第七章 三

 深い青の湖は空を凝縮したようだ。あるいは透き通った深海の底知れぬ闇か。馬車を近くまで乗り付けると、いちるは付き添いで来ていたエシ宮廷管理官に戻ってくるまで動かぬよう告げて、真っ直ぐ湖へ突き進んでいった。

 侵入を察知していた水が、獣が唸るようにして渦を描き始めていた。名乗る前に鎌首をもたげ、いちるを一呑みにする。

 水が身体中に侵入する。耳が動かない。聖域の水だから、いちるの感覚は遮断されていた。だが不快ではない。肩を叩くような感触があって、目を見開く。青黒い闇が広がっている。

 いちるはそこに跪いた。

[もう身体は良いのか?]

[その節はお見舞いをありがとうございました。ご心配をおかけしました。この通り、動けるようになりました]

 双方ともに型をなぞる、薄いやり取りを終える。水の神駒が静かに待っているのを知りながら、いちるは言葉を選びあぐねている。だが、いちるに少し甘いこの神は「力を貸してほしいのか」と尋ねることはしてくれなかった。こと契約に関して、神は慎重だった。決して不利なものを結ぶことはない。彼らを出し抜く自慢が神話になるくらいだ。

 しばしの逡巡の後、いちるは事実を口にした。

[アンバーシュが隣国で力を奮っております。大神との取引のため、国を一つ滅ぼせという条件を提示されたそうです]

[聞いている]

[諌止すべく、お力をお貸し願えませんか]

 条件はと尋ねられると思っていた。だがエリアシクルは、静謐な口調で問いかけた。

[そなたに差し出せるものは何もないはず。それに、我が欲しいと思うものをそなたは与えられぬだろう。我が欲するは、安息。なれば、そなたの来訪も雛のアンバーシュの蛮行も、迷惑に他ならぬ]

 推してお願いします、と言うは容易い。だが、人を厭い静寂を求めて湖に腰を据えた水神と関わりを得ても、いちるはこの神を御すほどの結びつきを持たない。例えば彼に捧げられた者ならば、彼は庇護する義務が生じるかもしれない。これまでただ名を交わしただけのいちるを手助けしてくれたのは、エリアシクルの恩情に他ならなかった。

 いちるは黙した。長い静寂が横たわった。


[わたくしは]とようやく重い口を開く。

[それほどまでとは、思っていなかったのです。もう、放逐されるものだと、諦めておりました。あの男の望みを、わたくしは、叶えることができないゆえに]


 アンバーシュの望み。

 永久に添うこと。

 激しい恋情を抱きながら日々を刻むこと。

 激情と安息、その双方を求めているのは知っている。恋慕で焦がれながら、あの男は心安らぐ拠り所を求めている。だが、そのどちらもいちるは満たすことはできぬ。

 下腹の蔓を意識する。刻まれた呪印は、身体を損なう処置を施しても、完全に取り除けるかどうか。

[それでも、あの男は行きました。何故それほどまでに、わたくしに執着するか、分かりませぬ。ふさわしき女神がいましょう。半神もおりましょう。何故、わたくしなのですか。なにゆえ、捨て置かれぬのでしょうか。今更ひとりになったところで、わたくしはどうとでもなりますのに]


 闇に光が射した。

 見上げた空に差し込んだそれが、忘れられない。

 どれだけ心が満ちただろう。茫漠した問いかけに答えが与えられたと感じた、あの清々しさ。清められた、と思った。無闇と泥濘に落ち込んでいた思考が、洗い清められて真実をつかみ取った。

 ――あなたは、わたしだけの神。

 触れられた手が忘れられない。すべての形を確かめて、手のひらで包み込むような、長く、熱心な愛撫。顔の部分に触れ、無惨な髪を丁寧に梳いた。何度も口づけを落として名を囁いた。

 胸に起こるもどかしさを抑え込まなければならなかった。その夜のことを、何度も思い返し、その度に耐えている。愚かなことだ。ここにいない者に思いを馳せるだけで、胸を焦がしている己のみっともないこと。

 エリアシクルには情を訴えるつもりでいたが、こんなところまで話す必要はなかった。

 するすると近付く気配がして、頭に手を置かれた。

[意地悪をしたの。すまぬ。じゃが、そなたの気持ちが聞けてよかった。まだ少し思い込みが強いようだが、少しうぬぼれてみるがいい。何故アンバーシュがあのような行動に出るか]

 出来るわけがない。いちるは頭を振り、もう一度言った。

[ご助力いただけますか。神々に、アンバーシュを止めるためにご協力を願おうと考えております。ですがわたくしの呼びかけでは弱い。仰るように対価がございません]

[そこは交渉次第かの。正統な取引のみで動くばかりが神ではない。しかし、数を集めてどうにかなるか?]

[真っ向から戦うつもりは元よりありません。少なくともわたくしに反抗の意志があることは伝わります。それで止めねば離縁です]

 それは痛い、とエリアシクルは笑ったようだ。

[結晶宮に神々を集めるのはおやめ。人間たちが大わらわで哀れじゃ。我が宮を提供しよう。そこならば、道があるので集いやすいでな]

 結局、こうなった。本物の厚意の前には、感謝の言葉も潰えてしまう。

[……いつも、御神にはご温情をいただいて]

[ふふ、裏があると思って間違いはない。注意しておくことじゃ]






 西神について学んだことがいくつかある。

 神々と言えど、東神とはかなり在り方が異なる。西神は積極的に活動し、人と関わる。そのせいで騒動が絶えない。また、そういうところからも見えるように、気ままで、自分勝手な存在だ。

 彼らの優先事項は、守護地を守ること。座と呼ばれる役職を重んじる傾向があるのは、活動拠点がそこだからだ。ギタキロルシュやアンバーシュがそうだろう。また、特定の地域を持たない神は、求めに応じて舞い降りる。カレンミーアがそういう神だ。

 西神には古い神と若い神がいる。エリアシクルやビノンクシュトは古参だが、ナゼロフォビナやクロードは若い。どうやら知識量に差があるようだ。大神とともに時を重ねた者と、それらの子神に差があるのは当然だ。ゆえに古神は強大で、広い地を治むる。若神は次代となるために親神を補佐する。

 そうして、すべての神々が口にするのが、『物語』という代物だった。物語が好き、聞きたいといったことを口にしていたことを覚えている。それこそが交渉の種であると、いちるはその策を握りしめる。



     *



「当たれる方はすべて当たりました。強制は出来ませぬので、お声がけだけはさせていただきました。他の神々に声をかけてくださると仰せられた神にはお願いしましたが、果たして来ていただけるかどうかは分かりません」

 首尾はと尋ねたのにロレリアが答える。

 つまり芳しくはなかったのだろう。乱れた髪を自ら整えた。姿見に映したいちるは、純白のドレスに身を包んでいる。潔斎も終え、神々に目通りする条件は整えた。数日の断食で女官たちは泡を食ったようだったが、食事を絶つくらいは雑作もない。少し苦しかったのは、酒が飲めないことくらいだ。部屋から滅多に動かなかったため、倒れることもなかったが、そろそろ身体を動かす動力が切れ始めていることも確かだ。

 いちるは言った。

「失敗したなら神山に昇るだけのこと。正直時間をかけている暇はありません。あなた方はよくやってくれました」

 ティトラテスの嘆願は毎日、常に寄せられる状態だった。難民を受け入れるために諸国は奔走し、ヴェルタファレンには調停国としての義務を問いただしてくる。長くなればもう一つの調停国イバーマのオルギュット王が出てくるだろうと宮廷管理官たちは言っていた。そうなればまずいことになるとも。

 二人目の調停者であるアンバーシュと、先達のオルギュットには確執があるらしい。彼がまだ出てこないのは、アンバーシュが調停者としての役割を決定的に逸脱するのを待っているのだと周りは言っていた。オルギュットはアンバーシュを引きずり下ろしたいのだ。調停者で一国の王ならば半神。その二人の関係は何かと尋ねると、恐るべき答えが返ってきたのだが、今は忘れておく。

(アンバーシュが事を終えて戻ってくる前に)

 エリアシクルの厚意でマシェリ湖に場が用意されることになっていた。いつもは寝ているだけだという水神は、ビノンクシュトのような造りの城を持っていない。急ごしらえで空間を作り上げただけと申し訳なさそうに言われたが、恐縮せねばならないのはいちるの方だ。

 いちるは、そうして、その舞台に上がる。

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