第十四章 三

 結婚式が近付く浮かれ騒ぎは貴賤を問わなかったが、特に貴族の豊楽ぶりはすごかった。結婚式翌日の、夜会という名のお披露目会で、ぜひとも目立たんと、女性は特に気合いを入れている。

 となると、結婚を据えた付き合いを望む若い令嬢たちとは別に、火遊びを目論む奥方が少なくない。王宮警護に当たる騎士たちも、冷静を言い聞かせているが騒ぎを目の当たりにして地に足がつかなくなる。逸脱はするな、あくまで壁であれ、と言うのだが、どうも効果は薄い。彼らもまた、美味しい思いをしたいのだ。

 しかし「どちらで出席する?」とエルンストがわざわざ出向いてきた時、セイラはその眼鏡をむしってやろうかと思った。

「お兄様? この部屋をご覧になって。その上で同じ台詞が言えるのならば、どうぞもう一度仰って?」

 報告書、始末書、提案書。通常の業務書類の上に、セイラが他所に回さねばならない結婚式関係のものがある。子どもが机の上に顔を出せる足場くらいの厚みがあった。ここまで紙を使うなんて信じられないことだが、この三分の一は何らかの理由で廃棄されることになるのだから、正直無駄の一言に尽きる。だが、執務に使っているセイラの部屋は、セイラが築き上げてきたすべてとも言えた。例え、紙の無駄遣いを奨励したとしても。

 引き下がると思ったエルンストは、今日に限って深々と溜め息しながら、そこに腰を落ち着けてしまった。

「ちょっと、忙しいんですのよ。勝手に座らないで」

「私も考えるところがあるのだ。もしお前が妾腹であることを引け目に感じているのだとしたら」

「お父様の気まぐれはわたくしにとって幸運でしたし、お義母様は突然出来た腹違いの娘を上手にお扱いになりましたわ。わたくしが生きるにあたって、何の邪魔もなさらなかったよく出来た方だったと思います。お兄様はわたくしをバークハード家の一員として扱われるけれど、お父様が亡くなった時点で、そしてわたくしが騎士団長に据えられた時点で、わたくしは自分がバークハードだとは思わなくなりました」

 単純に足場でした、と言った。貴族という身分は、セイラにとって破格の足がかりになった。お部屋様の拾われ子が貴族の娘だったなんて、三流小説のようだったけれど、我が身に降ったそれ幸いとセイラは必要なものを揃えさせて将来に備えた。そうして今だった。結婚したいがために剣と一緒に礼儀作法を学んだわけではない。

 ただそれらを理解しているはずのエルンストが、今更どういう気でそんなことを言い始めたのかと苛立っていた。自分たちは、お互いの利のために、相手を邪魔せずに上手くやってきたはずなのに。

「わたくしのことは放っておいてください。もう世話を焼かれる子どもではありませんの。それとも、体裁がと仰る?」

「体裁など今更だ。父がお前を連れてきた時点で私は覚悟を決めていた」

「ご立派なお兄様! お父様もさぞかしお喜びになられていることでしょう。わたくしのことよりもご自分が早くご結婚なさったら?」

「そこはきちんと考えてある。お前が心配しなくてもいい」

「心配などしていません! わたくしが言いたいのは、人の世話を焼いている暇があったらとっとと恋でもすればよろしいということ! わたくしこそずっと思っておりましたのよ、お兄様が」

 いけない、と思った時には口からこぼれ落ちる寸前だったので、あらゆるものを掻き集めて擬装した。

「お兄様が、結婚なさらないのはどうしてかと」

 嘘つき、と、誰かが言った。

 エルンストにはその声が聞こえていない。

「男はどうとでもなるものだ。私が心配なのはお前だ。いつまでも現職ではいられまい。今はイチル姫の寵をいただいているかもしれんが、あの方はいずれ神々の領域に昇る。そうなれば人の世と関わることもなくなる」

「その前にわたくしの寿命が尽きます」

「最後まで聞け。お前の言う通りかもしれん。だが、思ってもみない形で早まるのもしれん。そうなればイチル姫は準備を始めるだろう。周到な方だからな。そんな形で、お前の足下は揺らぐのだ。我々の世界は、常に揺れているのだ。アンバーシュ陛下の足下が盤石であると、誰が保証している? 大神ですら、形を定まらせぬというのに」

 だから、とエルンストは言った。

「私は、お前は結婚すべきだと思う」

 紙が吹雪のように散った。手元にある紙束を、掴めるだけ掴んで投げつけたからだった。

 腕を上げて庇ったエルンストに、扉を差す。

「出て行ってください」

「セイラ」

「わたくしの、あなたやその他大勢の者を踏みつけた上で積んできたものをそのように軽々しいものだと見ていらっしゃるのなら、わたくしは、あなたと話す価値を見出すことができません」

 顔も見たくない、と言った。今度は、誰も嘘つきとは言わなかった。

 エルンストは去り、セイラは椅子に身体を投げ出した。深い虚脱感が襲い、どうして、と唇を噛んでいた。

 あなたが言ったんじゃないの。与えたいのならば、自分のものを与えろと。そのために、わたくしは『自分のもの』と言えるものを掻き集めてきたのよ。どれだけ汚いことをやってきたのか、よく知っているくせに。最低な人。



     *



「セイラさん」と扉を開けたカレーナは驚いた声で呼んだ。セイラはそんな彼女に夕食の入った籠を押し付ける。

「すぐに戻らなくてはならないの。神官は来たかしら」

「……うん」

 ならば、ガストール氏の亡骸は無事に神殿に運ばれたのだ。

「一人で大丈夫かしら?」

「それは……慣れなくちゃ、いけないから」

「そう。食事をして、早めに休みなさい。思い出が襲ってくるかもしれないけれど、囚われてはだめよ。悪いものが寄ってくるというから」

 それじゃあ、とそこを後にする。裏街の夜の闇はなかなか濃く、じわりと湿っていた。雨雲の気配が残っている。もうすぐ夏だとは思えない冷たさだが、凍死するほどではないので辺りで転がっている酔っぱらいは跨ぎ越していく。どこかで笑い声がした。笑われているように聞こえ、汚れた石壁にそぐわない格好をした自分がどのように見えるのかを考えて、皮肉な笑みが浮かんだ。ふさわしい場所がある。誰にも。居場所さえ作れば、そこは自分のものになる。生まれや育ちにこだわる必要はない。そう思って生きてきた。

 ただ、己の魂に刻まれている性根は、やはりどこまでも卑屈で飢えた子どものままだ。エルンストの言葉に、だったらどうしろって言うんだと、怒り狂っている餓鬼がいる。

(あの人を見出してしまったのが間違いだったわ)

 夜勤の兵士に挨拶をしながら一の郭へ上がっていくと、ミザントリと出くわした。今から帰宅するところなのだという。

「お一人ですの? 送らせてしまえばよろしいのに」

「もう、騎士団長様ったら……あの方は、今は忙しいですから」

 幸せそうに頬を染めて言うが、少しでも離れていたくないのだという心の動きが感じ取れた。一晩、声が聞けなくなるだけでも寂しい。離れていた距離が急に近付いた恋人たちは、まだ適切な距離を取ることができない。

「それにしても、ずいぶん遅くまでいらしたんですのね。姫のお相手を?」

「ええ、頼まれ事があって。騎士団長様にも頼むつもりでいらしたようですけれど、忙しそうだから止めたと言っていました。心配していらしたわ。ここ数日顔色が悪いようだと」

「……気持ち悪いですわね。この数日、わたくしあの方と会っていませんのよ」

 どこで見ていたのだ。何か変な力でも使っているのではないか。気にするくらいならば少し仕事量を軽減してほしいくらいだ。

 騎士団長様、と小さく諌めたミザントリは、そうしてセイラの顔を覗き込んでふと思案げな顔をする。

「でも、本当に顔色がよくないみたい。お忙しいでしょうけれども、無理はなさらないでください。結婚式で、騎士の華々しい姿を、わたくしも楽しみにしているので」

 それでは、と別れる。そのまま行けば、イレスティン侯爵邸の迎えがミザントリを待っているはずだった。彼女が無事に道を下っていくのを見届けてから、セイラも城へ戻る。

 しかし、顔色が悪いと人に指摘されて、さすがに気になってきた。毎朝覗く鏡に映った自分が疲れている自覚はあったのだが、誰が見ても本調子ではなかったらしい。毎日泥のように眠り、溶ける方がましというくらいに汗をかいて動き回っているのだから、顔が疲れない方がおかしいのだ。

 とにかく、式さえ終われば、後処理はゆっくり出来る。それまでの辛抱だ。

 明日はガストールの葬式に出てやらなければならない。一度仮眠できるくらいには、溜まった仕事を片付けなければならなかった。

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