36:ひねくれた秀才の素顔

 入室したときとは正反対の、穏やかな気持ちで自習室を後にした私たちは、歩き出してすぐに、前方の階段から降りて来た小金井くんと鉢合わせした。

 あ。

 私は口を半開きにし、思わず足を止めた。

 漣里くんに続き、小金井くんも立ち止まる。

 足を止めたということは、もしかして小金井くんは、これまでずっと私たち、正確には漣里くんを探していたんだろうか。

 屋上での出来事をなぞるように、今度は夕陽の差す廊下で、私たちは小金井くんと対峙した。

「無様だな」

 小金井くんは開口一番、吐き捨てた。

 講堂の裏では責任を感じているかのように、落ち込んだ様子を見せていたのに、それが夢かと思えるほどの毒舌ぶりだった。

「あんな馬鹿どもにいいように嬲られて、みっともなく顔を腫らして、痣を作って。全く情けない。公衆の面前に醜態を晒して、恥ずかしくなかったのか?」

 軽く首を持ち上げ、眼鏡の奥から漣里くんを見下し、目を細める。

「勝手に助けに入ってきたときは余裕で叩きのめしていたように見えたんだが、どうやら目の錯覚だったようだ。君がそんなにひ弱だと思わなかったよ」

「先輩が俺のために金を払い続けてたってこと、野田たちに聞いた」

 漣里くんは小金井くんの生意気な態度にも言葉にも構うことなく、淡々と告げた。

 ぴくりと小金井くんの眉が動く。

「何を都合良く勘違いしてるんだか知らないが、あれは保身のためであって――」

「ありがとう」

 演説するように片手を持ち上げ、言葉を続けようとした小金井くんの台詞を遮り、漣里くんはお礼の言葉を口にした。

 小金井くんが手を上げたままの、中途半端な格好で止まる。

「私も、あなたに言っておかなきゃいけないことがある」

 小金井くんが止まったその隙に、私も言った。

「屋上で、失礼なこと言ってごめんね」

「……は?」

 小金井くんはさも不愉快そうな顔をした。

 でも、私は漣里くんのように、一切を無視して言葉を重ねた。

 小金井くんはこういう態度しか取れない人なんだって、わかってたから。

 彼が本当に、表面通りの嫌な人間だったとしたら、漣里くんがあんなにも懸命に庇っていたわけがないって――もうとっくにわかっていたから。

「小金井くんは漣里くんに感謝してたんでしょう。人の気持ちがわからないなんて私の勘違いだった。あなたは野田に支配される屈辱に耐えてまで、水面下で恩を返し続けていたのに、何も知らないで勝手なことを言って、ごめんなさい」

 私は頭を下げた。

 自分に暴力を振るった相手に、言われるまま何カ月もお金を払い続ける――その苦痛は計り知れない。

 屈辱に頭を掻き毟り、叫びたくなる夜もあったはずだ。

 なんで自分がこんな目にと、何度泣きたくなったことだろう。

 私だったらとても耐えられない。

 野田と顔を合わせるのも嫌で、不登校になっていたかもしれない。

 それでも、小金井くんはその苦痛に耐えた。

 きっと、保身より、何よりも、漣里くんのためを思って。

 自分が逃げ出したりしたら、漣里くんが野田に報復を受けるかもしれないから、それを防ぐためにプライドを曲げてまで、精一杯努力してきたんだ。

「図々しいかもしれないけど、私も彼女としてお礼を言わせてほしい。ずっと漣里くんを守ってくれて、ありがとう」

「…………」

 顔を上げると、小金井くんは奇妙な顔をしていた。

 唇を噛んで、ともすれば怒ったように壁を睨んでいる。

 でもそれは、泣き出す寸前の顔で。

「……馬鹿じゃないのか。ああ、君たちはお似合いだよ。二人揃って大馬鹿者なんだからな。阿呆のカップルだ」

 ぼろっ――と、眼鏡の奥の瞳から、一筋、涙が零れた。

「ありがとうとか。礼を言うなんて。はっ、ふざけてるのか」

 もう一方の目からも涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。

 小金井くんは泣きながら漣里くんを睨み、早口で言った。

「そもそも君は僕と面識すらない他人、しかも、入学したばかりの下級生だったじゃないか。同じクラスだった一年のときから僕は野田に目をつけられて、陰でストレス発散用のサンドバッグにされていたんだ」

 小金井くんは自らの頬を流れる涙を頑なに無視して、まくしたてる。

「あのときだって、別に驚くこともない、いつも通りのことだったんだ。なのに君は、路地裏に連れ込まれて殴られていた僕を見て――本当に、全く無関係の、たまたま現場を目撃しただけの第三者だったくせに、何やってるんだって血相を変えて――正義面して、勝手に割り込んできて、あっという間にあいつらをぶちのめして、大丈夫かって手を差し出して――僕はそんなこと、一言も頼まなかったぞ」

「ああ、そうだな」

 漣里くんは凪のような静かさで、無表情に同意した。

「僕を助けたことは黙ってろとは言ったが、きっとすぐに口外すると思っていた。憐憫や嘲笑の的になることも覚悟していたさ。それがまさか、夏休み明けのいまに至るまでずっと黙ってるなんて誰が想像する? しかも町の不良グループを壊滅させただの、婦女暴行を働いただの、意に添わなかった女子を階段から突き落としただの――事実無根の出鱈目な噂を流されても、最悪といっていいほど、どうしようもなく自分の立場を悪くしてでも――それでも黙ってるなんて馬鹿としか言いようがないだろう」

「そうかもしれない。でも、俺はそれでも良かったんだ」

 漣里くんは泣き続けている小金井くんをひたと見つめた。

「『ありがとう』って、あのとき、先輩がそう言ったから」

 その言葉に、小金井くんが唇を閉ざした。

「あの一言は、俺にとって、どれだけ自分の立場を悪くしてでも先輩を庇う価値があると思わせた」

「…………」

「ただ、それだけのことだったんだ」

 長い、沈黙があった。

 小金井くんは押し黙り、漣里くんは無表情に佇み、私もただ黙っていた。

 校舎の中から聞こえる生徒たちの笑い声が、遠く感じる。

 廊下には私たち以外の人間はおらず、私たちは微動だにせず――この場の時間は止まっていた。

 それから、どれくらい経っただろう。

「……は」

 小金井くんは失笑で時を動かした。

 その目からはまた新たな涙が溢れようとしていた。

「なんだそれは。僕の言った『ありがとう』? それだけで? 馬鹿か? いや、本当に君は底抜けの大馬鹿だな。救いようがない……」

 小金井くんは手で顔を覆い、顔を大きく歪めて、くしゃくしゃにして、そして――

「ごめんなぁっ!!!」

 いきなり、がばっという擬音がつきそうな勢いで、頭を下げた。

 高飛車で傲慢な普段の彼からは信じられない、その行動にこそ私は驚愕したけれど、漣里くんは予想でもしていたかのように、驚きの片鱗も見せなかった。

 彼は優しささえ感じさせる、とても落ち着いた眼差しで小金井くんを見ていた。

「僕のせいで巻き込んで、そんな大怪我させて、本当にごめん!!!」

「いいよ」

 漣里くんは短く答えた。

 違う、とか、小金井くんのせいじゃない、とか――そう否定し、慰めるのは簡単だっただろう。

 でも、その許しはきっと、罪の意識に苛まれていたであろう小金井くんがいま一番欲しかった言葉だ。

「…………っ、い、いままで、黙っててくれて、ほんとに――本当に、ありがとう」

 小金井くんは嗚咽を挟んで、深々と頭を垂れたまま礼を述べた。

「うん」

 漣里くんは「ああ」ではなく、「うん」と答えた。

 誠実なお礼の言葉に、できる限りの誠実で応えようとする漣里くんの思いが、伝わってくるような気がした。

「でも、もういいよ。全てが明るみになって、兄貴も他の奴らも動き出してくれた。野田はこれから相応の報いを受けることになるはずだ。先輩を苛む悪夢は終わった。だから、顔を上げてくれ」

「…………ありがとう」

 床に滴を落とし、ようやく小金井くんは顔を上げた。

 眼鏡を片手に持ち、手の甲で荒っぽく涙を拭う。

 ……なんだ。

 小金井くんは、こんなふうに感情をむき出しにして泣いたり、人に謝ることだってできるんじゃないか。

 そう思うと、もったいないな、という気持ちが胸のうちで膨れ上がった。

 うん、凄く、もったいない。

 そんなことを考えながら、小金井くんが立て直すまでの間、私と漣里くんは黙って見守っていた。

「……ああ、全く、無様だな。一生の汚点だ」

 恥ずかしいのか、小金井くんは再び眼鏡をかけ直しながら独りごちた。

「そうかな」

 私はその言葉を否定したくて、声を上げた。

「……なんだと?」

 小金井くんは赤い目で、睨みつけるように私を見た。

 照れ隠しなのか、本当に怒っているのかわからない。

 でも、私はどちらであろうと気にしなかった。

「全然無様じゃないよ。ちっとも無様なんかじゃない。変に格好つけずに、感情のままに泣いて、謝って、お礼を言った小金井くんは、教室で偉そうにしているときより何倍も、何十倍も格好良かったよ。普段からそんなふうに素直でいればいいのに」

「…………」

 ひねくれているという自覚があるのか、小金井くんは無言で口元を引き結んだ。

「いまの小金井くんのほうがずっと素敵だと思う。人としてとっても魅力的だよ」

 私は心から笑った。

 すると、何故か小金井くんは戸惑ったような顔をした。

 急に落ち着かなくなったかのように、目を床、壁、窓の外と、あちこちに転じている。

 あれ、漣里くんも何か不機嫌そう。

 私が内心で首を傾げていると。

「……要するにそれは告白か? 深森は僕に惚れたと?」

「いやごめん全然違います。」

 眼鏡をくいっと持ち上げ、格好つけてみせた小金井くんに、私は即座に手を振り、その盛大な勘違いをばっさり一刀両断した。

「なんだ、そうか」

 ほんの少しだけ残念そうに、小金井くんは声のトーンを落とした。

 漣里くん、横から疑惑の目で私を見ないでください。

 心配しなくても私はあなた一筋ですから!

「ただ思ったことを言っただけだよ。いまの小金井くんを見て、普段の小金井くんは自分から魅力を捨ててるように見えたから、もったいないなって――」

「――だそうなんで、念頭に置いとけばいいことあるかもしれない」

 ぐいっと、漣里くんが私の肩を掴んで引き寄せた。

 自然と、頬を漣里くんの胸に押し付ける格好になる。

 えっ? えっ?

 こ、これはもしや、こいつは俺の彼女なんだぞっていうアピール……!?

 漣里くんの胸に顔を埋めながら、私は激しく狼狽えた。顔が燃え上がるように熱い。

「ってわけで、話も終わったし、行くぞ真白」

「えっ? は、はい」

 漣里くんは強引に話を打ち切り、私の手を引っ張って歩き出した。

「あ、あの、漣里くん? 怒ってる?」

「ちょっと」

 漣里くんは即答してきた。

 ……あ、これはちょっとどころじゃなく、だいぶ怒ってる。

 空気がぴりぴりしてるもの。

 嫌でも肌で感じるよ。

「ご、ごめん。本当に他意はなくて、ただのアドバイスのつもりだったの。小金井くんはいつも偉そうで、人を見下したような態度だから、改善したほうが良いんじゃないかなって……でも、私が好きなのは漣里くんだけだから! それは間違いないから! 他の人なんて眼中にないもの!」

「本当に?」

 漣里くんはぴたっと立ち止まり、拗ねたような顔で念押ししてきた。

「うん。当たり前でしょう?」

「……じゃあ許すけど、あんまり他のやつを勘違いさせるようなこと言わないで」

 漣里くんの手が離れた。

「ご、ごめん……」

 気まずい雰囲気の中、歩き出す。

 許す、と言ったのに、漣里くんは私を見ようとはしない。

 ああ、せっかく小金井くんが謝ってくれて、良い雰囲気だったのに……。

「あの、さっき小金井くんが頭を下げたとき、よく驚かなかったね。あんなことするような人じゃないって思ってたから、私、びっくりしちゃった」

 私はどうにか彼の怒りを解くべく、焦りながら言った。

「ああ……」

 漣里くんはそれだけ言って、背後を振り返った。

 廊下にはまだ小金井くんが立っている。

 この話は本人に聞かれると都合が悪いと判断したらしく、漣里くんは私を渡り廊下の端っこへと連れて行き、小声で教えてくれた。

「四月に俺があいつを助けたときのことなんだけど」

「うん」

 漣里くんにつられて、私も小声で相槌を打った。

「助けた後、あいつ、号泣しながら鼻水垂らして俺に礼を言ったんだ」

「へ」

 声を潜めるのも忘れて、通常通りの音量で発声した挙句、ぽかんとしてしまう。

 ……号泣しながら鼻水を垂らした?

 あの、小金井くんが?

 ……脳がその光景を想像することを拒否し、軽い眩暈すら覚えた。

「だから屋上で話したとき、偉そうなあいつを見て、あまりのギャップに俺、ちょっと笑いそうになってた」

 え、笑いそうになってたの?

 漣里くんはあくまで無表情なので、本気なのか冗談なのかとてもわかりにくい。

 ああ、でも――だから、漣里くんはあのとき『小金井は何か色々言ってたけど、ひねくれてるだけで、根はそんなに悪い奴じゃないと思う』なんて庇う発言をしたんだ。

 この学校で、きっとただ一人、漣里くんだけが小金井くんの素顔を知っていたから。

 酷い悪評にも耐えて、彼を庇い続けていたんだね。

「……そっか」

 ようやくこれまでの漣里くんの行動、その全てに納得することができた。

「でも、これは内緒な」

「……小金井くんの名誉のために?」

 どこか悪戯っぽい眼差しで言ってきた漣里くんに、私は笑った。

「ああ。あいつの名誉のために」

 漣里くんが小さく顎を引く。

「わかった。それじゃあ、内緒にするね。私たちだけの秘密ってことで」

 言われなくてもそのつもりだったけれど、私は唇に人差し指を当て、ささやかな秘密を共有した恋人同士として、漣里くんと笑い合った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます