春③
帰りのSHRが終わり、帰り支度をする。
「今日も勉強してくか?」
横から声をかけられてそちらを向くと、相葉が私を見ていた。今朝のことなんてなにもなかったかのように普段通りの相葉。それに小さく息を吐く。
今日は特に予定はない。頷こうとして、園田さんからのからかいを思い出す。
もしも園田さんだけじゃなくて、他の人も私たちがクリスマスに会っていたところを見ていたら? クリスマスだけじゃない。そのほかのときも、二人だけで会ってるところを見られていたら……? どこであらぬ誤解を生んでいるのか、分からない。そしてその誤解はきっと、相葉にとって迷惑なもののはずだ。
「ごめん、今日は予定あるから」
「そっか……わかった。じゃ」
ひらひらと手を振って背を向ける相葉を見送る。
「今日なにか予定あったの?」
ひょこっと私の前に出てくる彩香。
「聞いてたの?」
「聞こえてたの」
ヘラッと笑う彩香に、私も思わず気の抜けた笑みを浮かべてしまう。私は静かに首を横に振る。
「本当はないの」
「そうなんだ。じゃあ、相葉の代わりに私の勉強見てもらってもいいかな?」
「わかった」
頷いて、机の上に置いていたリュックを、手に取った。
*
「で、そこにyを代入して……」
「えーっと、そしたらここが六で……あ、解ける」
さっきまでゆっくりとノートの上を歩いていたシャープペンの先が、勢いよく駆け出して数字を並べていく。それを見てから、私も自分の勉強に手を付け始める。
ここは第二自習室。複数人で教え合いや、勉強会のようなものをするとき、誰かを待つ時間で勉強するときは、この第二を使うのがルールになっている。そのため雑談などの類ではない、静かなざわめきに満ちている。逆に向かいの第一自習室は一人で勉強するための自習室で、各机ひとつひとつに薄くてしっかりとした仕切りが設置されている。ピリッとした沈黙の中は、集中するにはもってこいだ。ちなみに、シャープペンを床に落としてしまう音一つでものすごく睨まれるのでなにかと注意が必要だったりする。
「先輩、ここは……」
「ああ、そこはね……」
何の気なしに前を向くと、先輩と呼ばれた少女が後輩と思われる少女に勉強を教えていた。漏れ聞こえてくる単語から、恐らく古典だろう。ふと去年の今頃を思い出す。
彩香の部活が終わるのを待ちながら勉強をしていた放課後。第二自習室で自習をしていたのだが、分からない問題を見つけてしまい、うんうんと唸っていたときだった。
「そこにはlessじゃなくて、moreが入るね」
「――!?」
突然聞こえてきた男子の声に、驚いて顔を上げる。そこには、明るい茶髪とグレーの瞳が特徴的な男子が立っていた。
「あの……?」
「ああ、ごめんね。ずいぶん考え込んでたみたいだから、つい声かけちゃった」
「はあ……」
無邪気に笑う先輩に、反応に困ってしまう。
「念のために言うけど、決して怪しい人じゃないからね」
「校内にそんな人が入ってたら迷わず職員室行きますよ」
「そりゃそうか」
軽く笑ってから、先輩はじっと私のノートと問題集を見る。すぐにどこかへ行くだろうと思っていた私は、予想外の行動に、首を傾げる。
「なにか?」
「いや。もしかして君、英語苦手?」
「どうしてそんなこと、訊くんですか?」
「ちょうど暇だし、苦手なら教えるくらいならできるかなって」
どう? と首を傾げられる。
「いや、いきなりそんなこと言われても……というか、なんで私が英語苦手ってわかったんですか」
確かに私は英語が苦手だ。だけど、それは彩香にさえ言ってない。だから、なんでこんな初対面の人にすぐにばれたのかが気になった。するとニッと笑みを浮かべた先輩が、トントンと問題集とノートを骨ばった指で叩く。そこはちょうど、蛍光ペンで目立つようにマークして、その周囲に他のペンで自分なりにわかりやすく解説を書き込んだところだった。
「だいぶ書き込みが多いから。もしかしてわかりづらかったり、理解しづらかったり……まあ、言ってしまえば苦手なのかなって」
「でも、書き込み多くても得意な人だっているじゃないですか」
図星を指される。でもそのまま素直になるほど、となってしまうと負けた気がして嫌だったから、言い返した。すると先輩は苦笑を浮かべる。
「得意な人だったらサラッと簡潔にまとまった書き込みになると思うんだ。でも、この書き込みはちょっと長い。理解しようとして詳しく書いてるでしょ」
もう一度図星。悔しい。
「……そうです」
唇を尖らせて降参する私に、先輩は笑う。
「んで英語だけど――」
「お、鳴海ー」
名前を呼ばれた先輩が後ろを振り向く。先輩の肩越しに竹林先生が教室の出入口から手招きをしているのが見えた。その後ろには鈴村先生もいる。先輩はチラッと私のほうを見て小さく手を振ると、先生たちのほうへと歩いていく。
「お前、ちょっと長谷川のことで頼まれてくれないか」
「別にこのあと会うんで大丈夫ですけど」
「なんだ、青春かよ」
「違いますよ、クレープ食べに行くんです」
「青春じゃねーか」
教室を出て、徐々に小さくなっていく声。
「なんだったの……」
そんな呟きが漏れてしまったのも、しょうがないと思う。
後日同じ委員会の委員長だった長谷川先輩と噂になっている先輩だということが分かり、どこかで納得をした自分がいた。
長谷川先輩と仲の良い彩香と一緒に、二人で吹奏楽部の定期演奏会へ行ったことがある。そのときに聞いた先輩のソロは、温かくて柔らかくて、春の陽だまりの中にいるような、聴いている人すべてを包み込むような、そんな温もりと優しさを感じるものだった。一言で言って、とても巧い。だからもちろん音大に進むのだとそのときは思った。このまま終わらせてしまうのが勿体ないくらいの人。だけど、それを拒み続けているのだという話を彩香から聞いて驚いた。だから二人の噂を聞いたとき、もしかして長谷川先輩は、先輩になにか見抜かれたんじゃないかと思った。例えばそう。自分の進路の悩み、とか。
だけど噂と言うものは嫌なもので、いろんなものが貼りついて回ってくる。その噂も例外ではなく、先輩の元カノやこの学校に来る前までの話がついてきた。もともと噂話は嫌いだ。確実ではないことなのに、まるで本当のことのように話す。それによって誰かが傷つくかもしれないのに。
「遥香ー」
「ん?」
「ここ、なんでlessじゃなくてmoreなの?」
彩香が指差した先にあるのは、懐かしい問題。日本語訳に沿って、英文の途中にあるカッコ内に、別の枠の中にある単語を入れて、英文を完成させるものだ。私は小さく笑う。
「no less thanは、なになにもって意味。no more thanは、なになにしかって意味。で、この日本語訳は、誕生日会なのに五人しか来なかったってなってるじゃない? 五人しか、だからlessじゃなくてmore」
「なるほど。なんか、moreって多いイメージあるから、lessと比べてなになにもって感じがするのにね」
「だからその前に否定のnoがついてるんでしょ」
「あ、そっか」
納得した様子の彩香。実は私もこのnoの存在を忘れて悩んでいたから、人のことは言えない。なんて考えながら、せっせとシャープペン走らせる彩香を見つめる。
今日は月曜日。相葉は確か五時からのシフトのはず。いつもなら学校が終わったあと、そのまま彼のバイト先までの道のりで問題の出し合いっこをする。そして彼がバイトを終えると途中までまた問題の出し合いっこをしながら一緒に帰っている。今日はそれがない。自分で拒否してしまったから。
「よし、今日の分の勉強終わり!」
問題集とノートを閉じて、帰り支度を始める彩香。私も荷物をリュックの中にしまっていく。お互いに準備ができると、一緒に自習室を後にした。
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