第二十一章 二

 音を吸い込む大穴を目前に、畏怖の静寂が漂う。今や神々の中心にいるのはアストラスとアマノミヤであり、戦いに参じなかった神々が集い、一つの会合の様相を呈していた。いつの間にか神域に残っていたはずの紗久良、満津野、伊座矢と渡汰流、燐と多鹿津も姿を見せ、大神の声を待っていた。

 特に紗久良の目は希求していた。何故この時になって。足掻くものたちを踏みにじるような真似をするのか。阿多流に腕を掴まれたまま、アンバーシュもまた、声もなく崩れ落ちる。

 穿たれた穴の上で、大神は声を揃えて告げた。

「時が来た。今こそ、失われた楽園世界へ還るとき」

 父神様、と紗久良が滑り出た。

「このなさりようは、あんまりではありませんか! わたくしたちが何のために力を尽くしたか、ご存じないわけがありますまい。三番目の大神、その器たる資格を持ついちるを救うべく、多くの神が戦い、傷つき、犠牲を払ったのです。それを……それを、あの子もろとも、この地を傷付けるような形で」

「そなたは、分かっているはず。三番目を降臨させるわけにはいかなかった。ならば、依り代を滅するほかあるまい。道は定まった。この道を下り行けば、迷うことはない」

 東神の会話を聞いていたアストラスが、つとアンバーシュを見、微笑んだ。

「アガルタへの道を開く必要があるのかと問う者も多かろう。だが、神たる私たちに本能と呼べるものがあるならば、人に通じる性の他に、回帰という願望があるんだ。本当なら、この世界は巡るものであるはずだった。だが、三柱が失敗し、その機能が失われた。私たちもまた、半端なままに存在し、それぞれの欠損を抱えていた。私の耳が聞こえないのも、彼の目が見えぬのもそうだし、愛を疑い一所に留まれぬことも、得た愛を失い一所に留まり続けることもそうだ。私たちはまったき存在になりたかった。この世界のあらゆるところを感じ取る大神と呼ばれる柱であったからこそ、私たちは己の欠点を許し得なかった。元あるところへ生き、この世界をあるべく形にする。輪廻と呼ばれる回帰の存在する世界に作り直し、正す」


 私の望みは、とアストラスは晴れ晴れと言った。


「私の望みは、三柱の御許へ帰り、疑いようのない愛を得ること。アガルタで私は安息に憩うだろう。愛にも憎しみにも取り付かれることなく、穏やかに眠ることができる。永遠に」


 私の望みは、とアマノミヤは静かに言った。


「私の望みは、あの娘のいたアガルタに行くこと。この世界には悲しみが多すぎる……。あの娘の愛したものすべてが、私を苛んで止まぬ。もう疲れたのだ。アガルタで、私はあの娘の夢だけを見て眠るだろう。永久に」


 紗久良の目に涙が浮かぶ。尽くしたはずの父神の傷は深く、自分たちでは決して癒しきれなかったという後悔もあっただろう。だが、アマノミヤの喪失の悲哀はひたすらに純粋で、規則をもってはね除けた多くの神々の思いを断ち切った後悔にも染まっていた。だから彼は座を降りることにしたのだ。彼の子どもたちはそう感じた。

 アストラスはさあと神々を促した。

「私たちは大神の座を降り、アガルタに下る。道を同じくする者はともに来い!」

「アンバーシュ」

 呼ばれて顔を上げる。水の神駒が見下ろしていた。

「エリアシクル……」

「悪いが、儂は先にいく。この時を待っていたのは儂も同じじゃ。アガルタを連れて戻った時から、あの地へ行ってあの娘のために終わることを望んでいたのだから」

 その悔いが、いちるを助けることに繋がったのだろう。アンバーシュはその努力を無為にして、彼女を失っただけだった。エリアシクルの静かな佇まいが何もかもを責めているようで、顔を覆って呻く。

 別れを言うことも出来なかった。これでは繰り返しだ。後悔は悔恨に、憎しみになる。こんなことならば始めなければよかったなどと思う自分は、なんて醜いものなのか。

「さて、次の大神を選ばねばならないな。不完全な世界の、不完全な大神だが、柱がなくば崩れ落ちてしまうからな………………ん、エマ、どうした?」

 張り切った様子のアストラスの前に、無表情のフロゥディジェンマがやってきた。張りつめた顔をする珠洲流に見守られ、女神はじっと父なる神を見つめる。目をすがめた瞬間、アンバーシュはひやりとした。いちるに執着していた彼女ならば、牙を剥いてもおかしくなかったからだ。

 だが、フロゥディジェンマは顎を上げた。アストラスの目が面白そうに輝く。

 少女の両の手のひらが、西の大神に向かって突き出された。


[チョーダイ]


 重ねて、少女神は言った。


[大神ノ座、チョウダイ]


 何を言ったのか分からなかった。そのくらい、絶句した神々だった。

 大神とは、生まれ持ったもの、力の強さ、宿命に準じて選ばれるものであり、この大神たちは三柱から直接生まれた純血統の神々だ。世界を感じ、時には掻き乱し、見守る。何があろうとも、例え信仰が薄れ、旧知や子神に反旗を翻されようとも、決して敗北することなく、揺るぎなく己を保ち続ける強靭な存在だ。

 それを、飴玉をねだるように「くれ」と言う。

「…………ぶ……っ、くく、く………………ぶあっはっはっは!!」

 アストラスの大笑が響き渡る。

「くくっ、ちょうだいと来たか! なるほどなあ、お前は生まれからして規格外だったが、確かにそう言えるのはアストラスたちの中ではお前しかいないな。うん、よし分かった。やろう」

 神々が息を呑む。

「大神の座を、フロゥディジェンマに譲る。アストラスは、皆すべて光の娘フロゥディジェンマに下るよう」

 アマノミヤの視線は己の子どもたちに向けられる。

「珠洲流」

 呼ばれたのは、その末子だった。咄嗟に跪いた彼に命が下る。

「東の大神の座を、珠洲流に譲る。紗久良。阿多流。そなたたちは、これをよく導き、助けよ」

 紗久良と阿多流が頭を垂れる。珠洲流は呆気にとられたもののすぐ何かを言いかけたが、フロゥディジェンマの視線を受けて観念したように目を閉じた。

「謹んで、お受けいたします」

「父上。どうぞ、私をアガルタへお連れください」

 そこへ進み出たのは伊座矢だった。

「座を退かれても、御身は大神であったことには変わりはない。供が必要です」

「な、ならば私もお連れください!」

 並んだのは渡汰流だ。大神を見つめながら、隣の伊座矢を伺う。

「伊座矢兄上が心もとないというわけではありません。ですが、兄上にもまた、付き添いが必要かと存じます! お一人ではいささか先走るところがございますゆえ」

「渡汰流、お前」

 兄の叱責めいた呆れ声に首をすくめた弟だった。紗久良がくすくすと笑い出す。それはやがて、目尻に涙を生むほど大きくなっていく。紗久良の顔が歪み、顔を覆った。満津野が肩に手を置き、姉を支える。

 長らく姉弟であったものが、ここで別れ行くのだ。大神に近く見届けていた紗久良には、我が身を裂かれるほど辛い別れであるのは間違いなかった。

 娘の嘆きを見て、アマノミヤは息子らに尋ねた。

「よいのか。この世には二度と戻ってくる必要はないと?」

「ずっと、父上のお側にあることが私の望みでした」

 初めて見るものにするような目で、アマノミヤは我が息子を見つめた。隣に膝をついた渡汰流は、晴れがましい兄を見て泣きそうな微笑みを浮かべている。


 残る者と往く者、それぞれの立場が決まった。古い神々は大半が同道を望んだらしい。彼方から駆けてくる神獣たち、神々の見送りに出た者で、撫瑚の空はたいそう華々しく、ゆえにその終わりの静寂も予感させるものとなっていた。

 闇は彼らが連れて行くのだろう。国を取り囲む山並みの向こうから、白々とした光と、太陽の連れる色彩が迫りつつある。

 ひとつの時が終わり、ひとつの世界が区切りを付ける。長く続いた三柱と大神の世界は、次代へ継がれる。

 その中で失われた者が、自分の妻であると、認めたくない。

 アンバーシュはぎりと歯を噛み、食い入るように大神を見つめ続けた。父である神は、その憎悪を真っ向から見つめ、何が起ころうとも受け入れるために待っているのだった。

(憎い……)

 悲しい憎悪が誰に向けるべきか分からないまま、記憶の波がアンバーシュを覆い尽くす。絡んだ指を、立てられた爪を、記憶にも心にも感じる。どうして助けられなかった。否、助けられてくれなかったのか。愛すること、その喜びだけを舐めていられるわけがない。生きているのだから。

 だが、どうして彼女だったのだろう。何故、自分だったのか。

 どうして、このように作られたのだろう。永遠に咲く花はなく、永久に続く愛もない。

 この世界は、どうして。


 震える手に触れるものがあった。はっとして、アンバーシュは見た。

 フロゥディジェンマが手を握っていた。

「エマ……」

[行コ]

 立っているだけのアンバーシュをぐいぐいと引く。

[行クノ。会イニ]

「エマ、ちょっと……待ってください。何を言っているのか」

[出来ルノ。今ノ、エマ、ナラ。出来ル]

 真紅の瞳の中に、星がある。白、赤、黄、紫。彼女の内側にある力を表したもの。この少女がたった今、西の神を統べる女神になったのだと、アンバーシュは言葉もなく見つめていた。

 行こう、と女神は笑った。初めて見る、はっきりとした笑顔だった。


[行コウ、ばーしゅ!]


 手を引かれ、暗い穴を降りていく。光は徐々に失われ、真の闇がアンバーシュを包む。だというのに、導く少女がはっきりと見える。

「エマ……あなた、光ってませんか」

 問いかけつつも、不思議となるべくしてそうなのだと感じられる。横顔を見せるようにして振り返ったフロゥディジェンマは、唇をにんまりとさせて悪戯っぽく笑った。今までの彼女からは考えられない表情の豊かさだ。

[エマ、光ノ神ダヨー]

「そうでしたね」

 笑うことが出来たのは、繋いだ手が温かいからだ。いつの間にこんなにしっかりしたのだろう。フロゥディジェンマは、いつも地面からわずかに浮いているような子どもだった。周囲の声も何も、見えていない素振りで生きていた。そこには苦痛はないが喜びもない。純粋な好意も、どこか作られたもののようだった。

 だが今は、その思いを胸に抱いて、アンバーシュを導いてくれる。思いを同じくするから、手を貸してくれている。

 深い、遠い闇だ。気付けばアンバーシュは獣に変じたフロゥディジェンマの背に乗っていた。

(会いたい。イチル、あなたに)

 生まれた思いが手のうちに光を集める。高く両腕を突き上げて、アンバーシュはそれを行く先へと放った。闇がひび割れ、崩れていく。慣れ親しんだ雲海のただ中を突き進む光の女神は、進むべき方向を知っている。


 そして、見つけた。


 花に埋もれるようにして空を見上げている彼女が、目一杯に目を見開き、口をわななかせて名を呼んでいた。

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