第十三章 三

 視線を感じてアンバーシュが振り向く。柔らかい微笑に、積み重なった疲れの影が重なって、怠惰だが艶めいた雰囲気が漂い始める。

「何か?」

「別に」

 いちるの姿をしたキッサニーナは、肘をついてつまらないと言わんばかりに目を逸らす。本人と変わらぬ瞬間と仕草に、透明な壁を隔てて見ている焦燥が生まれ始めた。アンバーシュの爪先が戻っただけで、息を呑み、詰めて、次の行動を見つめている。

 キッサニーナは近付いてきた男から逃げるようにして、眉を寄せて顔を向けないようにする。笑みをたたえたアンバーシュが、横から滑り込むようにして腰掛けた。肩に触れ、身体を寄せるが、軽い抵抗に合う。

(アンバーシュ!)

 それは違う、と叫んだ。その後は決まっている。お定まりのように、口づけが降るのだ。最初は優しく触れるだけ、その時、いちるが返すかどうかで、熱くなるか強くなるか、それとも更に優しさが増すかが変化する。

 アンバーシュの指先が黒髪を摘み、弄ぶ。キッサニーナの目は決してそれを見ないが、手は軽く男の胸を押し、添えられているかのようだ。己の姿とはいえ、他人との戯れを見せられてもはや爆発寸前だった。気色悪い。腹が立つ。今すぐ締めてやりたい。

 だというのにアンバーシュは緩く瞬きをし、そのままつと顔を寄せた。キッサニーナが仕方がない顔で力を抜く。薄く開いた唇が何かを呟くように動いた時、アンバーシュが何かを言った。

 そして、キッサニーナは動きを止めた。

「何?」

「馬鹿な真似は止めましょう、と言ったんですよ」

 キッサニーナの目が剣呑に釣り上がる。

「何が馬鹿だと、」

「その喋り方。顔。見た目。全部気に入らないので止めてください。不愉快です。よく見ないと分からなかった自分が嫌になります。キッサニーナ。いったい何をしにきたんですか? イチルを返してください」

 いちるという人間の顔が、みるみる別物に変じていった。彼女自身の表情でにんまりとしたキッサニーナは、身体を椅子に投げ出し「つまらないのー」と唇を尖らせた。

「見て分かるの? 相当ねェ、アンバーシュ」

「だから、その格好は止めてください」

 溜め息をしたキッサニーナは、瞬きの一瞬で赤髪の女に姿を戻した。今度の衣装は夜空を思わせる濃紺になり、白い肩が露になっている。折り重なって覗く布地は白や金だった。手で顎を支え、花に向かって笑いかける。

「よかったわね、イチル。アンバーシュの目がよくて」

 居場所を悟ったアンバーシュが手を伸ばし、机の上の一輪を手に取る。驚いたいちるが何か言う前に、アンバーシュが花弁に口づけた途端、ずしりと身体が重みを増した。曖昧だった五感が宿る感覚だった。胸の中に抱え込まれている己を、いちるは追いつかない視覚と触覚で実感する。

「賭けはあなたの勝ち。まあ、何となく結果は分かってたけど!」

「賭けなんてしたんですか!?」

「耳元で怒鳴るな」

 腕の中に囚われている状況が、ようやく理解に至る。夜中、お互いの間近で怒鳴り合う二人に、キッサニーナが明るい笑い声をあげた。

「大事? これ以上損なわれるのが我慢ならないくらいに」

 いちるを動かぬよう封じ込めて、アンバーシュが言う。

「用件を」

「西神を抑えておいてあげる。様子を見に来ただけのつもりだったけれど、やはり抗い難いわ。私だけというわけではなさそうね」

 話の向きが見えない。だが、よくない話だというのは直感する。口の中が乾いた。白い指先がいちるを捉える。

「私は愛を司る。ゆえに結びつきや絆というものに強く影響を受ける性質なのよ。イチルからは強い魅力を感じるわ。何かしてやりたい、喜んでもらいたい、絆を作りたいという欲求を覚える。私でそうなら、古い神は同じように感じているはずよ。イチルの生まれがそうさせるのだと思う」

 頭の後ろが痺れる感覚と共に、膝から力が抜けそうになる。望まないのに縋るようになったのを、アンバーシュが支えた。この腕が強制的な力によるものなのだと、感じてしまう己が嫌だった。

 ゆえに、衝動のままに「そんなもの」と口をついていた。

「わたしがこれを選んだ、それ以外にさして重要なことなどない」

 絶対の安全圏にいながらのそれは、どれほど弱い遠吠えだったろう。キッサニーナは猫科の獣のように丸い目を微笑ませ、中空の重なった布地の間をすり抜けるようにして、異界に足を滑り込ませる。声が遠ざかり、こだまする。

「ならば貫きなさい。果てまでも」

 そうして、愛の女神は姿を消した。したいことをし何もかも放り出して、その後のこともどこかから眺めて楽しむのだろう。翻弄されるのは神と関わる者のさだめなれど、彼女らの口にする真実は、不意をついて鋭いものばかりだった。いちるは己の肩を抱いた。

(妾の特性。魅惑の力、と呼ぶべきものが、この身には宿っているのか)

 エリアシクルを初めとした神々が好意的であったことを思い返す。エリアシクルはアガルタにまつわることあってだろう。しかし、他の神も概ね親しげだった理由が、意識しない魅惑の能力ならば、心せねばなるまい。他者の心を掴む危険性を、いちるはよく知っている。操る瞬間は甘美で、崩れるときは刹那、牙を剥くときは思いがけない。心を与えられたとしても、受ける手は小さいのだ。必要でないものの重みを感じたいとは思わない。

 いちるは男を振り仰いだ。まだ腕に囲われている。

「アンバーシュ、そろそろ離、…………」

「本当に」

 両肩を掴まれた。握りしめられる。目が、燃えていた。

「本当にあなたって人は! 己を省みない行動は慎みなさい! エンチャンティレーアが知らせなければ、危うく騙されるところでしたよ!?」

「レアが?」

 彼女はアンバーシュに好印象を持っていなかったはずだ。だが、アンバーシュはエンチャンティレーアの名を感謝を持って口にする。

「いちるをよく見ろと言うので、また何か厄介事を抱えているのかと思って来てみれば、あなたが厄介事を持ち込んだんですね。勘弁してください。エンチャンティレーアのような者ならぎりぎり認めるとしても、神はあなたの手に負えるものじゃないんです。アストラスですら持て余すのに」

 彼女の術に嵌まって、どこかの女と子を生した逸話を、アンバーシュは滔々と語ってみせた。西の大神の悪行とも思えたし、愛の女神の悪戯にしては趣味が悪い。翻弄された男女はすでにこの世にいないとしても、さすがにいちるも反省を促されざるを得なかった。キッサニーナの手に落ちていたなら、イバーマで起こったこと以上の事態がやってくるに違いなかったのだから。

「……認める。わたしが浅慮だった」

 後ほどエンチャンティレーアにも礼を言わねばならない。余程焦ったのだろう、嫌っていたらしいアンバーシュに知らせに向かったのだから。

 けれど、その動きがキッサニーナに知れていないはずがない。彼女は元より、いちるの様子を見に現れたらしかった。彼女は当分敵対する意志がなく、だが中立であると表明したと取れる。猶予を与えに来たのならば、何か理由を付けねば動けなかったのだ。そう解釈することにした。

 いちるの普段よりは素直な物言いに、アンバーシュは軽く溜め息をし、いちるの腕をそっとさすった。

「キッサニーナは約束を守ります。何か賭けをして勝ったのなら、必ず対価を与えるでしょう。でも、そういうことは怖いのでなるべくしないでください。縛るわけではないけれど、あなたは一人で戦うことが得意だから」

 頬に口づけられる。挨拶程度の軽い口づけだ。いちるがそこにいると確かめるようだった。アンバーシュの頬は熱く、ずいぶん頭に血が上っていたのだな、と思った。




[認めてあげるわ。アンバーシュがあなたをずいぶん大事に思っているらしいこと]

 翌日、首飾りを取り出した途端現れた女が言ったのがそれだった。ひどくぶっきらぼうに、不満げに言うが、もし己ならば同じような物言いをしたのかもしれぬと思ったので、微笑むに留めた。

[知らせてくれたと。礼を言う]

[あなたがいないとあたくしが困るのよ。あたくしは迷い人なのよ。道が見えないの。早く解放されたいのよ。もう思い出を振り返りたくないし、他人の幸せを羨んだりもしたくない。だから、あたくしを救った後、あなたたちなんて、幸せな毒に浸かって溺れ死んでしまえばいいのよ!]

 言い方がおかしくて、堪えきれず笑ってしまった。なるほど、それは自分たちにふさわしい終わり方だと思ったのだ。それはきっと素晴らしく幸福で、満ち足りた最後に違いない。幸せであっても、喉を焼き、肺を潰される苦しみを味わった方が幸も不幸も甘かろう。

[今回のことで分かったことがある]

[なあに]

[わたしはアンバーシュと共にありたい。出来るかぎり永く、最期の一秒までをもあの男にやりたいと思う]

 宝石に宿る影はそれを聞いて、顔を素早く逸らして引っ込んでしまった。そうして、王宮の怪異は収まることはなかったが頻度は減り、やがて、宮中の人々はその見えぬ住人に慣れてしまうほど、国は忙しく、めまぐるしく動き始めるのだった。



       *



 呼ばれた気がして、北へ駆けた。風の神々の笑い声を聞きながら、星の流れる先へと向かうと、水辺に淡い光をまとった女性の姿がある。フロゥディジェンマは、少し離れたところに降り立った。

 すると、意思に関係なく変化が勝手に解け、少女の姿になる。それは、目の前の女性がそれを望んだからだ。

 大地を伝う恵みの力。

[れむ]

 豊かな白金の髪をなびかせて、豊穣の女神クシェレムローズは微笑んで、娘に手を伸べた。フロゥディジェンマは、とことこと近づき、そのふっくらとした手で髪をかき混ぜられる。

 母と娘なのに、似ていない。クシェレムローズは泡や綿を紡いだ柔らかい光を放つ女神だが、フロゥディジェンマは銀や鉱石から切り出した鋭い光を秘めている。顔立ちもまったく違う。けれどフロゥディジェンマは、それが自分の責任であると聞かされていた。

 フロゥディジェンマは、生まれるはずではなかった神なのだ。

「わたしたちの光の娘。どうやら、少しずつ目覚め始めたようですね」

 それでも、クシェレムローズが浮かべるのは慈愛だった。

「長らく留められていた時が動き出した。あなたの止まってしまっていた時間が、あなたの望みに向けて流れています。じきに、あなたはあなたの魂に刻んでいた願いを思い出すでしょう」

[願イ]

「大切な人ができたのでしょう?」

 頷いた。

[しゃんぐりら。れむ、言った。黒イ、オ姫様]

「そう、シャングリラの娘。あなたがわたしの胎内にいた時から夢を見ていた、黒い髪と黒い瞳の娘。あなたの夢の彼女に、イチルはそっくりだわ」

 女神の両手が、フロゥディジェンマの頬を包み込む。

「生まれるはずではなかったあなた。あなたがどこから来たのか、わたしは知っている。けれど、あなたは自分の力でそこにたどり着かねばならないのです。それを成し遂げた時、あなたは我らが大神さえもしのぐものになるでしょう」

 言祝ぎを、とクシェレムローズは言って、娘の額に口付けを贈る。

「これより混迷の時が始まる――けれど、フロゥディジェンマ。あなたは、その闇を照らし、貫く、光になるのです。どうか、わたしの愛するこの世界を守ってちょうだいね」

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