第四章 八

 そうだろう、といちるは思った。怒りも起きない。むしろ、違和感が払拭された清々しさと、荒涼とした諦めが吹き抜けた。

 気が長い、口説く、というもったいぶった台詞は迫力があったが、言葉で遊んでいる様子が否めなかった。いちるに告げているようで、己に言い聞かせていたのだろう。

 思いは偽りであり、すべては空言だった。

 何故、といちるは問おうとして、飲み込んだ。代わりに言った。

[……お前たちは似た者同士だな。どちらも表面で善い顔を取り繕い、相手の真実を汲み取っていちいち感動する。それはさぞかし美しく麗しい愛であったろうな]

 肌を刺す、大気。雷が閃くがごとく空気に走るそれは、すぐに抑えられたものの、殺気に他ならない。あからさまな挑発に、アンバーシュは目だけで怒りを訴える。せせら笑いで応じる。

[あの家の中を見れば分かる。歳を取りたくないと考えたのだな]

 滋養の薬草、美にいいとされる薬石。誰にも会うことはないだろうに身綺麗にしていた。慎ましく暮らすには無駄にも思える。だが、その甲斐あって彼女は美しかった。四十ほどだろうと目算したが、それよりもずっと若く見えていた。

 アンバーシュは退いた。何も聞いていないことにした。

「……もう休みなさい。適当に部屋を使っていいですよ。手荒にして、すみませんでした」

[逃げるのか]

「あまり挑発すると、今度こそ止めませんよ」

 本気ではなかった、わけはあるまい。あれは征服者の目だったのだから。

 身体を起こす。

[お前の傷は疼いて未だ血を流している。それはお前が惨い心を持っていないということじゃ。もちろん野蛮でも残忍でもない。ひとと変わらぬ、弱く柔い心を持っているということ。喜ばしいことだ、だからそんな顔をするでないわ]

 振り向いたアンバーシュは奇妙な顔をしていた。

「何が言いたいんです?」

[お前程度のものを残酷とは言わぬ。残酷とは血も涙もないことを言うのじゃ]

 呆気にとられた表情でアンバーシュはいちるを見る。

 ふんと鼻を鳴らした。まだ出来が悪いが、さきほどよりはましになった顔だったからだ。

[嘘をつくだけまだましよ。残忍ならば、完璧に欺く]

 露呈した嘘を「不出来」と断じたいちるに、アンバーシュが苦笑する。

「慰めてくれるんですね。かなりひどいことをした自覚はあるんですが?」

[事実しか言っておらぬ。それに、妾の中でのお前の評価が下がるだけのこと]

 アンバーシュの強ばりが溶けていく。糸のようにほどけていったそれは、いちるの視線と絡んで、結びついた。

「そうですね」

[そうだとも]

 腕を掴まれたと同じほどの確かさで、振りほどけないと感じる。

 頭上を揺れる蛍火が、花開くように輝いているように思うのは何故なのか。蔓薔薇模様の床を滑る風が、粉になった光を霧のように漂わせている原因は。

 伸ばされた手にある。

「あなたは不思議なひとだ。千年姫と呼ばれるからには、もっと純粋で頼りないか、何にも興味がないんだと想像してたんですが」

 いちるが絶対に届かない指先は、アンバーシュにするとわずか、ほんの毛先ほどを残す近さになった。触れるか触れないか。いちるが呼吸すれば気配がはっきりと肌に感ぜられる距離だ。

「とんでもなく腹が立つと思えば、今みたいにどうしようもなく優しくて、息ができなくなります。――触れても?」

 眩しさに射られた気がして目を細くする。

 答えを待たずにアンバーシュは身を乗り出していちるの頬に、手を置いた。思ったよりも穏やかな熱さだった。目を閉じる。これ以上男の目を見れば、更に絡めとられていくだろう。

[……許可した覚えはない]

「それは、すみません。――止められそうにない」

 いちるは己の失敗を悟った。すでに距離は詰められており、顎を取られ、上から覗き込まれている。鳥が雛を見るように、蛇が獲物を射すくめるように。

 口を開きかけ、動けなくなる。

 手の甲、指の節が痛くはない確かさで頬を撫で上げる。もう片方の手がいちるの右手を掴んでいる。

「冷たいと思ったのに、あなたはあたたかい」などとうそぶいて、丹念に撫でている。[詐欺師め]といちるは吐き捨てた。頬が紅潮するのはアンバーシュの触り方が他意にまみれているせいだ。

[お前の言葉、本心からではないともう知っている]

「そうかもしれない。でも、そうではないかもしれない」

 言葉遊びのような台詞は静かな告白に続く。

「俺の伴侶は、神でないかぎり例外なく俺を置いていきます。ですが神同士の恋愛はあってないようなものです。大神の管理下にあるから、必要でなければ神と神が恋をすることはない。結びついてもそれは遊びのようなものです」

[遊べばよい。妾をもてあそばずとも、お前をよく知る女神が愉悦を与えてくれるであろう]

「そうじゃない。そうでは、ないんです」

 呻くような声が言って、アンバーシュは顔を覆い、俯いた。

 その頭が、ことりといちるの肩にかかった。

「この世のすべてにおいて、我々は置いていかれます」

 アンバーシュは言う。神とは、半神の王とは、常に支配者であるもの。永く動くことはない支点としてあり続ける。

「命を見送り、死を目撃する。その繰り返し。どこまで生きるのか、どこまでそこにいるのか分からないけれど、そのうちに、自分というものが希薄になっていることが分かるんです」


 自分は今、嬉しいのか。悲しいのか。怒りを覚えているのか、それとも苦しいのか。

 気付いた時には麻痺しているのだとアンバーシュは言う。その目は、まるで自身の感情を改めているかのように沈んだ色をしていた。こうして告げていることが、悲しいのか、恥ずかしいのか、分からないというような。


「感情が、分からなくなる。生きているという実感が、消えていく……」

 呻くような、恐れを交えた呟きだ。俯いた瞳が、下からいちるを捉える。

「……俺があなたを選んだのは、あなたの思うように、その特別な存在に理由があります。でも、それだけじゃない。あなただから、選んだんです」

 弱く、突き放す。胸を押されるがままにアンバーシュは少しだけ身じろぎしただけだった。抱き寄せる気配もなかったのでそのまま容認する。声の質に動けなかったわけではない。

 だが、その言葉が耳に触れた瞬間、震える何かがいちるを縛めた。


「貰えるなら、胸を震わせるほどの――愛が、欲しい」


 触れたところから、何かの風景が流れ込んでくるのに、いちるは目を遮断した。けれど、開いた先で見つめ合う瞳が映っているのには目を覆うことができなかった。引き寄せられた先ほどと同じ二の舞は踏みたくないからだ。

「願ってもいいですか」とアンバーシュは言った。

 か弱く、小さく、その瞳の熱に反する頼りなさで。



「願っても、いいですか。あなたに。俺の側にいてほしいと。か弱くはない強さで、激しく、揺るぎなく、誰にも傷つけられることなく、立っていてくれると」



[……女に求めるのがそれとは、情けなや]

 息を吸い込む。言い捨てる。

「茶化さないでください」

 受け流され、柔い強さを帯びた声が耳朶を打つ。

「あなたは強い。けれど、弱い。あなたは力を持って、それを使う術も心得ている。でもその身体はどうしようもない。長く歩けはしないし、剣を使うこともできない。この世界で、一人では生きていけない」

「…………」

 何も持たない己を振り返った。

 身につけるもの、住むところも、名前すらすべて、他人から与えられた己。

 森の魔女と呼ばれるようになった女のように、隠遁することはできる。だがいちるの名は、西神はおろか魔眸にも届いている。いつか異能の力を持ついちるの存在を知るものが、ささやかな日々を脅かしにくるだろう。何も知らず隠れ住んでいた娘をさらった、撫瑚の者たちのように。

 だから強くあらねばならなかった。利用されぬよう、優位に立って己が傷を追うことがないよう、注意を払った。相手を押さえつけねば、安心はできなかったのだ。

[一人で生きていくことはできる。妾は最初から唯一。妾と同じ者がこの世にはいないことを知っているから]

 揺るぎなく、相手を見据える。

[東では、神は人と交わらぬ。あすこに御座すのは、生粋なる神か、人の身から仙と呼ばれるものに召し上げられたものばかり。西でも同じことだろう。西神は己の血を引く者を加護し続けていると書物に記されていた。ゆえに、人なのか別のものなのか出自が分からぬ存在はいないはず]

 沈黙は、雄弁だった。

 東でも西でも、神の血を持つものは神の知るところとなる。力が発現せぬほど血が薄まった場合は本人も知らぬことがあるというが、先祖によって神の血が混じっていると一族に伝えられ、神はそれらをすべて認識し、その者たちを庇護するものだ。


 いちるには何の神も降ってはこなかった。

 それがすべてだった。


[妾は何者でもない。それが妾が持ち得る誇り。しかしこの世のすべての型にはまらぬ妾は、どこより来たりてどこへ行くのか]

 いちるを見る天の青の瞳には、はじまりのものの血が流れている。

 ――神よ。太陽と月に産み落とされた、二柱よ。

[どうしてこのようにつくられたのか]

 答えは期待していなかった。零れたものは降る雨と同じで、形も定まらなければ取りこぼしてしまうほど曖昧なものだ。

 自嘲の息をこぼして目を逸らした。

[詮無いことを言った。忘れよ]

「俺はそれに答えをあげられる」

 何を言い出すのかと目を巡らせて、いちるはアンバーシュを見返した。

「俺に添うためです」

 眉をひそめるよりも先に、驚いた。

 何を世迷い言を言い出したのかと、まだ懲りていないのかと、様々な呆れで目を開く。

「千年生きる人でも神でもない、千年姫の話を聞いた時、その姫なら俺はひとりにされないですむのかと思ったんです。実際に会いにいった時、その辺りいる男どもよりも凛々しく勇ましかったあなたを見て、思ったから」

 雪を下敷きにした大地。新雪が、神の風に舞い上がっていた。夜の闇の色をした雲が、雷に照らされて、いちるは敵意を持って降りてこいと言った。

「あなたにする」

 西の雷霆王はそう言っていちるの眼差しを得た。

「その在り方の力強さに、俺はあなただと決めたんです。あなたが最後だ。他はもういらない。これから千年先も。あなたを最後にしたいんです」

「…………」

 嫌だ、と思った。

 この言葉に身を委ねてはいけない。透き通った海、甘い果実、ぬるく心地よいなめらかな音色、ありとあらゆる誘惑と堕落の囁きだ。

 なのにどうして、これほど胸が震えてしまうのか。

「あなたしかいない、だから愛そう、そう思ったからあなたを選んだことは否定しない。あなたに夢を見たい。最後まで俺を愛してほしい。いつまでも側にいてほしい」

 アンバーシュの声が響く。




「あなたは、俺に、永遠を教えてくれますか?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る