第十六章 エマの日 二

 少女が調達した食料は建物の奥の木立であっという間に食してしまった。いちるも相伴したが、砂糖をまぶした果実はいつも以上に甘く、ここしばらくそういった素朴な味を楽しんでいないことに気付かされた。

 食べ終えると、フロゥディジェンマはごろりと寝そべってうとうとし始める。いちるの膝を借りて、心地よさそうだ。木々によって日差しが遮られ、過ごしやすい。いちるも目を閉じた。

[しゃんぐりら]

「……うん?」

[エマ、しゃんぐりら、誰カ、分カル。多分]

 短く不明瞭だが、はっきりとした言葉しか使わない、その彼女が言葉を探している。

「……エマは、最初から、わたしをシャングリラと呼んでいた」

[れむ、エマノ母。れむ、エマノ、カコセイ、気付イタ。黒イ髪、目。東ノ、オ姫様。ソレハしゃんぐりら、言ッタ。エマ、会ッタ時、しゃんぐりら、分カッタ]

(レム……)

 正確な名前が分からぬが、アンバーシュの言った派閥の、古神に属する者だ。アストラスに近く、アガルタの記憶を有している者。

 フロゥディジェンマが身を起こし、いちるの膝に座って顔を覗き込む。

[エマ、しゃんぐりら、何者デモ、好キ]

 胸に顔を押し付ける。腕を回して、呟く。

[何ガアッテモ、好キ]

 その好意が在処を知らぬ過去世ゆえんであっても、小さな手がいちるをすべて抱えようとしている必死さは真実だ。この小さな身体、幼い精神に、彼女は何を知っているのだろう。預かれるものなら受け取ってやりたいが、在ることを知りながら、当の本人にも下ろし方が分からぬらしかった。いちるは少女を抱いて、うん、と言った。

 アンバーシュに抱くものとは違う、胸を締め付ける愛おしさ。安堵の内側に、彼女への甘えを感じる。この子は、いちるを絶対的に肯定する。

「わたしも、エマが好きだ。これからも、ずっとだ」


 昼寝を終えて再び一の郭へ向かう。西翼に行くと、何かの音色が聞こえてきた。張りつめた硬い弦を弾く音だ。発生源を探り当て、扉を開くと、巨大な机のようなものが鎮座している。飴色に輝くその箱の前に座っているのは、裾が垂れる詰め襟を着た白髪の。

「……ロレリア宮廷管理官」

 おや、といった様子で才媛は振り向いた。

「いつものようにエマ様がいらっしゃると思っていたのですが、王妃陛下もご一緒でいらしたのですか。ようございましたね、エマ様。お散歩の供をしていただいて」

「ここで何を?」

「月の初めにはここでこの鍵盤楽器を弾くのです。わたくしほどの腕前で僭越ですが、エマ様がお好きな楽器のようで、聴きにきてくださいます」

 箱の中を覗き込んでみると、無数の弦と槌が組合わさっている。ロレリアが動くと、内側で槌が弦を叩いた。金属を弾くのに似た、弦の音。高く澄んだ音だ。ロレリアの手元には白と黒の石が規則正しく並んでいる。場所が変わると音が変わる。なるほど、琴のようなもので、爪で弾くのではなく、仕組みを使って音を鳴らすのだ。

「何か一曲ご披露いたしましょうか」

 生憎いちるはこちらの音楽に疎い。譲ると、いつもの、と少女は言った。

 愛らしい調べは、エマによく似合っている。砂糖菓子を硝子の小瓶に詰めたようだが、部屋中に響く。あるいは、戯れに宝石を砕いていくような。曲調のせいで繊細さよりは明るさが目立つ。

 曲が終わった。手を打った。お粗末でございました、とロレリアは席を立つ。

「それでは失礼させていただきます」

「多忙だと聞いている。何か問題はありませんか」

「今のところは、何も。ご心配いただき恐縮でございます。もうあのように妃陛下に出動を要請することはないと信じたいものです」

 あの時のロレリアは必死だった。一歩間違えば隣国が滅ぶとなれば、そういう顔にもなろう。今は、疲れてはいるようだが、こうしてフロゥディジェンマに付き合うのだから余裕があるのだ。その言い方で、この古参の官僚は、いちるやアンバーシュに告げず内々に処理していることが窺えた。報告は怠っていないし、手に余ることもしていない、彼女の手腕は確かに才媛と呼ぶにふさわしい。

 ロレリアと別れ、今度はどこへ、と尋ねた。

[眠イ]と応えられたので、部屋に戻ることにした。


「そしてそのまま夕食まで昼寝ですか。優雅で羨ましいです」

「そういうお前も休養を取ったのだろう」

「残念ながら、あなたがいないのに休みでも面白くないので、急ぎでない仕事を進めてました。こういう時じゃないと遅れるので」

 そうかそれは悪いことをした、と上っ面で思い、顔を背ける。アンバーシュは椅子にもたれ、くす、と笑った。

 フロゥディジェンマは、夕食を食べ終えて長椅子の上に横になっている。やはり、いちるを側に置いてだ。思えば、彼女は食べるか寝ていることが多い。気ままに過ごして何を消耗するのだろう、それとも何もかもが街を走り回っている子どもと同じなのだろうか。

「すべきこともちゃんとしておきましたよ。はい、任命書。これ、印章。押印して提出して、おしまいです」

「なんだこれは」

 厚めの紙はすぐに傷まぬように。墨は濃く、はっきりと。重要書類であることは手触りなどで分かる。

「押し付けておいて判をつけとは詐欺師のようではないか」

「王妃の初仕事ですよ。おめでとう」

 馬鹿だ、と思ったが口に出さなかった。

 紙面には、王妃いちるを宮廷管理官総長に任ずるとある。国王の名と御璽、その下の空白に、いちるの名前と印を押せば完了する。紙面から顔をあげると、アンバーシュが肘をついて言った。

「理由が聞きたいのなら、話しましょうか?」

「ぜひとも」

「神と通じる力を持っているのが大きな理由です。宮廷管理官は最近までエマの世話を主として命じてきましたが、近頃神々にまつわる事柄が起きすぎている。能力者がいないわけではないのですが、どうも不得意という印象が強い。それで、あなたに後進の指導をしていただこうかなと」

「得意なわけではない。止むに止まれず関わることの方が多い」

「相性があります。あなたはその点、何も問題がない」

「総長というのは?」

「宮廷管理官として実歴の長いロレリアを上に据えておきたいための措置です。あなたのために作りました。あなたは、人間との相性はあまりよくないでしょう?」

 いちいちもっともらしいのが腹が立つ。否定できないのがもっと苛立つ。黙り込んだいちるに嫌なら結構ですと分かりきったことを言う。どうやったら懲らしめられるだろう。

 考えて、印章を見た。獣と星だろう彫り物がされている。

 いちるはそうして、自分の親指を噛んだ。がり、と音がして、生暖かい鉄の味が口の中に広がる。アンバーシュが、ひゅっと息を呑んだ。

「イチル!」

 その親指を任命書に押し当てる。

 突き出した。

「血判に、問題はあるか」

 鮮烈な赤が渦巻きを描いている様に、アンバーシュの目の方が回っていた。椅子から落ち、ふらりと横に傾いで、何とか留まって顔を押さえる。

「し、心臓に悪い……!」

 ふん、と鼻を鳴らす。意趣返しなのだから当然だ。

 騒ぎに気付いてフロゥディジェンマが頭を起こしていたが、再び横になって微睡む。

「お願いですから、痛いことは避けてください。治るとか治らないとか、そういう問題じゃないんです」

「聞き入れよう。さっさと書類を持っていくがいい」

 更に押し付けると、アンバーシュは膝立ちになって、いちるを見つめた。いちるはむっと黙っていたが、アンバーシュの手が噛んだ指に触れるのを許容した。傷はすでにない。常人の数倍程度というだけで重傷を負う身体だが、この程度の傷は数分すれば完治するのだ。

 そのまま目を交わし合い、アンバーシュが迫ってくるので、胸を押した。

「エマが」

「静かに」

 同時に言って、唇を合わせた。

 少女が跳ね上がったのはその時だった。

[ばーしゅ!!]

 これまでにない剣幕に固まる。少女はいちるの首に腕を回して引き倒すと、歯を剥き出しにするようにして叫んだ。

[今日ハ、エマノー!]

 降参、と不埒な男は手を挙げる。


 その夜、いちるは己の白花宮でフロゥディジェンマと眠った。寝床で微睡んでいる彼女は心底満足した様子でいる。いちるは手を伸ばして少女を抱えてやり、横になった。意識せずとも微笑みが浮かんだ。今日一日、フロゥディジェンマが窮屈な人間の姿で奮闘したのが分かったのだ。

「ゆっくりお休み。また一緒に出掛けよう」

 ぱちっ、と目が開いた。

[ヤクソク!]

 どうやら結んでしまったらしい。まあいいか、と横になり、布団をかけてやると、満足そうにフロゥディジェンマは眠りに落ちていく。いちるにとっても、いい休日になった。可愛い子を構う一日がずいぶん楽しかったのだ。

 巻き毛になった髪をゆっくりと梳いてやる。小さな唇が可愛らしい。

 そうして、なんてことはないエマの日は終わるのだった。

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