ。……は? 今はあたしの話はいいだろ! ……不法侵入じゃねえよ、ここはあたしの家だ!! せめて避難拒否と言え!」


 電話は難航しているようだった。渚は心配になってきた。ふと、トオルが口を開く。


「聖書は、世界中に広まってるんだよな……?」

「アキコさんは前にそう言ってたよ。聖書を信じてる人もたくさんいるって」

「さっきの俺みたいに考えた人はどれくらい居るんだろう」


 渚は小さく「わからない」と言った。


「結局、俺の考えはまだ大部分をあの大人たちに頼っているんだ。彼らを疑って出てきたのに……。大人たちを疑っても、聖書のことは正しいと思ってきた。でも……」


 トオルは言葉に詰まった。渚は静かに続きを待つ。


「でも、それも大人たちに植え付けられたものだ。俺はまだ、本当の意味で自分の考えを持てていないのかもしれない」


 また沈黙が流れた。渚は、ふと思ったことを口にしてみた。


「ちょっと距離を置いてみてもいいんじゃないかな。聖書とか、神様とか。『全部疑え』とは言わないけど、いろんな考えを知って、それから選べばいいと思う」


 トオルは少し表情を緩めて、渚の頭をなでた。


「そうかもしれない。でも、聖書の言うことが正しかったら、俺たち地獄に落ちちゃうな」


 そう言って、彼は寂しそうに笑った。渚はなぜ彼が聖書にこだわってしまうのか分かった気がした。死後の世界という、確認のしようがない場所に恐怖が置いてあるのだ。聖書に従わなければ死後苦しんでしまう。彼は子供の頃からそう教わってきたのだろう。


 トオルは、渚の頬に手を当てた。その感触は、その手の形は、どこか懐かしいものだった。彼はすこし恥ずかしそうに彼女の目を見ながら切り出した。


「あのさ……。きっと覚えてないんだろうけど、俺たち……その」


 渚は彼の目を見つめたまま続きを待つ。


「恋人……だったんだけど」

「……え?」


 渚は驚きを隠せなかった。きっと親しい間柄だったのだろうとは思っていたが、まさか恋人だったとは。彼女は、彼の顔を見るのが急に恥ずかしくなってしまった。思わず目を背ける。トオルは慌てたように手を引っ込め、申し訳無さそうに口を開く。


「ごめん……急にそんなこと言われても、困るよな」

「あ、うん……。私の方こそ、何も覚えてなくてごめんね……」


 二人が気まずくなっているところに、アキコが頭を掻きながら戻ってきた。心底苛ついているようだ。


「あー……どいつもこいつも!」

「あの、私たちのことはそんなに気にしなくても……」


 渚が声をかけるが、アキコは憤りを隠さなかった。


「そんなわけにも行かないよ。あんたら若いんだ。それに、他にも子供が十人は居るんだろ? 放っておけるもんか」


 確かにその通りだった。だが、震災で万単位の人間が被災している最中だ。十二人の子供のために本気で動ける組織がどれだけあるのだろう。おまけに、通報者であるアキコ自身が居住制限区域に不法に滞在している。



 アキコは、渚に食器洗いを頼んで再び電話をかけ始めた。トオルも渚を手伝う。台所の灰皿は、吸い殻でハリネズミのようになっていた。


「聞いてもいい……?」


 渚は食器を洗いながら、慎重に尋ねた。


「私たち、どんな感じだった? その……恋人として」


 トオルはとても寂しそうな顔をした。彼女は慌てて付け加える。


「あ、言いたくなかったらいいんだよ? あの、なんていうか……」

「仲は、良かったよ」


 彼は無理に笑顔を作って答えた。渚は申し訳なくなった。もしトオルの言うとおりなら、彼は現状に相当心を痛めているに違いない。だが、トオルはそのまま二人の思い出を語り始めた。


「俺たちは物心ついた頃から一緒にいた。『親』というのはいなかったから、施設にいる人たちが俺たちにとっての家族だった。小さい頃の俺は、よく大人の言うことにケチを付けて怒られてたな……。飯抜きにされちゃったり。でも、いつもナギサが助けてくれたんだ。こっそりパンを持ってきてくれたりとか……」


 トオルの目には、涙が浮かんでいた。それでも彼は話を止めなかった。


「ナギサはずっと俺のことが好きだったみたいだけど、俺は鈍くてさ。十四になるまで自分がナギサのことをどう思っているかも考えたことがなかった。結局、周りの奴らに勧められて、俺の方から告白したんだ」


 渚は「そうなんだ……」と言うのがやっとだった。とても悪いことをしてしまった気がした。彼は泣くのをなんとかこらえているようだった。


「俺が狩りで獲物を獲ってきたりすると、ナギサはいつも嬉しそうだった。俺は……俺はその顔が……」


 トオルはもう耐えられないようだった。目から涙がこぼれ落ちる。そして、絞りだすように、「大好きだった」と言った。渚も不思議と涙がにじんでいた。今、彼のことを何も思い出せないのが本当に悔しい。思わず彼の手を握る。


「ごめん……ごめんね」


 彼女は、ただただ謝るしかなかった。トオルは渚を抱き寄せる。


「いいんだ。ナギサが記憶を失って、信仰も失ったから、さっきみたいな話もできた。もし神様がいるんなら、俺に『考えなおせ』と言ってるんだと思う。だから……」


 彼は一旦涙を拭った。


「だからこれで良かったんだ。俺は、前の『ナギサ』も、今の『渚』も……愛してる」


 渚は、かろうじて「ありがとう」と言うのがやっとだった。



 結局、昼頃になっても二人を引き取ってくれるところは見つからないようだった。アキコは疲れきっていた。普段なら一日に五本吸うかどうかのタバコを、この午前中だけで三十本は吸っている。渚は彼女の体調が心配になった。アキコに代わって昼食の用意を引き受ける。台所には、まだタバコの煙が残っていた。

 リビングからは、トオルとアキコの話す声が聞こえてくる。


「イエス・キリスト……か。彼自身は実在したんじゃないかと思うよ。でも、イエスが神と等しき救世主だと、私は信じることが出来ない。恐ろしいカリスマ性を持った思想家、程度にしか思わないね。率直にあたしの見解を述べるならそうなる」

「なるほど。アキコさんは『神を信じないが、いないと言うつもりはない』と言いましたよね」

「ああ、だって証明しようがないだろ。『神はいる』と信じる人達が神を生み出している。それがあたしの考えだ。だが、別に支持してくれなくても構わない。あんたの自由だ」


 それからしばらく沈黙が流れた。渚はそうめんを茹でながら続きを待った。ぐつぐつとお湯が沸騰する音が台所に響く。だが、トオルはいつまで経っても何も言う気配がなかった。また、考え込んでいるのだろうか。


「まあいい。たまには気分転換に音楽でも聴こう。さすがのあたしでも、震災のニュースを聞くのはもう疲れた」


 そう言うとアキコはCDをかけ始めた。彼女のお気に入りは「はっぴいえんど」という一九七〇年代の日本のロックバンドで、特に気に入っているのはシンガーソングライター「岡林信康」とのコラボレーションだ。彼女曰く「彼の曲とはっぴいえんどのアレンジがとても合っている」のだという。


 リビングに「だからここへ来た」という曲が流れる。それは「自由を求めてここに来た。嫌なやつはもういない。誰かに寄りかからず、自分の意志で物事を決めろ」という歌だった。小気味の良いエレキギターの音が響く。

 渚は茹で終えたそうめんをリビングに運んだ。「ロック」という音楽に馴染みのないトオルは、そのサウンドと歌詞に衝撃を受けているようだった。渚が声をかける。


「トオルくん、ごはんだよ」

「あ、ごめん」


 アキコと渚が「いただきます」と言って食べ始めると、トオルも「いただきます」と言って食べ始めた。渚は驚いて尋ねる。


「お祈りはいいの?」

「いや、なんか、感謝の気持ちが現れていれば、形は何でもいいのかもしれないと思ってさ」

「そっか」


 喜んでいいのかどうか迷ったが、彼の考え方が少し柔軟になってきているのは良いことのように思えた。曲が「今日を越えて」に変わる。「今日を乗り越えて明日を生きよう」という歌だった。三人は、特に話すこと無く黙々とそうめんを食べた。


「俺は『お利口さん』過ぎたのかもしれないな」


 食事を終えた後、トオルがそうつぶやいた。肩の荷が下りたような、爽やかな微笑みを浮かべている。渚は、そっと彼の手を握って微笑み返した。

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