第2話 失楽園(1)

 少女が目を覚ますと、周囲は闇に包まれていた。体中が痛む。動こうにも、体全体をなにか重いものに挟まれていて動けない。おまけに、ひどく空腹で喉も乾いていた。

 何が起きているのか、必死に記憶を辿ろうとする。しかし、何一つ思い出すことが出来ない。どういう経緯でこうなったのかはもちろん、自分が何者かもわからなかった。とにかく、このままでは命に関わる。

 少女は出来る限りの力を振り絞って助けを求めてみた。だが、周囲に人の気配はない。それでも諦めずに、何度も叫び続ける。声をあげるのもだんだんつらくなっていく。次第に意識も薄れてきた。危機感ばかりが募るが、とにかく叫んでみる以外に出来ることもない。

 そうこうしている内に、彼女は再び気を失っていた。


「お、気がついた」


 少女が意識を取り戻した時、彼女はどこかの民家の中でソファーに寝かされていた。声をかけてきたのは、五十代くらいの老女だ。灰色の髪を後ろで束ねている。体はまだ痛むが、傷は手当されているようだ。


「あんた、名前は? どこから来た?」


 少女はしばらく間を置いてから、か細い声で「わかりません」と答えた。老女は「やれやれ」という顔で深い溜息をついた。


「たぶん瓦礫で頭を打ったんだろう。この非常時に、厄介事が増えちまったね……」


 そう言って彼女は後ろを振り返った。その視線の先にはテレビがあり、どこかの町に大波が押し寄せてくる映像を流している。

 老女はまた溜息をついてから、少女の方を見て話し始めた。


「ここはトウキョウのオウメシ。昨日地震があったのも覚えてない?」

「……いえ」

「昨日大きな地震があって、あんたはここの向かいの家で崩れたブロック塀の下敷きになってたの。この家はかろうじて無事だけど、崩れた家も多いし、室内はあちこちめちゃめちゃ。おまけに、南カントウの沿岸部は津波であの有様さ」


 そう言って彼女は再びテレビの方を見た。字幕と音声が延々と災害情報を流している。だが、老女が口にしたものも含め、どの地名も少女には聞き覚えがなかった。


「しかし、記憶が無いとなるとますます謎が深まるね。見たところ十代後半っぽいけど、なんでそんな子がこんなところを一人でほっつき歩いていたんだか……。ここが居住制限区域だって言っても分からなそうだしねえ」


 彼女は再び深い溜息をついた。心底困っているように見える。少女には状況が全く理解できなかったが、とにかく喉が渇いていた。


「あの……水ありますか?」

「ああ、ごめんごめん。真っ先に何か飲ませるべきだったね。はい、自分で飲める?」


 老女はペットボトルに入った水を渡した。少女はなんとか力を振り絞り、自力で水を飲んだ。渇いた喉にミネラルウォーターが痛いほど染み込む。


「とりあえずおかゆでも作ってくるから、そのままテレビでも見てな。まあ、あんまり見ていたい景色でもないけどね……」


 そう言って老女は台所の方へ向かった。少女は、ぼんやりとテレビの方を見る。海から押し寄せる巨大な波が、家々を押し流していく様子が流れていた。しばらくすると、今度はあたり一面を炎に包まれた町の様子が映される。どれも上空から撮影されたものだ。続いて場面がスタジオに変わり、アナウンサーが現れた。


「昨日、午後五時五十二分に南カントウを中心に巨大地震が発生しました。これにより、各地で多数の被害が出ています。震源はカナガワケン西部とみられ、オダワラシで最大震度七を記録しています。その他の地域の震度です……」


 そんな言葉が幾度となく繰り返されている。気が滅入る放送だった。彼女は耳を塞ぎたくなったが、何が起きているのかも気になった。わからない言葉も多いが、とにかく大変なことになっているのは確かだ。


 しばらくすると、老女が粥を持ってきた。


「はい。大したもんじゃないけど、これなら食えるだろ?」

「ありがとうございます……」


 スプーンですくって口に入れると、ほのかな塩気があった。温かい。空腹だったせいもあり、やたらと美味い。少女は粥を食べ終えると、少し元気を取り戻した。とりあえず、老女に質問をしてみる。


「あの、お名前を聞いてもいいですか?」

「ああ、私はミナモトアキコ。アキコでいいよ。質問があれば何でもどうぞ」

「えーっと……。お一人で暮らしてるんですか?」

「そうだね。というか、この辺にはもうあたししか住んでないよ。さっきも言ったけど、居住制限区域だからね。ほんとは住んでちゃいけないんだ」

「居住……制限?」

「うーん……どこから説明したらいいかな。五年前にトウキョウで起きたテロのことは覚えてる?」

「テロ……? あと、『トウキョウ』っていうのもわかりません……」


 少女は申し訳無さそうに答えた。アキコと名乗る老女はまた溜息をついた。


「記憶喪失は結構ひどそうだね……。トウキョウって言うのはここの地名。五年前までこの国の首都だったところだよ」


 彼女が言うには、五年前に起きた事件によってこの辺り一帯は汚染され、本当は避難しなければならないらしい。少女は怖くなった。


「あの、ここにいて大丈夫なんでしょうか……」

「まあ『安全です』とは言えないね。もっとも、この程度の線量じゃ今すぐ何か害が出ることはないだろうけど」

「線量?」

「放射線量だよ。もしかして放射線の話からしないとだめ?」

「すいません……」

「放射線って言うのは、まあアレだ。体に浴びると良くないものだよ。目には見えないけどね。体に悪いって言っても、ある程度の量だったら心配ない」


 少女は何となくではあるが、一応状況を理解した。それにしても知らない言葉ばかりだ。


「とりあえず、事件の詳細についてはまた落ち着いてから話そう。今は休むことが先だ」


 そう言ってアキコは再びテレビを見始めた。少女は映像を見ていると気が滅入るので、目をつむって眠ることにした。



 眠っている間、少女は夢を見ていた。見知らぬ少年と手を繋いで、廃墟になった都市を歩いている。少年は特別ハンサムというわけではないが、それなりに整った顔立ちをしている。不思議と親近感が湧いた。道は次第に坂が多くなり、山間部に差し掛かっているのが分かった。気が付くと、目の前に熊がいる。熊はこちらを見ていた。少年が、少女に逃げるよう促す。

 そこで目が覚めた。


 少女は相変わらずソファーの上で寝転がっていた。テレビはまだついている。部屋の中に、何かいい香りがした。アキコが食事の用意をしているようだ。窓の外はだいぶ暗くなっている。

 皿をテーブルに並べながら、アキコが声をかけてきた。


「おはよう。まだ夕方だけどね。少しは元気になった?」

「はい……おかげさまで」

「よし。夕飯はカレーだよ。食材はよそで調達してるから、安心して食べな」


 少女は起き上がってソファーから降りた。体の痛みはまだ取れないが、いくらかましになっている。すると、アキコが何かに気づいたようだった。


「そのTシャツ、どこで手に入れた? ……と言っても覚えてないか」

「Tシャツ?」


 少女は改めて自分の服装を見た。ゆるめのジーンズと黒いTシャツ。右胸の辺りには丸みを帯びた黄色いマークと小さな文字が描かれている。

 アキコは少し考え込んでから少女に尋ねた。


「もしかしてあんた、AEの関係者か……?」

「AE?」

「まあいいよ。とにかくご飯にしよう。事件の話もしないとね」


 彼女はそう言うと、少女に席につくよう促した。アキコの作ったカレーとサラダは、疲れきった少女の体の隅々へと行き渡った。


「さて、事件のことだけど……どこから話そうかな」


 アキコは遠くを見るような目で言った。


「あれは五年前……つまり、二〇一一年の三月十一日だった。その日、キュウシュウのゲンパツから出た高レベル廃棄物をアオモリに運ぶ船が出ていたんだ」


 少女は「ゲンパツ」が何のことかわからなかったが、黙って話の続きを待った。


「ところが、だ。船は予定の進路を外れてトウキョウ湾の近くまで入ってきた。どうやら何者かが船を乗っ取ったらしい。普通そんなことはあり得ないんだけどね。厳重に警備されてるはずだから。でも、実際に船は乗っ取られた。そして、犯行グループは『船の進行を妨害すれば廃棄物ごと自爆する』と言ってきたんだ。廃棄物の管理団体は『爆破程度で中身は漏れない』と言ってたけど、政府は念のために周辺へ避難指示を出した。一般人はみんなパニックになってたよ」


 そこまで話すと、アキコは一息ついてカレーを二口ほど食べた。


「船はトウキョウ湾の内部まで入ってきた。犯行グループが何を要求してくるのか、みんな固唾を呑んで見守っていたね。でも、彼らは何も要求してこなかった。その代わり、何の前触れもなく船を爆破したんだ。どうやったのかわからないけど、彼らは廃棄物の格納容器を破壊することに成功したらしい。トウキョウ湾沿岸の放射線量は確実に上昇してた。汚染物質が風に乗って降ってきたんだ。その結果、トウキョウ、カナガワ、チバの一部が汚染され、避難区域に指定された。この辺もその一つ。政府は首都機能を移転せざるを得なくなった」


 彼女はそこまで言うと深い溜息をつき、無言でカレーを食べ始めた。ただ、少女には一つ気になることがあった。


「あの……アキコさんは避難しなくていいんですか?」

「ちょっと事情があってね。どのみちこんな歳だし、今更ヒバクを気にしたってしょうがない。まあ、あんたは若いから、あんまり長居しないほうがいいかもね。ある程度線量は下がってるけど」


 「長居しないほうがいい」と言われても、少女はどこに行けばいいのか全く検討もつかなかった。自分が誰かもわからないのだ。おまけに、大地震で混乱している時だ。記憶喪失で身寄りもない少女を引き取ってくれるところがあるようには思えない。

 そんな彼女の心情を察したのか、アキコは少し明るい調子で声をかけた。


「まあ、明日にでも児童養護施設を探そう。ここにいるよりかは、間違いなくましだからね」


 そして、ふと気がついたようにこう言った。


「あ、なんか呼び名がないと困るよね。そうだな……」


 アキコは周囲を見回し、テーブルの隅に置いてあった一冊の本に目を留めた。表紙には「渚にて」とある。


「ちょっと安易だけど『渚』でどう? 嫌なら他の候補を探そう」


 「ナギサ」という響きに、少女は何故か懐かしいものを感じた。彼女が「それでお願いします」と言うと、アキコは嬉しそうな笑みを浮かべた。


「じゃあ『渚』で決定ね。短い間になるだろうけど、よろしく」

「はい……!」


 その後、二人はしばらくテレビを眺めていた。相変わらずどの局も災害情報ばかりだ。死者、行方不明者の数はどんどん増えているようだった。

 アキコは唐突に立ち上がると、「ちょっとタバコ吸ってきていい?」と言った。


「タバコ……?」

「これに火をつけて煙を吸うんだよ。ちょっと臭うけど、台所で吸うから」


 そう言って、彼女は小さな緑色の箱から、紙で何かを細長く巻いたものを取り出した。家全体に染み付いている独特の匂いは、たぶんこれのせいなのだろう。渚と名付けられた少女は「どうぞ」と言って再びテレビを眺めた。画面には、悲惨な光景が延々と映しだされていた。

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