第五章 我が扶翼

第五章 一

 振り向く。驚いたように立ちすくんだ影に、クロードは「こんばんは」と微笑みかけた。神と獣の力が混ざり合った身には、人の姿を取っていたとしても、人間には見えない聴覚や視覚で物を捉えることができるのだった。

「おやすみにならないのですか。ミザントリ様」

「……クロード様がこちらにいらっしゃるのが見えたので、わたくしこそ、そう言おうと思ってまいりましたの」

 イレスティン侯爵令嬢は、そう言ってそっと近付いてきた。まだ着替えはしておらず、肩布をかけているのを見て、クロードはいささかほっとした。夜着でやってこられたら、追い返さなければならないところだった。

 庭に面した露台には、涼しい夜風が吹いている。城壁には見張りの兵士がいるが、今夜のこの辺りは、兵士は巡回をするだけで常駐はしていない。

「アンバーシュ様からご連絡はあったのでしょう?」

「ええ。ラフディア川の館で夜を明かしてから帰ってくるそうです。姫も無事だと言っていました」

 鳥を使って知らせが来ていた。それらの言葉を聞ける人間は限られているので、クロードが突如城を空けた王について官吏たちに説明しなければならなかったのだが、これは骨が折れる仕事だった。そもそもいちるが外出したことが始まりであったし、関わったのはイレスティン侯爵令嬢とバークハード騎士団長、そこに魔眸が現れたこと、さらわれたこと、アンバーシュが救出に向かったことを、いちいち相手が驚き上げる抗議をなだめながら語らなければならなかったのだ。

 そうしてため息をついてから、ふとクロードはまじまじとミザントリを見た。

「……大丈夫ですか?」

「何がでしょう?」

「その……口さがない噂をする者がいるでしょう?」

 愛らしい目を丸くしていたミザントリは、その目を猫が笑うように細めて首を傾げた。

「確かに、状況としては奇妙でした。元妃候補と、元愛人と、現婚約者みたいな何か。アンバーシュ様にまつわる微妙な関係の三者が集まってお茶会。でもわたくし、それがぜんぜん嫌じゃなかったんです。むしろ楽しかったですわ。だって、姫を前にすると取り繕っても意味がないんですもの」

 ミザントリ・イレスティン、セイラ・バークハード、そして、いちる。三人が同席したという話は一部の者たちの好奇心をかき立てた。

 王としての在り方は問題ないアンバーシュについて、唯一といっていいほど人々が大きく騒ぎ立てるのが女性問題だ。神に名を連ねるアンバーシュは、人の王よりも結婚が不自由だ。関係は持てても、人のそれのように証をもって結びつけることができない。ヴィヴィアン・フィッツ、そしてセイラ・バークハードも、それを承知して彼の愛人の立場に甘んじていた。いちるだけが例外過ぎるのである。

 そんな微妙な関係の三人が、嫉妬と疑心に駆られ、ぎすぎすとした空気で顔を揃えているところを悪趣味に想像する者たちがいる。嘆かわしいことに複数だ。

 顔が広いミザントリは、恐らくそういった人々に哀れみと好奇で囁きかけられたことだろう。そのまま自宅に戻らせず、城の客室に滞在してもらったのだが、悪いことをしてしまったかもしれない。

 だが、彼女は気楽に笑っている。

「姫は不思議な方ですね。得体が知れなくてちょっと恐ろしいところがありますけれど、強い方です。そうでなければ、異国の地できっと自分を保つことなんてできませんわ。一緒に過ごすほど好きになってきました。儚く美しくてお優しい方でも、きりりと勇ましくお強い方でも、わたくしはきっと嫌ってしまっていました」

「姫は、どのように見えるのでしょう?」

「揺るぎない、芯の強い、厳しい方です。でもとても公平でお優しい。それに情のある方です。目の前で溺れている者が自分や近しい誰かに仇なすものでない限り、絶対にお見捨てにはならない」

 そういうところが好ましいのです、と彼女は言う。エリアシクルの件、それにミザントリにも関わるハブン子爵の件を指していた。

「子爵の件は、ミザントリ様が悪いわけではないと思いますが……」

「……全責任を負ってはいけないとは思いますが、注意してやる義務は多少なりともあると思っています」

 マシュート・ハブンは現在城に収容されて治療を受けている。魅了の術をかけられ前後不覚に陥っているが、術を解いてしばらく休ませれば後遺症はないはずだ。珠洲流と恵舟が発見してくれて助かった。

 東神が西の土地をうろつくのはあまり歓迎できないとは言え、珠洲流は力ある神だ。魔眸はフロゥディジェンマが狩っていったと聞いていたが、彼がいてくれて助かっていた。闇は、彼らを遠巻きにして、しばらくなりを潜めているだろう。

 そんな風に、魔眸が人を操って近付く例は少ないが存在している。だがそれも魔眸が強力であった昔の話で、近頃は西と東の神が住み分けているように、影たちも手を出してこなかったのだが。

 懸念を抱きつつ、表に出さぬように少女に言った。

「無茶はしないでください。それほど力の強い影なら、あなたが狙われていてもおかしくないのですから」

 ミザントリは恥じ入ったように頬を染めた。

「あの、もし、もし、そんなご迷惑をおかけすることになったら……くっ、クロード様は、わ、わたくしを助けてくださいます、か?」

 クロードは頷いた。

「もちろんですとも。救出するために力を尽くします。でも、そんな無茶をなさらず、無事でいらっしゃることが、いちばん助かります」

「そう、そうですわね。ええ! 気をつけますわ……」

 熱いのか、頬を押さえている。それを見下ろして、ふとずいぶん印象が変わっていることに気付いた。髪をあげてうなじを出し、首筋が寒そうだが、肌の白さが匂い立つようだ。まとめた髪も、大人びてよく似合っている。

「そういえば、こうして長く話しているのは初めてですね。ここしばらく城ではお見かけしていなかったので、お元気そうで何よりです。しばらく見ないうちに、またお綺麗になられて」

「う、嘘!」

「はい? 嘘は申しておりませんよ」

 急に大声を出したので、何をそんなに否定するのだろう、と首を傾げた。慌てた様子で口を押さえて辺りをはばかるミザントリは、泣きそうだ。

「綺麗になった、なんて……」

「大人っぽくなられたと、思います。髪型や服装や、お化粧も変えていらっしゃるでしょう? よくお似合いだと思ったのですが……気を悪くしたのなら、すみません」

「いいえ! いいえ……その、嬉しくて……」

 目元が赤い。朱の上った頬が、果実のように見えて、なんだか微笑ましくなってしまった。明るく快活で、自由で華やかに振る舞っているように思っていただけに、こんな本当のことで照れてしまうなんて。

(この人は、思ったより可愛いところがあるのだなあ……)

「そっ、その顔! 嫌ですわ、おからかいになったのね!」

 いいえそんな、と言ったものの、嘘ですわ嘘ですわとミザントリは身をよじって唇を曲げる。そんなところも可愛らしく思えて、クロードの笑みは収まらなかった。

「あなたのことを、小さな頃から存じ上げているので、そのように変わられていく姿を見るのが、なんだか不思議な感じがします。あたたかいような、寂しいような、嬉しいような……」

 ミザントリの目が、驚愕に見開かれる。

「……覚えて……」

「もちろんです。お小さい頃は、よく仔馬に乗っていらっしゃったようですが、最近は乗馬はされないのですね」

「えっ、あ、それは……」

 言ってから、しなくて当然か、と失言に気づいた。ほんの少し、近場にいくために乗るくらいで、人に馬の口を取ってもらうのが、貴族の女性たちの普通の乗馬なのだ。

「失礼いたしました。ご婦人に、失礼なことを言ってしまったようです」

「いいえ! ……覚えていていただけて、光栄です。やはり、主都ではそういったことは難しいので、別邸に参りますの。鶏や羊も飼っていますが、森の動物を探して歩くのが楽しいで」

「素晴らしいですね。ロッテンヒルは緑豊かな土地ですから。あの辺りは、私も好きです。よかったら、散歩でもご一緒しましょう」

 息を飲んだミザントリが、拳を握った。

「約束、してくださいますか……?」

「はい」

「絶対ですよ!」

「もちろんです。そのように興奮すると眠れなくなりますよ。さあ、もう部屋へお戻りください。アンバーシュたちが戻ってきたらお知らせしますから、安心して、夢神の歌に耳を澄まして」

 顔を真っ赤にしていたミザントリは、その言い方に唇を尖らせながら、しかし笑っていた。

「もう……分かりました。クロード様も、早くお休みなってくださいね」

「はい。いい夢を。おやすみなさい」

 おやすみなさい、と肩布を引き上げて微笑むミザントリは、露の神の娘のようだった。静かで優しい衣擦れの音を残して立ち去る。香りがただよった。クロードが慣れ親しみ、心地よく思う、自然な緑と日だまりの香りだった。思わず振り向くと、驚いて肩を跳ね上げるミザントリがいた。慌てたように裾を持ち上げて、王にするように頭を下げる。

「お、おやすみなさい……」

「おやすみ、なさい」

 右往左往としたようなやりとりを最後にしてしまい、汗をかいてしまった。ふうと息をついて、空を見る。いい月だ。月神が笑っている。夢を司る神も、穏やかな夢を贈ってくれることだろう。

 その中で、ラフディア川の館で休んでいる主が、どうか喧々と言い合いをしていませんように、と再び、切に祈った。

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