第6話 失楽園(3)

 トオルが黙って粥を食べている間、渚は彼の顔をずっと眺めていた。何か思い出せるのではないかと思ったからだ。だが、一向にそんな気配はなかった。頭の中の何かは、まだ音を立てて渦巻いているだけだ。

 アキコはしばらくしてから「タバコ吸ってくる」と言って部屋を出て行った。


「……『ナギサ』って呼んでもいいのかな」


 トオルは恐る恐る尋ねる。渚は彼を安心させようと、少し笑顔を作って答えた。


「うん。ほんとにたまたまだけど、アキコさんも私の事そう呼んでるの」

「そうか……。俺の顔見ても、何も思い出せないか?」


 しばし沈黙が流れる。試しに渚は前に見た夢の話をしてみた。彼の顔に、微かな希望の色が浮かんだ。


「それは、実際にあったことだ。俺たちは『神国エデン』っていうところから逃げてきたんだよ」

「神国エデン?」

「やっぱ覚えてないか……」


 トオルは再び黙りこんだ。すすんで説明する気力も無いようだった。渚がなんと声をかけるべきか悩んでいると、アキコが戻ってきた。タバコの匂いがする。トオルはちょうど粥を食べ終わったところだった。


「父なる神よ。この食事に感謝します。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」


 彼は手を組み、厳粛な雰囲気で祈りを捧げた。その敬虔さに渚は少々驚いたが、アキコは何かを確信したようだった。彼女はやや険しい表情で尋ねる。


「……やっぱりAEの子供だね?」

「AE? 『La Apostoloj de la Eternulo』のことでしょうか?」

「そう。あんたも渚も信者だったんだろ?」

「ええ……俺は今でも父なる神を信じています。でも、あの教団のことは疑ってます」

「それは、どうして?」

「彼らは人を殺しました……。俺達に『人を殺すな』と言いながら、自分たちは平気でそれを破ったんです」


 それを聞いたアキコの顔色が変わった。 


「AEが殺人? まさか! あそこはカルトなんて言われてるが、平和主義で有名なとこだ。ありえない」

「俺も……信じたくありません」


 トオルはつらそうな顔で押し黙った。そこには明らかに疲労と失望の色が浮かんでいた。アキコは一旦質問をやめ、彼にしばらく休むよう促してから食器を片付けに行った。渚はどうすべきか迷ったが、トオルの側に残ることにした。自分の正体について何か聞きたいという気持ちもあったが、単純に彼を一人にするのが心配だったのだ。彼は、体以上に心を痛めているように見えた。


「トオルくん、でいいかな?」

「……ああ、うん」


 彼女なりに親しみを込めたつもりだったが、トオルは「トオルくん」という呼び方に落胆しているようだった。渚は「しまった」と思ったが、今更「やっぱり『トオル』でいい?」と聞くのも変だ。気を取り直して尋ねてみる。


「あの、私達ってどこから来たの? さっき『神国』とか言ってたよね」

「本当に、全部忘れちゃったんだな……」


 トオルはそう言うと、自分たちの出自について話し始めた。「神の家」と呼ばれる施設で一緒に育ってきたこと。十四歳で「神国エデン」という場所の「国民」として選ばれたこと。そこがかつて「トウキョウ」という都市だったこと。教団の大人たちに不信感を抱いて逃げ出してきたこと。


「海の方は汚染されてて住めないってアキコさんに聞いたんだけど……」

「汚染? どういうことだ……俺たちは何ともなかったぞ」

「五年前に、誰かが体に悪いものを撒き散らしちゃったんだって。この辺も、今はアキコさんしか住んでないみたい」


 トオルはしばし呆然としてから、口元に手を当てて何か考え始めた。そして誰に向けるでもなくこうつぶやいた。


「タカシさんの話は……そういうことだったのか?」

「何の話?」

「神国の責任者が言ったんだ。『トウキョウの人々は神に背いて追い出された』と。でも、それが今の話のことを指しているとしたら……」


 トオルは再び黙りこんだ。真剣に何か悩んでいるようだった。口元に手を当て、眉をひそめたまま石のように固まっている。渚は、またまずいことを言ってしまったのではないかと焦った。


「あ、でもね、家の中は安全だし、この辺にちょっといるくらいじゃあんまり害はないんだよ? 私もアキコさんも元気だし……」

「いや、そういう話じゃないんだ」


 トオルは渚の言葉を遮り、またしばらく考えてからこう言った。


「可能性が二つある。一つは、その事件は神国を作るために神様が起こしたものだ、という可能性」


 そして、少し間をおいた。渚は二つ目の答えを待つ。


「もう一つは……その事件は神様の意志とは何の関係もなく、教団が勝手に『神様が土地を与えてくださった』と解釈して俺たちを連れてきた、という可能性だ」


 そこまで言うと、彼は深い溜息をついた。どちらの仮説を支持すべきか判断に迷っているようだった。

 一つ目の仮説を支持するなら、神国に関する教団の説明は正しいことになる。だが、教団には疑わしい部分があった。だからこそ抜け出してきたのだ。一方、二つ目の仮説を支持するなら、教団から教わってきたことは多くが嘘だったことになる。下手をすれば「神の教え」と言われてきたものも、大人たちが勝手にこしらえたのかもしれない。

 再び石のように固まってしまったトオルに、渚が声をかける。


「あの、教団についてはアキコさんが詳しいみたいだし、明日聞いてみたらいいんじゃないかな……? とにかく今日は休まないと、体に良くないよ」

「ああ、そうだな。ありがとう」


 彼は渚の気遣いを受け入れ、ひとまず眠ることにした。彼女も「おやすみ」と言って寝室をあとにする。リビングではアキコが先に夕食を食べていた。

 「なにか分かった?」と聞かれたので、渚はトオルに聞いた自分たちの出自について話した。アキコは「やっぱりか……」とだけ言って夕食の続きに戻った。渚は、トオルが思い悩んでいた話題については敢えて話さないことにした。明日、本人に直接語らせたほうがいいだろう。


 その日は、二階にあるアキコの寝室で一緒に寝ることにした。この家は四人家族が暮らせるように出来ているので、部屋は十分ある。一度リフォームしているらしいが、弟の部屋だけは三十年前とほぼ同じに復元してあるという。その夜、渚はあまり寝付けなかった。



 翌朝、朝食を終えると、トオルはアキコに昨日悩んでいたことを話した。彼女の答えは明快だった。


「後者を支持する。というか、前者は常識的に考えてあり得ない」

「……そうですか。ちなみにどこまでが教団の嘘だと思いますか?」

「『神国』とやらに関することは全部だね。あんたの考える一つ目の可能性も馬鹿げた妄想だよ。でも、教団の教えはキリスト教に基づいてるとこもあるから、そこは安易に否定しないよ。あたしは神を信じないけど、だからと言って『神はいない』と言うつもりもない。ちなみに、汚染の話は一切聞いてないんだね? これは確認だよ」

「はい。全く聞いていません。放射線とやらも初耳です」

「まいったね……。帰宅困難区域で野生動物を食わせたり、野菜を育てて食ったりするなんて論外だよ」


 アキコは明らかに憤慨していた。渚は、トオルと自分の健康が不安になった。今のところは何の異常もないが。


「AEがそこまで腐ってるとは想定外だ。一応警察に相談してみるけど、今は震災で手一杯だから動いてくれるかわからない。平時でも汚染区域への不法侵入を全然防げてないのに……」


 彼女はひどく苛立っていた。両腕を組み、しきりに貧乏ゆすりをする。


「病院にも連れて行ってやりたいけど、そっちの方こそ被災者の世話で大変な時だろう。内部ヒバクの検査なんて面倒なことを引き受けてもらえるかどうか……」

「あの……俺達はこれからどうしたらいいんでしょう?」


 トオルが不安げに尋ねた。アキコは、覚悟を決めたような表情で二人の方を見た。


「ひとまず、今日はかたっぱしから電話をかけてみるよ。水と食料は最低でもあと四、五日もつから、それまではあんたらの面倒を見ることもできる。教団の服はすぐに捨てたほうがいい。タカシの服が残ってるから、トオルはそれを着なさい」

「……タカシ?」

「ああ、ごめん。あたしの弟の事だよ。ミナモトタカシ」


 トオルと渚は顔を見合わせた。神国の責任者も「タカシ」だ。トオルは正直にそのことをアキコに告げた。彼女はしばらく考えてから、首を横に振った。


「やめやめ! 今は余計なことは考えない! あんたたちのことが先だよ」


 そういうと彼女は食器も片付けずに台所に行った。タバコの煙と、携帯電話で話す彼女の声が同時にリビングに届く。テレビは相変わらず震災についての報道を続けている。トオルは、被害の大きさに絶句しているようだった。


「これは……神の怒りなのか? やっぱり、これは誰かへの罰なのか……?」


 トオルのつぶやきに、渚は驚愕した。彼の思考が理解できなかった。記憶を失った彼女は、教団に刷り込まれた思想も失っていた。


「そんな……そんな言い方は無いと思う」


 思わずそう言ってしまった。トオルは少し驚いた顔をしたあと、困ったように「ごめん」と言った。渚は迷ったが、言葉を続けることにした。


「地震が神様のせいかどうかなんて、一体誰にわかるの……? それに、これが神様の与えた罰なのかどうか、あなたに判断できるの?」


 トオルはハッと何かに気がついたようだった。


「確かに……その通りだ。アキコさんは『教えを否定はしない』と言ってたけど、別に肯定もしていなかった。俺が教わってきたことは、どこまで本当だったんだろう……」


 彼の問に、渚は答えることが出来なかった。ふと、アキコの言葉が脳裏をよぎる。


「あたしは神を信じないけど、だからと言って『神はいない』と言うつもりもない」

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