第四章 五

 吹きすさぶ風に生温かい影が敷かれている。術師ディセンダはこちらを覗き見た東の女がまんまと使い魔の背に揺られてやってくるのを、今か今かと待っていた。

「あれほどの力の持ち主、やはりアンバーシュなどにくれてやるのは惜しいというもの。姫は我らの側にあるこそふさわしい。ひっひっ、あの高潔であらんとする顔が歪むのが楽しみで仕方がないわ」

 異能を教え込むならもっと落とし込めばよかったものを、教育した術師は甘かったようだ。こうなったら徹底的に悪道に引き入れてしまえばいい。

「遠くのものを見聞きし、人に触れれば気の流れから心を読むこともできる。未来予知ではなかったのが残念だが、見聞きしたものから状況を汲み取り推測する知恵がある。本当に、素晴らしい」

 両の手を握りしめ、果実を握りつぶすように動かす。いびつな笑い声が、谷の隙間にひいひいと鳴く風に混ぜ合わされていく。マシュート・ハブンは虚ろな笑い声を時々あげていた。幸福な夢に漂っているのだ。そこは彼の望みが叶い、否定する者など誰もいない世界だ。

「やれ、姫を出迎えることにしよう」

 腰を上げたディセンダは、影から身を起こし、闇溜まりの谷の上に立ち上がった。その時だった。

「お、?」

 ディセンダの視界が傾いた。胴と首が離れてしまったのだ。しかしとうに人間ではなかった占い師は、くるくると回転する視界に、銀の獣が牙を剥いているのを見た。

「おのれ、抜、」

 抜かったわ、と憎悪を呟く前に、獣の前足がディセンダの頭を踏みしだく。しかしその直前、霧散した黒い影は、風に乗ってあっという間に逃げ去った。フロゥディジェンマの吠え声に恐れを成したのだった。

 獲物を逃したことに神の狼は澄んだ目を細めたが、新手の参上に首を巡らせ、顎を引いた。

「……!」

 姿を見せたのは美貌の人だった。顔の造形、色彩、雰囲気は西の者とは異なる。珠洲流の従者、恵舟は、神格の高い神の獣に敬意を表し、頭を垂れる。その後ろにまた別の者が降り立ったのを、フロゥディジェンマは尾を揺らして迎えた。

 従者に続いて姿を現した珠洲流は、こんなところに神獣がいることに驚いた顔をし、やがて静かに口を開いた。

「フェリエロゥダ神の御子フロゥディジェンマ殿とお見受けする。ご挨拶が遅れて申し訳ない。私は、東の珠洲流。御身も魔妖の気配を追ってこられたのか?」

 フロゥディジェンマはゆるりと瞬きして声を聞いている。

「……珠洲流様。下の岩の間に人がおります。少年のようです。また、白骨も散逸しております」

 喰らったか、と眉根が寄った。怨霊と化した生き物が非道に手を染めることは予測できることだが、東の地ではそういった者どもは東神によって粛正される。意志を持たぬ小物は気配が薄いために見逃してしまうが、魔に堕ちた人ならぬ者は東神の裁きが下される。ゆえに、悪逆を敷くのは魔ではなく人なのである。

 西の地は、神の在りようが違う。それが長きに渡る争いの原因のひとつであると、珠洲流は兄や姉たちから聞かされている。


[仕方ガナイ]


 澄んだ少女の声が、硬質な水晶を叩く色で響く。


[コノ世界ニ、神ハ、イナイ。我ラハ、神デハナイ]


 四つ足で立ち上がった神獣が、闇の漂う谷に銀粉を散らす。尾が流星のように長く流れ、見えぬ宙を蹴って消えた姿は、香しい輝きを残していった。

 光の欠片が消え、風と砂で荒れる谷が戻ってくる。闇の気配がそこかしこでこちらを伺っていた。珠洲流は一度目を閉じると、恵舟に、被害者の救出と、アンバーシュに報告をやるよう命じた。東の雷神に要請した、東の花嫁との面会は、どうやらこのような形で邪魔が入ることになったらしかった。

 ふと足を止める。いかがしました、と尋ねる恵舟に、いやと答えてから、呟いた。

「……神狼フロゥディジェンマ、か。――美しい神だ」



     *



「まだ、戻っていない?」

「はい。連絡も、何もなく……」

 夜中の森を駆け抜けた知らせで急行したアンバーシュは、気丈に背筋を伸ばし応対するイレスティン侯爵令嬢の言葉を聞いて、クロードと顔を見合わせた。お互い、どういうことだという当惑がある。

 闇溜まりの谷に魔眸の強い気配があって、降り立った珠洲流たちがその原因を狩るフロゥディジェンマとでくわしたと聞いたのは数分前のことだった。魔眸は逃げ去り、フロゥディジェンマも立ち去った。残ったのは術で朦朧とするマシュート・ハブン子爵と、骨の髄までしゃぶられた無惨な姿になった者たちだ。恐らく、行方不明になっていた近隣の村の者だろう。

 だが、そこにいちるはいなかった。まさか、別のところに連れ去られたというのか。その否定はレイチェルからあった。

「ハブン子爵に危害を加えられるからと仰っていました。術師が二人いるのならば離れた場所に連れ去るでしょう。しかし、術師が一人ならば、人質がいるところに呼び寄せるものではないのですか?」

「子爵が戻ったのは姫を手に入れたからとも考えられますけれども、それは違うのですわよね」

 フロゥディジェンマが狩ったのだ。戻っていないのは、また魔眸を追っていったのだろう。彼女はいちるに懐いていた。力も強い。いちるが近くにいるのなら、すぐに飛んでいって見つけ出すはずだ。

(フロゥディジェンマは戻らない。珠洲流も、イチルの姿を見ていない。レイチェルは、おそらくは術師の使い魔である異眸の馬に乗っていったと言った。なら、彼女はどこに行ったのか)

 ミザントリが口を開く。

「こんなときに質問なのですが……術師が負傷すると、使い魔も消えてしまうのでしょうか?」

「その使い魔の種類にもよりますね。魔眸の眷属として生息している生き物ならば消えることはないでしょうが、術師が一から練り上げたものは、術師の影響を強く受けるものですから」

「なら、その術師の元へ向かう途中で、その使い魔が消えてしまったというようなことはあり得ませんか」

 クロードがはっと息を呑んで、アンバーシュを見、ミザントリに賞賛の言葉を贈る。

「ご推察、お見それしました。その可能性は高い」

 ミザントリが頬を紅潮させて、いいえ、と謙遜する。

「エマに狩られて逃げたということは、向こうは出現を予期していなかったはずです。使い魔が消えて、ロッテンヒルの森へ落ちたのかもしれない」

「なら、お力を使って呼ばれるのではありませんか? 私たちほどの強さはなくとも、姫は念話が使えます。あなたか私に絞れば、『呼んでいる』という気配くらいは届くと思いますが……」

 途端、すべての者の目がアンバーシュに集中した。

 その異様なほどのしらけ具合と険悪さに、驚いて瞬きする。レイチェルすらも目を伏せてため息だ。

「ど、どうしたんですか、皆様……」

「主にお聞きなさいませ、クロード様。昔っからそういうところがある方だとは思っていたけれど、また同じことを繰り返すなんて」とセイラ。

「二の轍を踏むのはお止めになった方がよろしいかと、僭越ながらわたくしも意見を添えさせていただきます……」とミザントリ。

 激しく首を上下させているジュゼット、レイチェルは口を開かないが娘たちの言葉に賛同するような気配を漂わせている。声のない非難に、アンバーシュは額を押さえた。だが、ここで恨み言を漏らそうものなら、何十倍になって返ってくることが予想されたために、呻くことしかできなかった。

 何故なら、誰が悪いか分かっているからだ。

 そうして、身を翻す。外に出て馬車を呼び出し、手綱を握る。

「クロード。彼女たち全員を連れて城へ戻ってください。家は一度空にして。術師の気配が残っているから、また入り込まれる可能性があります。ミザントリ、宮廷管理官か神官を呼んで場を清めたらこの家に戻ってもらってけっこうです。城での差配は、レイチェル、あなたと女官長とエルンスト、三人で相談して決めて構いません。クロードは落ち着いたら捜索を開始、暇そうにそこらをうろちょろしている西神を捕まえて協力させてもいいです」

 かしこまりましたの声が重なる。

「ミザントリ。セイラ」

 呼ばれた二人の女性が背筋を正す。

「今回のことはあなたたちの責任ではない。――俺がすべて悪い」

 二人が何かを告げる前に、アンバーシュの馬車は空に駆け上がっていた。

 水面のように月の明かりを照り返さない森は、黒いうねりとなってざわめいている。漆黒の底。落とし物をすればたちまち飲み込まれ見つかることはないだろう。覗き込む者を不安にさせる暗色の世界は、星明かりの藍空がせめてもの慰みだ。

 いちるの怒りが甚だしいことは、この状況で嫌と理解した。

(それほどまでに俺を呼びたくないのか)

 腹の中にふつりと煮えるものを感じた。

 自分の考えを揺るぎなく持ち続けることができることは分かった。だが、自分やミザントリたちの気を揉ませていることを何も感じていないのではないか。

 彼女は人からの厚意に鈍すぎる。


「――俺を呼んで、イチル。言わなければならないことが山ほどあるんです」

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