第十三章 二

[止めておいた方がいいわ]言ったのはエンチャンティレーアだった。慎重にキッサニーナから距離を取りながら、神気を受けて消滅せぬよういちるの影に潜んで囁きかける。

[キッサニーナは愛の女神だけれど、駆け引きも司るのよ。そうやって戯れに、人の恋人を奪うの。彼女は美しく、愛らしくて奔放な女神。人だけでなく、神々もそうやって彼女の振り回された]

「褒めてくれてありがとう、お嬢さん。でも少し黙っておいてね。私はイチルと遊ぶのよ」

「誘いに乗る理由がございません」

 エンチャンティレーアに言われずとも、軽々しく神と取引してはならないのは常識でさえある。己の手に入らずとも、見たいから、と対価に死を求める者もこれまでいなかったわけではないのだ。いちるはエンチャンティレーアの宝石を手の中に抱えて、残念そうな微笑みを浮かべ首を振った。しかし、キッサニーナはにっこりした。

「あなたは誘いに乗るわ、イチル。私は生まれて間もない若神とは違うの。きちんと対価を支払うわ。もし私と遊んでくれたら――しばらく古神を抑えておいてあげる」

 いちるはゆっくりと微笑みを消した。

 キッサニーナの微笑みは麗しさを増し、ますます獲物を引き込もうとする。その背後の影に気付かなければ、あらゆる美辞麗句で讃えられる美しさがいちるにだけ向けられているのだった。

「あなたは時間が欲しいはず。そうでしょう?」

 どこまで知っているのか。彼女が古い神だとするならば、アストラスらと同じくアガルタの記憶の欠片を持っているはずだった。金の瞳が赤味を帯び、生き生きとした血の色を映す。その瞳が見ているのは……長き追想ではなく身近な何か。

「何をご所望か」

「物語を」

 凛として響く望み。

「いつか人が神話と呼ぶもの、美しく残酷な物語を聞かせて。あなたとアンバーシュの愛はどんな形? 惨いの? 醜いの? 愛はね、イチル、本来定まらないものなの。相手に傷を負わせることも愛だし、別れるのも愛。閉じ込めることも、奪うことも。それが道徳に反するかどうかは、人間の法に当てはめた時だけなのよ」

 私はその法に嵌まらない、とキッサニーナは囁いた。彼女の起源は、それだけ古い。人が文明を積み上げて今に至る、その遥か昔に彼女は居た。人の営みと共に彼女は在る。

 物語を欲して現れた女神を、どのように見定めるべきか思案した。彼女が強力なのは感じ取ることができる。アンバーシュが未だ来ないからだ。気配を感じさせず、敵意を発さず、ただそこにあることは困難だろう。彼女に害意はない。ただ、それが純粋な欲求のみに由縁するのかは考えどころだった。嘘をつくことが容易い神もいる。

[愛を試して善いことはないわ、イチル]

 エンチャンティレーアが引き止めようとする。傷ついた己の過去ゆえに。

[愛は不定形。ええ、女神の言うことは正しいと思う。けれど、知らない方が幸せなことだって存在するもの]

「けれどどんな形をしているか知ることは悪いことではないわ。イチルは頭のいい子だから、それがどんなものであろうと、付き合い方が判断できるでしょう?」

 そう言ってキッサニーナがいちるの自尊心をくすぐる。両の手のひらを向けて、うちに何もないことを示してみせる。

「遊び方は簡単。アンバーシュが私にキスをしたら私の勝ち。あなたにキスしたらあなたの勝ち。あなたが勝ったらあなたたちの邪魔をする者を抑えてあげる。期限は……悪いけれど、数年がいいところでしょうね」

「あなたが勝ったら?」

「私たちはあるひとつの終わりを見ることができる。アンバーシュの考えることは的を射ているわ。あなたがアンバーシュと共にあれば、様子をうかがおうとする者は大勢いるから。物語が続けば私たちはそれを楽しむことができる。終わったとしても、私たちは次なる物語を望む」

 崇高なもののように響くそれは、己のことなのかつかの間判然としなくなる、夢を見る口調だった。

「知っている? 物語は、愛が絡めば絡むほど、美しく潰えていくものなの。あなたたちのそれは、ひどく、脆く儚く、煌めきながら崩壊するでしょう」

(この女神が現れた理由は何だ?)

 疑い続けるいちるは考えを巡らせる。

(勝っても負けても、この女神が失うものはないのだろう。だが、妾に手を貸すのもやぶさかでないというからには、得るものがあるということだ。因するのは……やはりアガルタか)

 この身のどこに勝ちがあるのか。記憶もない、繋がりすら曖昧な、存在を疑うべき安息の地。いちるの知らぬところに理由があり、聞かされても理解できないと首を振るだろう。

 永久。安らかで穏やかな、緑萌ゆる大地に、いちるが手にしたいと願うものはあろうはずがない。何故なら、それはこの地上に、自分本位に存在していちるの手を取っているからだ。

「アガルタには神すら存在しない……」

 いちるの呟きに、キッサニーナは目を見張り、微笑んだ。

 すべてが平等にあるのなら、生も死も曖昧であり、上位者が存在せずに並べられているのならば。この世界の在り方全てが否定される。その場所。

「そう。だから私は、この世界こそを愛おしいと思うの。それが、あなたに少しだけ手を貸してあげる理由」

[ねえ、本当に止めておいた方がいいわ]

「女神の申し出は賭けるに値する」

 エンチャンティレーアがなおも言うが、いちるは振り向かない。

「わたしは時間が欲しい……少しでも長く」

[あのアンバーシュがあなたと同じように思っているとは限らないのよ!]

「おやおや、ひよっこアンバーシュはよっぽど信用がないみたいねェ」

 女神が手を伸べる。いちるの両手を握るほど近くに立つと、愛の女神は思ったよりも背が高い。見上げる位置に目があり、髪が宝石細工のようにきらめいている。うっすらと冷たい手が頬に触れる。優しい感触の女の手。

「『キス』が口づけを意味する言葉なのはね」

 顎を取り。

「私の名前が由来なのよ」

 頬に唇を落とした。

 次の瞬間、視界が大きく回転し、裏返しになって暗転する。エンチャンティレーアの悲鳴が聞こえたような気がしたが、いちるは心地よい暗闇の中に意識を委ねていた。

 ゆっくりと覚醒が始まった。視界に映るのは革張りの椅子。いちるが普段横になって書物を読む専用になりつつある長椅子だ。時々そこにアンバーシュが座っていることもある。その隅に見覚えのある寝間着の裾が見える。

(!?)

 目を上げると、そこに座っているのはいちる自身だった。だが、表情がひどく明るい。頬が持ち上がり、目が輝き、浮かべたこともないような笑顔をしている。

(キッサニーナ?)

「ちょっと姿を貸してね。でないと私の勝率が低すぎるんだもの」

(何をするつもりだ)

「まあまあ、落ち着いて? 危ないことはしないから大丈夫よ。ちょっと誘ってみるだけ」

 気色が悪い。いちるの姿、顔、声で、ひどく浮ついた喋り方をする。鏡に映すのとはまた違い、奪い取られたような不快感さえある。その指先がいちるのどこかを突いた。視界がぐらりと揺れる。

「可愛いお花さん。あなたが負けたら、このまま持っていこうかなァ」

 姿は花に変えられていた。花弁が細く、広く開いた形。花と呼ぶ形にしては禍々しく、赤い色彩は心和ますよりは不吉さにざわめく鮮やかさ。一輪のみで揺れると、炎が咲いたよう。天上の花と呼ばれるものだった。

「そろそろアンバーシュが来るそうだから、そこで見ていてね」

 いちるは視線を巡らせた。エンチャンティレーアは、命じられたのか姿がない。つまりいちるの不安を取り除く存在はどこにもなく、己の浅慮に頭の痛い思いはしたが、今のところ見ていることしか出来ることがなさそうだ。それに、興味がないわけではなかった。アンバーシュが、いちるでない者を見極められるかどうか。

 いちるの姿をしたキッサニーナは、その身体を確かめているようだった。襟をくつろがせ、ふむ、と呟きを漏らしている。

(……何か)

「若いっていいよねェ。肌はぴんとしてて、身体も軽くて」

 二百五十歳以上の女を若いと言ってしまうのは愛の女神だからこその感覚だ。

「胸、もうちょっと欲しい? だったら太った方がいいと思う」

(余計なお世話です)

 扉の向こうで物音がした。人の足音、話し声。近付いてくると、それらが少し遠くなり、二手に分かれるのが分かった。去った者たちとは別にこちらに近付く足音の主は決まっている。キッサニーナは表情を改め、椅子にもたれかかった。すると、そこにいるのはいちる自身のようになった。微笑みがなくなり、目に冷えた光が宿ると、己になるのだと知った。しかしやけにつまらなさそうだ。

 扉が開き、後ろに声をかけてから、一人でアンバーシュが入ってきた。上着を着ず、襟元をくつろがせながら、前髪を邪魔そうに払う。眉間に刻まれていた深い皺を、じっと目を閉じることで解消したアンバーシュは、いちるの存在を知らないかのように奥へ来て、水差しから水を注ぎ入れた。

「酒でなくていいのか」

 ぎょっとする。己が言ったのではと思ったが、キッサニーナがいちるを真似ているのだ。アンバーシュは何の疑問も感じていないらしく、顔を向けて苦笑した。

「飲みたいんですか?」

「飲むとよく眠れる」

 己の言い様はこのように響くのかと顔が歪みそうだった。案じているのがありありと分かるが、媚びることのできない不器用な言葉。よく寝て休めと、言えばいいだけだというのに。

「うーん……心惹かれるけれど、止めておきます。飲みたかったら飲んでください。気にしないので」

 そう言って寝間の扉を開ける。常と変わらず、何も感じ取っていない様子に腹が立つ。むかむかと込み上げるものを声に出さぬ忍耐で、恨みがましく男の背中を睨みつける。キッサニーナは焦ることなく、不用意に動かず、アンバーシュを気怠く見つめていた。

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