春⑩
「社会教材室ってここ?」
「うん」
私は頷くと、ドアを開いた。カビと埃の匂いが私たちを出迎える。
「置いとくのはここらへんでいいかな」
「うん、ありがとう」
「いえいえ」
鳴海君は棚の上に教材を置いていく。結局女の子に物は持たせられないとか何とかで、鳴海君が教材を全部持ち運んでくれた。気まずいけども、流石に悪いから手伝うと言った私に、じゃあその代わりに社会教材室のドアを開けてほしい、と大量の教材で塞がっている両手を見せながら、鳴海君は笑った。
「よし、これで終わり――で?」
「え」
そそくさと教室から出ようとした私を逃がさないとでも言うように、鳴海君は素早くドアの前に立つ。無駄のない動きに慣れを感じて、スッと血の気が引くのを感じた。
「そんな顔しないで――」
「触らないでっ!」
鳴海君の上げかけた右手が、腰の高さで止まる。恐らく、青ざめた私の顔を見て、心配してくれたのだろう。それでも、やっぱり何かあると思ってしまうのは、倉木さんの話で鳴海君のことを疑っているからだ。倉木さんの言っていた手が早い、と言う言葉が頭をよぎる。同時に日替わり弁当の具材、そして私が鳴海君に目をつけられているという言葉も。流石に意味が分からないほど、私も子供じゃない。
「わかった」
静かに微笑んだその顔は、新しい紙のように私の胸を薄く切っていく。
「別に君を怖がらせたいわけじゃないよ。ただ、きっと君は俺に文句を言いたいんじゃないかなって思ってさ」
「……なんで、教科書持ってるのに、忘れたって嘘吐いたの」
「妬きもち」
「ふざけ――」
「ふざけてないよ」
まっすぐなグレーの瞳が私を見つめる。その目は刺すように強く、鋭く、でも同時にどこか儚く、脆く見えた。
「授業始まる前、佐々木君と話してたでしょ。あそこまで君が他の男と親しそうに話してるの見て、嫉妬した。だから教科書見せてもらった」
「……は?」
この人は何を言っているんだ、と思った。
「今年は受験なんだよ? みんな真剣に授業受けてる。少しでも成績良くなるために、先生からの印象良くするために、みんないろんなこと気を付けてる。特に忘れ物。必要なもの持ってないと、意欲がないってみなされるから」
今では受けて大丈夫と言われている二つの大学も、そして勧められるようになった大学も、高校一年生の頃の私では到底届かないだろうと思われるレベルだった。それに気が付いてからは、猛勉強の日々だった。一時は寝る間も惜しんで勉強していた。すべてはフルートをよりよい環境で続けるためだった。音楽について学べなくてもいい。その道のプロになれなくてもいい。ただ、できるだけ質が良い演奏をしているサークルに入りたくて、そんなサークルのある大学に行きたくて、私は勉強を続けた。今だって受験生として当たり前だけども、家に帰れば予習復習以外にも受験勉強、そしてフルートの練習をしている。
私はそんな状況なのに、この男は。
「本当に忘れ物なら、人間だもん、そういうこともあるし、しょうがないと思う。でも、たかが嫉妬で忘れ物したふりなんて、馬鹿らしすぎる。ふざけてるとしか思えない」
ピクッと鳴海君の右眉が動く。
「たかがってなに、人間なんだよ、嫉妬して悪い?」
「そうじゃないの、誰だって嫉妬くらいする」
きっと、私が鳴海君の元カノに抱いているこの感情も、嫉妬なんだと思う。
「だけど、今はそういう時期じゃ――」
そこまで言って、私は分かった。きっと、鳴海君と私で、優先しているものが違うんだってことに。私はこれからのことを考えてる。どういう大学に行って、どういう風に暮らしていきたいのか。だけど彼はきっと、今このときを考えてる。今、どういう風に自分はしたいのか。きっとそれを最優先で考える習慣が、身についてしまっている。どちらがいい悪いじゃない。今までの環境が違いすぎるんだ。なら、きっと今ここで感情的になってもすれ違うだけ。
それなら、彼がなんでそういう行動をとったのかを知りたい。
「……なんで私が佐々木君と話してると嫉妬するの」
「長谷川さんのことが好きだから」
「――っ」
まっすぐな瞳に見つめられて、好きだという言葉だけで私は軽率に赤くなる。心臓が耳元で鳴る。大音量で鳴海君の言葉に返事をしている。だけど私の口からこぼれたのは、私が自分の意志で投げたのは、別の言葉だった。
「信じない」
まっすぐな瞳に見つめられた気はした。だけどその瞳が私を見つめているのか、私を通して私と似ている誰かを見つめているのか、私の中で分からなくなっていた。
「なんで」
「あなたは、元カノさんと私を重ねて見てる」
さっきまでまっすぐだったグレーの瞳が、揺れる。私の投げた言葉の力は強かったようだ。鳴海君を黙らせて、そして私の心に打撃を与える。彼が見つめていたのは、私じゃない。諦めを引き連れてやってきた確信は、鋭利な刃物となって、私の喉元に突き刺さる。息が、苦しい。
「私もきっと、あなたのことが、好き、なんだと思う。でもね。いろんな人に、好きって言葉を、言えるあなたに、私は、好きって言えない」
息継ぎしながら吐く言葉は短く、揺れながら途切れ途切れになってしまう。でもそうしないと、私は何も言えなくなりそうだった。もう泣いてしまいたい。そう思っている自分に負けそうだったから。
「もしかして、前のところの話、誰かから聞いたの?」
私は頷く。彼の声も揺れていることに気付いた。
「私は、私だけを、好きって、言ってくれる人に、好きって、言いたい」
「俺は、今は君が好きだよ」
かすれた声は、悲痛な叫びのようにも聞こえる。だけど、そんな声で言われても、私だって辛いものは辛い。
「あんな、優しくて、柔らかくて、温かな声で、元カノさんのことを、話すのに?」
「――っ」
鳴海君は息を呑んだ。両手で自分の口を覆った。その反応を見るに、もしかしたらそれらの声は無意識で、無自覚に発せられていたものなのかもしれないと思った。……好意を寄せている相手に、意識的にあんな風に元カノの話をしていたのなら、相当最低だと思うけど。
「あなたは、まだ、吹っ切れていない。……違う?」
「俺は……」
そのまま口を閉じる鳴海君に、苦しさが増していく。なんでその言葉の続きを言ってくれないの。そしたらきっと私は――。
「私を、好きに、なったのは、元カノさんと、私が、似ていたからであって、私自身を、好きなわけではない、違う?」
「……」
鳴海君は俯いた。明るい茶髪に隠された表情は、見えない。私は深呼吸をして心を落ち着ける。いろんなものが、瞳から、口から、こぼれだしそうになるのを必死にこらえる。目の前の彼を、自分を傷つけたのは、他でもない私なのだから。
重たい沈黙。
やがて、鳴海君はゆっくりと口を開いた。
「そうだね。俺は君を、あの子と重ねてた」
包丁で胸をえぐられた気がした。
スッと鳴海君は顔を上げた。静かな微笑みは鉛筆で薄く描かれた絵のようで、少しの力で消せそうな儚さを感じた。
「ごめんね、ちゃんと君自身を好きだって言えない俺で」
鳴海君はそう言うと、回れ右をして教室を出た。静かにドアが閉められる。遠ざかっていく足音を聞きながら、私はその場に崩れ落ちた。
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