尚3 恋の予感



 えっと、確かこの辺りのはずなんだけど。

 もうすぐ約束の時間になるというのに、目的の喫茶店がなかなか見つけられない。

 奈都子に電話してみようか。

 歩きながら携帯を取り出そうともたついていると、人にぶつかってしまう。


「あっ、すみま……ああっ」


 よろけた拍子にパンプスのヒールが歩道の敷石に引っかかり、転倒しそうになったところで、後ろから来た人に助けられた。


「あっ、すみません」

「大丈夫ですか?」

「‼」


 こっ、この声……響君の声に似てる気が……ま、まさか、響君⁉

 ぎょっとして後ろを振り返った尚は、目を見開く。


 やっぱり似て……


 驚いた拍子にまたバランスを崩しそうになり、「おっと」と言いながら、彼は支え直してくれた。

 この人、似てるけど響君じゃない。

 響君だったら、助けた相手が私だってわかったら、こんなふうに親切にしてくれるわけがないもの。


 その結論に至り、尚は落ち着きを取り戻した。


 細身のスーツに身を包んだ男性は、とても整った顔立ちをしていた。

 引き締まった口元と、さらさらの前髪は少し目にかかっていて……


 彼の顔を穴が空きそうなほど見つめてしまっていた尚は、それと気づいて慌てて顔を伏せた。


 いやだ、私ってば、初対面の人の顔をジロジロ見るなんて。

 あっ、そうだ。大丈夫ですか、って聞かれたんだった。


「だ、だ、大丈夫です」


 うわっ、恥ずかしい。焦っているのが丸わかりだ。


「すみません、通りすがりの方にご迷惑をおかけして」


 そう言ったところで、尚は彼がずっと自分の身体を支えてくれていることに気づいた。

 私ったら、この人が響君に似ているせいで、それに気を取られてしまって……


「すっ、すみません」


 謝罪し、慌てて身を引こうとしたが、彼は心配して支えを解こうとしない。


「足首を捻っていたりは?」


 そう聞かれて、足首に鈍い痛みがあるのに気づく。

 どうもおかしなふうに捻ってしまったみたいだ。

 用心しつつ足首を動かしてみたら、やはり痛む。


「歩けますか?」


 痛みに顔をしかめたら、心配そうに聞いてくれる。

 その表情に胸がときめき、尚はそんな自分に驚いた。


 私……?


「歩けそうにないんですね?」


返事がをできずにいたら、そんなふうに言われ、尚は慌てた。


「いえ、たぶん大丈夫です。歩けます」


 思わずそう答えてしまったけれど、歩き回るのはさすがに無理な気がした。


「これから家に帰るところですか?」

「それが、友達と約束している喫茶店に向かっていたんですけど……場所がわからなくて困っていたんです」

「なんていう喫茶店ですか? ああ、でも、本当に歩けますか?」

「た、試してみます」


 尚が言うと、彼は支えてくれていた手を放した。


 捻った方の足を地面に着けると、ズキッと痛みが突き上げ、「うっ」と呻く。

 すると彼は、また支えてくれた。


「すみません」

「謝らなくてもいいですよ。そうだ、喫茶店まで付き添いましょう」

「そんなご迷惑、かけられません」

「ですが、歩けるんですか?」


 その指摘に思わず固まる。


「……あ、歩けそうにありません……ね」


 小さくなって口にしたら、それがおかしかったようで、彼がくすくす笑う。

 その笑い声が妙に胸に響く。


 私、この人のこと好きかも。

 とても自然にそう思え、尚はそんな自分にひどく驚いた。


 ……う、嘘! こんなことってあるの?

 初対面の男の人に、こんな感情を抱くなんて、響君以来だ!


 尚はおずおずとその人を見上げた。

 目が合い、呼吸を止めてしまう。


「俺の顔に、何かついてますか?」


 そう聞かれて、尚は慌てて視線を逸らした。


「ごっ、ごめんなさい」

「さっきから俺の顔をずいぶん気にしているようですが、似ている知人でもいるんですか?」


 そう口にする彼は、尚をじっと見つめてくる。

 その目を見つめ返してはいられなくなり、尚は顔を伏せた。


「じ、実はそ……」


 思わず『そうなんです』と言ってしまいそうになり、尚は慌てて口を塞いだ。


「どうしました?」

「いえ」


 この人に、似ている人がいると言いたくないし、いないという嘘もつきたくない。

 通りすがりの人で、もう二度と会うことがないとしても……


 でも、これきりにしたくないという感情が湧いてくる。


「それで、どうしますか?」


 彼は表情を変えずに聞いてくる。

 とても親切だけど、かなりクールな人みたいだ。

 あまり表情を変えないところとかも、響君と同じ……


 また、響とこの男性とを比べている自分に、尚は顔をしかめた。


 まったく、響、響って、バカじゃないの?


 心を静めて彼をまっすぐに見つめたが、目を合わせてしまうと、どうにも動揺する。


 もう、なんなの? どうしてこんなに心が乱れるの?


 尚は視線を逸らし、冷静なそぶりをして口を開いた。


「このまま喫茶店に行っても、友人に迷惑をかけるだけですし、タクシーを拾って家に帰ろうと思います」

「それなら、タクシーを拾いますよ」

「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」


 奈都子にはタクシーに乗ってから電話しよう。

 これ以上、この人に迷惑を掛けられない。


 そうは思っても、これで終わりかと思うと残念な気持ちになってしまう。

 だからといって、こちらからなんらかのアクションを起こすなんて、自分には無理だ。


 その時、尚の携帯に電話が掛かってきた。

 奈都子からだ。


「友人からです」

「そうですか。どうぞ電話に出てください。その間、支えていますから」

「す、すみません。ありがとうございます」


 恐縮しつつも、尚はその申し出に甘えることにした。


 奈都子に事情を説明したところ、迎えに来ると言ってくれたが、迷惑をかけるからと断った。

 だいたい迎えに来てもらうにしても、尚自身、ここがどこだかわかっていないのだ。


「もおっ、ようやく三須さんと尚を会わせてあげられると思ったのにぃ」


 電話口で奈都子は諦めきれないように言う。


「ごめんね。また日を改めて会わせてもらうから。三須さんに、申し訳なかったって謝っておいてね」

「わかったわ。でも、本当に大丈夫なの? タクシー、自分で拾える?」

「うん、大丈夫。それじゃあ、またね」

 

 電話を切り、尚はずっと支えてくれていた彼に顔を戻した。

 目が合い、彼の眼差しにドキドキしてしまう。


「もしかして、男性を紹介されて、会いに行くところだった、とか?」

「えっ! どうしてわかるんですか?」


 驚いて聞き返すと、彼は困ったように小さく笑う。


「日を改めて会わせてもらうとおっしゃったので……そうなのかなと」

「ああ……」


 他に反応のしようがなく、口ごもってしまう。


 男性を紹介してもらいに行くところだったのを知られるなんて、恥ずかしくてならない。


「実は俺、あなたを知っているんです」


 顔を赤らめて俯いていたら、彼がそんなことを言い出し、尚はびっくりした。


「ヒナモト照明に勤務されていますよね?」

「は、はい」


 嘘! この人、本当に私のことを知っているんだ。でも、どうして私のことを?


「お会いしたことはありませんよね? どうして私のことをご存じなんですか?」

「……実は、ヒナモト照明の近くであなたをお見かけして……それ以来、あなたのことが気になっていて。そうしたら、先ほど偶然あなたをお見かけして、思い切って声をかけてみようかと追いかけていたら、あなたが転びそうになったので……」


 こんなに素敵な人が、ほんとに私に好意を持ってくれているの?


 心臓を高鳴らせていたら、彼はひどく真面目な顔をして、口を開いた。


「不謹慎だとは思いますが……俺、あなたがここで足をくじいたこと、喜んでます」

「えっ?」

「あなたが、他の男と会うのを阻止できたから」


 彼はどこまでも淡々と口にする。

 だからこそ、彼の本気が伝わってくる。


 尚の心臓はもう、手に負えないほど暴れ回っていた。


「俺……斎賀って言います」


 斎賀さん……素敵な苗字だ。この人にぴったり。

 あっ、私も名前を名乗った方がいいわよね?


「わ、私は、相沢尚です」


 すると斎賀は、空いている方の手をすっと差し出してきた。


「この機会に親しくしていただけたら嬉しいです」


 尚は、自分でも知らぬ間に彼と握手していた。

 ぎゅっと握り締められ、胸をときめかせている自分に驚きを感じてしまう。

 いやではないどころか、もっと手を繋いでいたいとさえ思う。


 ――私、やっと響君以外の人を好きになれるのかも……


「あの、もしよろしければ、その……連絡先を交換していただけませんか?」


 躊躇いがちな申し出に、尚は迷うことなく頷いていた。


 未来が一気に明るく膨らみ、尚は泣きそうになりながら笑みを浮かべた。


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