冬⑫

 身体を揺すられる。最初はゆっくりだった振動は、徐々に早くなっていく。

「……い、おい」

「ん……」

 目を開くと、ドアップで見知った顔。

「――!」

 ほぼ反射的に、私は右手を勢いよく振り切っていた。



「……美味しい」

 私の手にはお椀。その中では卵とネギが入ったおかゆが湯気を立てている。シンプルなのに、とても美味しくて、温かさが身体に沁みわたる。

「そりゃどーも」

 向かいでは、相葉が赤く腫れた左頬を擦っている。

「ごめん……」

「拳で来るとは思わなかった」

「反射で……」

「お前女じゃねえ……」

 そこまで言わなくてもいいと思う。だけどそれを口に出せるような立場でもないので、おかゆを口に運ぶ。

「相葉って、料理できるのね」

「まあ……ほぼ毎日作ってりゃな」

「そうなの?」

 相葉は何とも言えない表情を浮かべる。

「おかゆ、食べ終わったらお椀くれ」

「いいよ、洗うのくらいは自分で――」

「一応病人だろ」

「……わかった」

 黙々とおかゆを食べる。そして食べ終わったお椀を相葉に渡した。

「ちょっと話したいことがあるから、寝ずに待ってろ」

 私が頷いたのを確認すると、相葉は部屋を出ていった。カチャカチャと食器を洗う音をどこか遠くに聞きながら、座布団を見る。

 話したいことってなんだろうか。いろんなことが頭の中をぐるぐると回るけど、よくわからなくなって、結局またボーっと座布団を見る。

 しばらくして相葉が戻ってくると、またさっきまでいた座布団に座る。

「話って?」

「……お前が知りたがってた、夏休みの話」

 夏休み。きっと、一年生の頃の夏休みだ。相葉が変わってしまったきっかけになる話。

 私はじっと相葉を見つめる。相葉はしばらく目を閉じたあと、口を開く。

「夏休み、母さんが死んだ」

 いきなりの重い事実に、呼吸が止まる。

「事故死だった。それでも、なんとかみんなで支え合って生きていこうと思っていたら、父さんの会社が潰れた。俺には下に中学生の妹と小学生の弟がいる。だから、夏休みから学校の許可を得て俺はバイトを始めたんだ」

 淡々と語っていく相葉。目は、静かに机を見ている。

「父さんは年齢も年齢だから、ちょっと再就職は厳しい感じで。今は俺と父さんでアルバイトをしつつ暮らしてる」

「もしかして、いつも寝てるのは、寝る時間がないんじゃ……」

「一応、県の条例で俺が働けるのは夜の九時までだから。だけど、父さんはいくつか掛け持ちして働いてるから、家事は俺がやってる。まあ、妹も弟も手伝ってくれてるから、比較的マシではあるかな」

「いつも何時間寝てるの」

 相葉は黙っている。

「相葉?」

「一時間?」

「なんで疑問形なのよ」

「家事が一段落着いたあと、一応真面目に俺も勉強してて。でもまあ、途中で気付けば寝てるし、家族の弁当作るために朝は早めに起きてるしで、何時間寝てるとか数えたことねーし」

 なるほど。なんとなくわかった。相葉がいつも寝ている理由も、アルバイトをしている理由も。

「分かってはいるんだ。授業中は寝たらダメ。きっと俺と同じような環境にいるやつでも、もっとうまくやってる奴もいる。ただ、俺はそんなに器用なほうじゃねえから、それができないんだ」

 ちょっとずつ、ちょっとずつ、こぼれるようにゆっくりな呟きは、まるでどこかで必死に何かを止めているみたいに苦しげで。きっと、その何かを吐き出したほうが、相葉は楽になれるような気がした。でも、どうしたらいいのかわからない。ただ、どんどん相葉が遠くに行こうとしているような気がして、私は立ち上がって相葉の前まで行くと、膝をついて相葉を抱きしめた。

「ちょ――」

「相葉。今なら相葉のお父さんも、妹さんも、弟さんも、誰も何も聞いてない」

「何言って――」

「だから、吐き出して。大丈夫、なんでも受け入れるから」

 ビクッと相葉の肩が震えたのが分かる。

「でも……」

「私は、相葉のこと、もっと知りたいから」

「……本当は、サッカー辞めたくなかった」

 ポツリと、小さい震え声。浮かぶのは、休み時間も、部活中もボールを追いかけてた相葉の姿。本当に、生き生きとしてた。

「うん」

「アルバイトは、店長も他の人もいい人たちだから、好きだ。このまま今のところで就職することも考えてる」

 笑顔で接客をする相葉は、確かに少し楽しそうだ。

「うん」

「でも、本当は……」

「本当は……?」

 先を促す。少しの沈黙。そして。

「大学、行きたいと思ってた」

 意欲のある馬鹿。そんな、ちょっと矛盾したような馬鹿が、相葉だった。私たちの通っている高校は、進学校だ。進学率はものすごくいい。もちろん入試のレベルは低くない。相葉のような、ローマ字もまともに読めない、グローバル化をグローブ化と間違える人間が入るためには、きっと相当な努力をしたに違いない。ちょっとひどいことを言えば、名前が書ければ受かるような高校もある。それなのにそれだけの努力をしたのはきっと、大学に行きたいと本気で思っていたから。

 あんなにわかりやすいノートを書ける人だ。馬鹿は馬鹿だけど、勉強のコツはつかんでいるはず。そしてそのコツはきっと、高校受験のときに身に着けたもの。

「もともとは勉強なんて大嫌いだった。めんどくせーし、そんなに使う場面もないもの、なんでわざわざ学校で習うんだって。だけど受験勉強のせいで、無理矢理勉強せざるを得なくなって。改めて色々勉強を始めると段々楽しくなってきて。知らないことが知ってることに変わるのが、分からなかったことを理解できるようになるのが、面白くて。なにが学びたい、とかそういう具体的なものはない。でも、いろんなことを知りたくて。だからこの高校を選んで。高校生活の中で何を学びたいのか決めて、大学を選ぼうと思った。なのに……」

「じゃあ、一緒に大学に行こうよ」

「は?」

 大学はお金がかかる。学ぶ分野や、学校によって変わるけども、基本的に高い。でも確か、授業費が免除になる学校もあったはず。ただその分条件も厳しくなるのだが。それを伝えてみる。相葉の瞳が、少しだけ輝く。

「きっと、鈴村先生だったら味方についてくれるはず。だから、とりあえず相談してみよう?」



 数日後。鈴村先生は実際にいろいろと調べてくれた。そして、重要なことが分かった。

「とりあえず、学業が優秀じゃなきゃだね」

 当たり前と言えば当たり前だが、今の学力ではそもそもとして大学に受かることすら難しい。進路指導室を後にして、私は相葉を見上げる。

「勉強、するわよね?」

「もちろん」

 力強く頷く相葉。それが少し嬉しい。だから、少しだけ無理難題を投げてみる。

「ねえ、相葉」

 相葉が首を傾げる。

「二月にある、特進クラスに入るための審査。受けてみない?」

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