第十六章 水の少女 四

「タリア! この前の子が来てるよ!」

 敷布のような大きな布を、水の中で揺らし、汚れを必死になって落としていると、こめかみから汗が伝ってくる。全身運動になるせいだ。天井の低い洗濯場は季節のせいもあって湿気に満ち、窓を開け放って、それぞれが袖をめくっても身体がじっとりと濡れた感覚がする。誰かがそんな大声で呼ぶので、「え?」と間の抜けた顔をして声の主を見遣った。

 にやにや顔の同僚が戸口を指す。覗いた顔に、悲鳴を飲み込んだ。

 タリアを呼んだ娘はもう少し待つように、来訪者である青い瞳の少女に言っている。大きな青い瞳が形の変わるくらいにっこりとした少女は、裾を軽やかに翻して見えなくなった。

「可愛い子だねえ。生粋の街っ子だ。山の子のあんたとは正反対だね」

 ぎくっとする。アディがじろりと睨めつけた。

「手を止めんじゃない! あの子のことは仕事が終わってからにしな」

 タリアの冷や汗が、温い汗と混じった。

 休憩となって、タリアは重い足取りで外に出た。かっと焼け付くような夏の太陽が、タリアの暗い色の髪に熱を含ませていく。

 髪を解いて走りたい、と思う。故郷である山間の村では、年頃の娘になると髪を編む。それまでは、髪を流し、裸足で駆け回ることもしばしばだった。夏でも素足で歩く山の道は冷たく心地よくて、空は高いのに近かった。村に一番近い崖には芝生のような草地があって、そこに寝転んで都に思いを馳せたものだ。

 年頃の娘になったタリアは、髪を編み、山よりも高給な仕事を得るために都に来て、洗濯女中になった。半年経った今でも故郷の、薄緑色の草や、黒い岩や、家畜の匂いや山の上で感じる夜の、星が匂いたつ張りつめた空気が恋しい。

 裾を引かれた。

 少女だった。

 にこっと微笑まれて、タリアもへらりと笑った。引きつっていないようにと祈った。

「あの……」

 呼びかけて、彼女の頬が真っ赤だと気付く。この日差しで外にいたのだ。ずいぶん暑そうだった。

 建物の影になったところに行き、壁を背に座る。少女はほっと息をついたから、やっぱりこの暑さが辛かったのだろう。白いほっぺたが熟れかけた桃のようだった。

「暑かったでしょう。待たせてごめんなさい。今日は何もないんだけど……お昼、私と半分にしたのでよければ一緒に食べる?」

 嬉しそうに頷かれ、昼食兼朝食を差し出した。この日最初に食べるものにしては慎ましい、小さな林檎が二つ。少し早いものなので完熟とまではいかない、小粒のものだ。そのうちの一つを差し出した。可愛らしい女の子の両手にある林檎は、なんだか大きなもののように映る。小さな歯でかじりつき、ぱっと顔を華やがせる。

「美味しい?」

「おいしい!」

 喋った、とタリアは目を瞬かせた。言葉を使わないのだと思っていたが今は、ふんふんと調子外れの鼻歌まで歌う、明るい少女の姿だ。この前は緊張していた、というわけではない。今の彼女は自然体で、どうすれば人と接することができるのか覚えたように感じられる。

(一日で、一ヶ月も歳を経ったみたいな……)

 少女がぱっと顔をあげた。不快になったわけではなく、気になったのだろう。今度はじいっと見上げてくるので、タリアは、何となくへらっとした。

「きょ……今日は、暑いわね。あんなに夏が待ち遠しかったのに、もう冬になればいいのにって思っちゃうわ」

 と言っても、タリアが思い描くのは故郷の冬だった。雪のせいで閉ざされる、山の村。道が見えなくなり、世界も小さく閉じ込められて、人々は家で火を焚くのだ。世界が溶けるように祈るみたいな、自分たちの世界が埋もれないようにするための優しい火を。

 じわっと涙が浮かんだ。いけないと拭う。ずいぶん心が弱くなっている。

 都周辺の人々と違い、タリアは一目で民族が違うと分かる。日に焼けて褪せた髪、濃い色の肌。髪の質まで違うらしかった。タリアの髪は固くてまるで縄のようだ。それを指摘されたくないのに、アディのような人が遠慮なしに言うのだ。あの子は山の子だ、なんて。

(それで悪いことなんて一つもないはずなのに、目を付けられるなんて、ひどい)

「――あつい?」

 さっと雨が通ったみたいな声。

 隣に人がいることを思い出す。

 真っ青な目。夏場の最も濃い、山の空の色。春に溶け出した水が溜まって映す空の色。綺麗で懐かしい色だ。真っ直ぐで、まるで自分だけに向き合ってくれているような気持ちになる。

 タリアは必死に首を振った。

「ううん……うん、ちょっと暑くて、故郷の冬が懐かしくなっただけなの。雪や、氷や、曇った空。黒い岩肌や、乾いた風が、すごく遠くて」

 帰りたくて。

 時間が巻き戻って、山を下りる前に戻れたならば、タリアは街なんて来ない。適当な誰かと結婚して、一生山に暮らす。糸を紡いで、布を織って。温かい火を絶やさずに。

 ここは、明るいけれど、タリアは一人だ。

「冬に……戻りたい」

 あの冬に。

 タリアは深く、張りつめた気持ちを緩めるように、長い息を吐いた。目尻に浮かんだ涙を拭い、かじることのなかった林檎を少女に渡した。

「……ごめんね、こんなこと言って。それ、あげる。私は仕事に行かなくちゃ。それじゃあ、ね」

 今度、の約束はしない。

 泣いたとしてもタリアはここで仕事をして、弟妹たちが十分に育つために家族に仕送りをしてやりたいし、自分で決めたことを翻すなんて格好が悪いことだった。もう少し、後少し、まだもうちょっと、頑張って、それでも嫌になったら帰ろう。絶対に温かく迎えてくれる家族のことを思うとすぐにくじけてしまいそうだったけれど、一方でちゃんと立てるのも確かだったから。



     *



 入れ違うことになった官吏がいちるに目礼をした。その者が出て行くと、いちるが呼ばれる。アンバーシュの執務室。来訪者は、用向きの程度や来訪の順に整理され、入室を促される。宮廷管理官としていちるは、国王に書類を提出し、確認事項が発生したために順番を待っていたのだった。

 室内にいたのはクロードとエルンスト。いちるの訪れを気まぐれかと思ったらしいエルンストは眉を上げたが、官服をまとっているいちるがアンバーシュに向けて書類を出すと、その表情を少し改めた。

「……補足事項は?」

「お前が気付いているのか訊きたい」

 本来ならば目を通す程度の書類にアンバーシュが尋ねたのは、いちるがここまで来た意向だ。神々の来訪、魔眸の出現などは、疑惑ほどのものまで書類を作っていては膨大な情報量になる。それらを積み上げるのではなく、たった一枚、一つの事項でいちるが来た意味を、アンバーシュが理解したのだ。

 アンバーシュは椅子を勧めた。

「気付いていましたよ。けれど報告が上がって来なかったので静観していました。その様子では官は誰も気付いていませんでしたか」

「対象は微弱な力の持ち主なのだろうと言われた。実際、城内に特に問題になっている事案はないそうだ」

「見逃しているわけではないんですが、この城の性質上、そういうものは頻繁なのでちょっと鈍感になっているのかもしれませんね。何か懸念が?」

「力を誇示したいわけではないが、いささか鈍い、と言わざるを得ない」

 クロードが苦笑した。エルンストは苦い顔だ。アンバーシュはエルンストの方を仰いだ。

「宮廷管理官の再編成は議題になっていましたね」

「はい。ただ、物になるのに最低二年はかかると争議の的です」

「細々したことを訴えるのは鬱陶しいものだと理解はする。だが、取りこぼしたことによって足場が崩れるのは好ましくない。わたし一人ならば目端を利かせよう。けれどここはそうではない」

 独断で動かせるものではない。そうすべきなら厭わぬが、いちるがすべてを抱えて守れるほどこの国は狭くはなかったし、いちるのものでもなかった。

 この世界はいちるが思ったよりも広く、どこであろうとも居場所になりうる。東の女が、西の国の王妃に据えられるごとく。

「わたしは支配がしたいわけではないのだ――今は」

「なっ……」

 至極真面目に言ったというのに、絶句したエルンストと同時に、アンバーシュが噴き出した。肩を揺らしてくつくつと笑っている。

「支配ができると断言しますか、もう、あなたって人は」

「話を変えるな」

 笑みを落としたアンバーシュは、精悍な表情で言った。

「あなた一人に背負ってもらおうなんて最初から考えていません。……分かりました。一人か二人、見繕って官に組み込みましょう。それで物になったら、議会も通りやすくなるでしょうしね」

「陛下! それはすでに議会を通ったというんです! また横暴だの色惚けだの言われてへらへら笑っているとうつけ者呼ばわりされるんですからね!? 街に下りると色惚け王だーと子どもたちが囃し立てるようになったらどうするんですか!」

「色惚けは否定しません。愛する妃からお願いなんですから、ちゃんと吟味して叶えます」

 ね、と話を向けられ、いちるの眉間に怒りが忍び寄る。怒った怒った、と小童のように囃し立てるアンバーシュは、これが触れ合いだと思っている節がある。いちるの感情の振れ幅を眺めて、触れていると思い込んでいる。手遊びと同じものだといちるは思う。向き合ってはいない。

「そういう台詞は」といちるは静かに言った。

「夜の、二人きりの時に、真剣に言え。お前は時々真剣味が足りない。だからわたしの反応も相応にする」

 傲然と顔を上げ、冷ややかな一瞥をくれてやる。

 アンバーシュはもちろん、クロードもエルンストも目を丸くした。男たちの前で踵を返し、部屋を出る。衛兵が直立していちるの去って行くのを見送っていた。廊下に出ても追ってこない。呆気にとられているのは明白。ならば、いちるは誰にも見られていないことを知って、ひっそりと笑みを噛み殺すのだった。

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