冬⑫
身体を揺すられる。最初はゆっくりだった振動は、徐々に早くなっていく。
「……い、おい」
「ん……」
目を開くと、ドアップで見知った顔。
「――!」
ほぼ反射的に、私は右手を勢いよく振り切っていた。
*
「……美味しい」
私の手にはお椀。その中では卵とネギが入ったおかゆが湯気を立てている。シンプルなのに、とても美味しくて、温かさが身体に沁みわたる。
「そりゃどーも」
向かいでは、相葉が赤く腫れた左頬を擦っている。
「ごめん……」
「拳で来るとは思わなかった」
「反射で……」
「お前女じゃねえ……」
そこまで言わなくてもいいと思う。だけどそれを口に出せるような立場でもないので、おかゆを口に運ぶ。
「相葉って、料理できるのね」
「まあ……ほぼ毎日作ってりゃな」
「そうなの?」
相葉は何とも言えない表情を浮かべる。
「おかゆ、食べ終わったらお椀くれ」
「いいよ、洗うのくらいは自分で――」
「一応病人だろ」
「……わかった」
黙々とおかゆを食べる。そして食べ終わったお椀を相葉に渡した。
「ちょっと話したいことがあるから、寝ずに待ってろ」
私が頷いたのを確認すると、相葉は部屋を出ていった。カチャカチャと食器を洗う音をどこか遠くに聞きながら、座布団を見る。
話したいことってなんだろうか。いろんなことが頭の中をぐるぐると回るけど、よくわからなくなって、結局またボーっと座布団を見る。
しばらくして相葉が戻ってくると、またさっきまでいた座布団に座る。
「話って?」
「……お前が知りたがってた、夏休みの話」
夏休み。きっと、一年生の頃の夏休みだ。相葉が変わってしまったきっかけになる話。
私はじっと相葉を見つめる。相葉はしばらく目を閉じたあと、口を開く。
「夏休み、母さんが死んだ」
いきなりの重い事実に、呼吸が止まる。
「事故死だった。それでも、なんとかみんなで支え合って生きていこうと思っていたら、父さんの会社が潰れた。俺には下に中学生の妹と小学生の弟がいる。だから、夏休みから学校の許可を得て俺はバイトを始めたんだ」
淡々と語っていく相葉。目は、静かに机を見ている。
「父さんは年齢も年齢だから、ちょっと再就職は厳しい感じで。今は俺と父さんでアルバイトをしつつ暮らしてる」
「もしかして、いつも寝てるのは、寝る時間がないんじゃ……」
「一応、県の条例で俺が働けるのは夜の九時までだから。だけど、父さんはいくつか掛け持ちして働いてるから、家事は俺がやってる。まあ、妹も弟も手伝ってくれてるから、比較的マシではあるかな」
「いつも何時間寝てるの」
相葉は黙っている。
「相葉?」
「一時間?」
「なんで疑問形なのよ」
「家事が一段落着いたあと、一応真面目に俺も勉強してて。でもまあ、途中で気付けば寝てるし、家族の弁当作るために朝は早めに起きてるしで、何時間寝てるとか数えたことねーし」
なるほど。なんとなくわかった。相葉がいつも寝ている理由も、アルバイトをしている理由も。
「分かってはいるんだ。授業中は寝たらダメ。きっと俺と同じような環境にいるやつでも、もっとうまくやってる奴もいる。ただ、俺はそんなに器用なほうじゃねえから、それができないんだ」
ちょっとずつ、ちょっとずつ、こぼれるようにゆっくりな呟きは、まるでどこかで必死に何かを止めているみたいに苦しげで。きっと、その何かを吐き出したほうが、相葉は楽になれるような気がした。でも、どうしたらいいのかわからない。ただ、どんどん相葉が遠くに行こうとしているような気がして、私は立ち上がって相葉の前まで行くと、膝をついて相葉を抱きしめた。
「ちょ――」
「相葉。今なら相葉のお父さんも、妹さんも、弟さんも、誰も何も聞いてない」
「何言って――」
「だから、吐き出して。大丈夫、なんでも受け入れるから」
ビクッと相葉の肩が震えたのが分かる。
「でも……」
「私は、相葉のこと、もっと知りたいから」
「……本当は、サッカー辞めたくなかった」
ポツリと、小さい震え声。浮かぶのは、休み時間も、部活中もボールを追いかけてた相葉の姿。本当に、生き生きとしてた。
「うん」
「アルバイトは、店長も他の人もいい人たちだから、好きだ。このまま今のところで就職することも考えてる」
笑顔で接客をする相葉は、確かに少し楽しそうだ。
「うん」
「でも、本当は……」
「本当は……?」
先を促す。少しの沈黙。そして。
「大学、行きたいと思ってた」
意欲のある馬鹿。そんな、ちょっと矛盾したような馬鹿が、相葉だった。私たちの通っている高校は、進学校だ。進学率はものすごくいい。もちろん入試のレベルは低くない。相葉のような、ローマ字もまともに読めない、グローバル化をグローブ化と間違える人間が入るためには、きっと相当な努力をしたに違いない。ちょっとひどいことを言えば、名前が書ければ受かるような高校もある。それなのにそれだけの努力をしたのはきっと、大学に行きたいと本気で思っていたから。
あんなにわかりやすいノートを書ける人だ。馬鹿は馬鹿だけど、勉強のコツはつかんでいるはず。そしてそのコツはきっと、高校受験のときに身に着けたもの。
「もともとは勉強なんて大嫌いだった。めんどくせーし、そんなに使う場面もないもの、なんでわざわざ学校で習うんだって。だけど受験勉強のせいで、無理矢理勉強せざるを得なくなって。改めて色々勉強を始めると段々楽しくなってきて。知らないことが知ってることに変わるのが、分からなかったことを理解できるようになるのが、面白くて。なにが学びたい、とかそういう具体的なものはない。でも、いろんなことを知りたくて。だからこの高校を選んで。高校生活の中で何を学びたいのか決めて、大学を選ぼうと思った。なのに……」
「じゃあ、一緒に大学に行こうよ」
「は?」
大学はお金がかかる。学ぶ分野や、学校によって変わるけども、基本的に高い。でも確か、授業費が免除になる学校もあったはず。ただその分条件も厳しくなるのだが。それを伝えてみる。相葉の瞳が、少しだけ輝く。
「きっと、鈴村先生だったら味方についてくれるはず。だから、とりあえず相談してみよう?」
*
数日後。鈴村先生は実際にいろいろと調べてくれた。そして、重要なことが分かった。
「とりあえず、学業が優秀じゃなきゃだね」
当たり前と言えば当たり前だが、今の学力ではそもそもとして大学に受かることすら難しい。進路指導室を後にして、私は相葉を見上げる。
「勉強、するわよね?」
「もちろん」
力強く頷く相葉。それが少し嬉しい。だから、少しだけ無理難題を投げてみる。
「ねえ、相葉」
相葉が首を傾げる。
「二月にある、特進クラスに入るための審査。受けてみない?」
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