35:ただ肯定するだけでいい

 講堂の裏ではお祭り騒ぎにも似た、大勢の生徒たちが放つ圧倒的なエネルギーの渦に流され、半ば非常事態であるということを忘れていた。

 でも、保健室で漣里くんの治療を見守っている間に、私の心はすっかり冷静を取り戻した。

 右頬を覆う大きなガーゼ、左目の下の絆創膏、消毒を終えたとはいえ血が滲んだままの唇。

 できるだけはたいて土を落としたけど、制服の汚れは残ったままで……あの汚れは全部暴行の痕だ。

 隣で廊下を歩いている漣里くんの姿を見ていると、胸が塞ぐ。

 私は保健室を出てからずっと、彼と目を合わせることなく、俯いていた。

「……大げさだよな、これ」

「全然大げさじゃないよ。酷い怪我だよ」

 私を気遣い、重い空気を和らげるために言ってくれた台詞なんだろうけれど、私の気持ちを晴らすには全然足りない。

 むしろ逆効果だ。

 手当てをしてくれた養護教諭も、漣里くんの顔を見て絶句してたもの……。

 葵先輩も他の生徒たちも野田たちに制裁を加えてくれた。

 あの場にいたほとんど全員が漣里くんを守ると言ってくれたし、もうこれ以上彼が被害に遭うことはないはずだ。

 でも――そもそもこの事態を防ぐ手立てはなかったのか、他にもっと自分にできることがあったんじゃないかという思いが頭から離れず、自己嫌悪で泣きたくなってくる。

 廊下の窓から差し込む西日の光がオレンジ色に変わり、私と漣里くんの影が長く伸びている。

 もうこんな時間なんだ……でも、何時でも変わらない。

 窓の外の景色が夕陽に照らされて美しく輝いていようと、私の心の中は真っ暗だ。

 カラスの鳴き声も、生徒たちの話し声も、誰かが廊下を歩く足音も、全てが等しく雑音にしか聞こえない。

 好きな人が傷ついて、それでも笑えるほど、私は強くなんてない。

「……どうしてこんなことになったの?」

 周囲に誰もいなかったため、私は立ち止まって聞いた。

 漣里くんも足を止めて、私を見る。

 その視線から逃げるように、私は視線を床に落とした。

「……野田曰く、ATMが金を出さなくなったから責任取れ、だって」

「……ATM?」

 意味がわからなかった。

「小金井は過去の虐めの事実を口外しないっていうことと、それから俺に報復しないっていう二つの約束を取り付けて、野田たちに金を払ってたらしいんだ」

「え」

 ってことは、小金井くん……四月からいままでずっと、お金を巻き上げられてたの!?

 信じがたい事実に目を丸くする。

 同時に、改めて野田の最低なやり口に怒りが沸いた。

 暴力で同級生をねじ伏せ、さらに何ヵ月もお金を巻き上げるなんて、人間の屑としかいいようがない。

「俺たちが真相を暴露したことで小金井も野田に反旗を翻し、金を払わなくなった。だから、俺が責任取って小金井に取り立てるか、もしくは代わりに金を払えって脅してきた」

「……なんて奴なの……」

 脳裏に野田たちの顔を思い描き、私は怒りに震えた。

「四月にあいつらを殴った後、しばらくは闇討ちとかを警戒してたんだ。野田はああいう性格だから、絶対報復しにくると思ってた。でもいままでなんともなかったのは、小金井が防いでくれてたんだよ。そんなこと、俺、全然知らなかった」

 小金井くんは小金井くんなりに、自分をかばってくれた漣里くんを守ろうとしてたのか……。

 でも、私が真相を暴露したいと言ったから、野田たちを口止めする意味もなくなった。

 約束が失われることで、もし野田が漣里くんへの報復を決めたとしても、彼には戦う力があるし、大丈夫だとたかをくくったのかもしれない。

 小金井くんだって、長いこと野田に搾取され続けるのは嫌だったはずだもの。

 私の働きかけが、いい加減に野田の呪縛から解放されたいと願う小金井くんの背中を押したんだ。

 小金井くんが教室でやたらと攻撃的で、人を見下すような発言を繰り返していたのも、真相を知ったいまなら、野田たちによる多大なストレスが原因だとも考えられる。

 ――君の短絡的行為によって、僕はいまでもあいつらにつきまとわれてるんだ。いい迷惑だよ、全く。

 屋上でのあの言葉も、半分は本音だったんだろう。

 小金井くんがお金を払い続けてきたのは、もちろん自分の立場を守るためでもあるだろうけれど、彼なりに漣里くんを庇うための行為でもあったんだから。

 恩人に感謝する気持ちと、漣里くんを庇うためにお金を支払い続けなければならないという状況の板挟みになって、苦しかったんだろうな……。

「その話を聞いて、俺は『お前らクズだな』って、正直に言った」

「……その言葉が野田たちに火をつけたんだね」

 漣里くんは余計なことを言ってしまったんだろう。

 ごまかすなりなんなりして、うまく立ち回れば暴行なんて受けずに済んだ。

 少しでも頭が働く人間なら、きっとそうする。

 でも、漣里くんは自己保身よりも糾弾を優先した。

「そっか……うん、わかった」

 頷き、そのまま俯く。

「……なあ、真白。なんでこっち見ないの?」

 その問いに、私はびくりと肩を揺らした。

 ここに至るまでずっと、私は漣里くんの目を見ずに過ごしてきた。

 視線をそちらに向けることがあっても、首あたりで留めてきた。

 何故って、ガーゼに覆われた顔を直視するのが辛いから。

 手のひらに爪を立て、せめてもっと早く到着できなかったのかと、ただひたすら己を責め続けているから――。

 答えられずにいると、突然、漣里くんに手を掴まれた。

「ちょっと来て」

 漣里くんは驚いている私の手を引っ張り、廊下を進む。

 彼が私を連れて行ったのは、自習室として生徒に開放されている部屋だった。

 本棚と机のセットがあるだけの、簡素で小さな部屋。

 文化祭準備期間中ということもあり、中には誰もいない。

 漣里くんもそれを見越してここに来たのだろう。

 彼は私を部屋に連れ込むと、電気をつけ、扉を閉めた。

 生徒たちの声が少しだけ遠くなる。

 この部屋の中だけが静かだ。

「座って」

 立ち尽くしていると、漣里くんに促された。

 とりあえず、一番近い机に腰掛ける。

 漣里くんも隣の椅子を引いて座った。

 お互い教室に戻る前に、落ち着いて話をしよう、ということらしい。

 漣里くんがすぐ隣にいる。

 手を伸ばせば――ううん、わざわざ伸ばさなくたって簡単に届く距離、二人きりという特殊な状況。

 いつもならドキドキして、平静を保つだけで精いっぱいだっただろうけれど、私の気分はいま、水底の石のように深く沈んでいる。とても浮かれていられない。

「真白」

 彼が私の名前を呼ぶ。その声だけはいつも通りだった。

 顔をあげれば、いつもとは全く違う惨状が嫌でも目に飛び込んでくるのに。

「こっち見て。手当てもしてもらったし、もう大丈夫だから。痛くない」

「嘘だ」

 私は反射的に言って、顔を上げた。

 彼の頬を覆うガーゼに手を添える。

 怪我に障ることのないように、壊れ物を扱うような手つきで、そっと。

「痛かったでしょう?」

 泣きそうになりながら問う。

「……まあ、多少は」

 似たような葵先輩の問いには『別に』と受け流していたのに、漣里くんは少しだけ本音を吐露してくれた。

 それは嬉しい。

 嬉しいけど、私はその感情を表すことができず、顔を歪めた。

「……ごめんね。漣里くんのクラスの子が教えてくれたときに、もっと早く駆けつけられれば良かった」

 ぽつ、と流した涙が胸の上に落ちる。

「殴られたときだって、私に気を取られたからそうなったんだよね」

「違う。それは全然関係ない。真白が来なかったって、あいつらは――」

 言い募ろうとする漣里くんに、かぶりを振る。

「私、漣里くんが反撃しなかったって聞いて、約束を守ってくれたんだって嬉しかったけど、でも、あんなこと言うんじゃなかったって、後悔してるのも本当なの」

 どうしようもなく目がしらが熱く、私は漣里くんの肩に顔を埋めた。

「こんな酷い目に遭うくらいなら、殴り返してでもいいから無事でいて欲しかったって……」

 大粒の涙がぽろぽろと零れる。

 暴力を振るっては駄目だという自分の言葉が間違っていたとは思えないし、思いたくないのに――それでも、漣里くんの痛々しい姿を見るくらいなら、あんな卑劣な奴ら暴力で叩きのめして何が悪いの、なんて恐ろしいことを考える自分がいるのも本当だった。

 相反する思いが絶えず衝突を繰り返し、心が粉々になってしまいそう。

「――違う」

 漣里くんは強くそう言って、私を抱きしめた。

「やり返さなかったのは俺の意思だ。本当に、この件に関して一切、真白は何も悪くない。真白が気に病むことなんてない。真白はできるだけのことをしてくれた。息を切らして、全力で駆けつけてくれた。凄く嬉しかった」

「でも……」

 私の弱々しい反論を、漣里くんはかぶりを振って止め、さらに強く抱きしめてきた。

 息が詰まりそうになるほどに強く、腕の中に閉じ込められる。

「俺は真白に感謝してる。前にあいつらを殴ったときは、ただ空しくなっただけだった。でも、いまの俺は自分が誇らしい。あれだけ殴られたのに一発もやり返さなかった。兄貴だって褒めてくれた。凄いって、真白も言ってくれただろ。それなのに、真白が後悔したら全部台無しだ。真白はいまの俺を見て恥ずかしい、情けないって思うのか?」

「そんなこと思ってない!」

 私は弾かれたように、勢いよく顔を上げた。

 涙を零したまま、必死で訴える。

「漣里くんは立派だったよ! 本当に格好良いよ! やろうと思えばやり返せたのに、それを我慢したんだもん、偉いよ! 恥ずかしいとか、情けないとか、そんなこと言う人がいたら私が怒る! 怒鳴りつけてやるから!」

「ああ。それでいい。そのほうが嬉しい」

 漣里くんは身体を離した私を引き寄せ、もう一度抱きしめた。

 今度は荒々しく掻き抱くのではなく、優しく。

「後悔なんてしないで、真白はただ肯定してくれたらいいんだ。わかったらもう泣くな。言っただろ、真白が泣くのは一番辛い。それに比べたら殴られたことなんて痛くもなんともないんだ、本当に」

 漣里くんの手が、私の頭を撫でる。

 続いて、ぽんぽん、と背中を軽く叩かれた。

 まるで赤子をあやすような、不器用なその慰め方が酷く彼らしくて、私はつい笑ってしまった。

「やっと笑った」

 その微かな笑い声が耳に届いたらしく、漣里くんは少しだけ弾んだ声でそう言って、身体を離した。

 私はガーゼに覆われ、絆創膏が貼られたその顔を、真正面から見つめた。

 いま私がすべきことは、現状から目を逸らし、漣里くんの身に起きた悲劇を嘆くことなんかじゃない。

 こんなに酷い怪我を負わされても我慢したんだね、頑張ったねって、彼女として彼を支え、肯定することなんだ。

 悟ったとたんに、胸を塞いでいた大きな塊が溶け、消えていった。

 やっと落ち着いて呼吸ができるようになった気がする。

 まっすぐな私の目を見返して、漣里くんは微かに笑った。

 そう、それでいい、とでもいうように。

「そうだ、真白。やって、おまじない」

「おまじない……あ」

 すぐに思い当たった。

 漣里くんが指を怪我したときに行った、痛いの痛いのとんでいけ、だ。

 期待に満ちた眼差しを向けられて、あんなのただの気休めだよ、なんて言うほど私も無粋じゃない。

 私は薄く微笑み、リクエストに応えて、漣里くんの頬を両手で包んだ。

 ふと思いつき、言ってみる。

「ちょっと屈んで」

「?」

 漣里くんは不思議そうな顔をしながらも、私の指示通りに、上体を屈めた。

 私は逆に背を伸ばし、彼の額に自分の額をくっつけた。

 湿布の匂いと、微かに消毒液の匂いがする。

 くっつけあった額からじんわりと彼の温もりが広がっていく。

 漣里くんがびっくりしているのを見ながら、目を閉じ、唱える。

「痛いの、痛いの、とんでいけ」

 どうかこの呪文に、効果がありますように。

 一秒でも早く、怪我が治りますように――。

 私は心から祈りながら、ゆっくり唱えた。

 目を開けると、漣里くんは顔を赤くしていた。

 互いの吐息がかかるような超至近距離と、額をくっつけ合っているこの状況に、感情をあまり表に出さない彼が目に見えて動揺しているのがわかって――私が彼を動揺させた事実がなんだかとても嬉しくて、額をくっつけたまま言う。

「ねえ、漣里くん。野田たちに言った言葉、私、凄く嬉しかったよ」

 ――俺は真白と一生、手を繋いで生きていきたい。

 私も同じ気持ちだったから、凄く嬉しかったんだよ。

「ずっと一緒にいられたらいいね」

 微笑むと、急に漣里くんの顔が近づいてきて。

 唇と唇が重なった。

「……!!」

 今度は私がびっくりして硬直した。

 でも、キスしていた時間は多分、一秒にも満たなかった。

 まるでただの事故だったかのように、漣里くんはすぐに唇を離した。

「……え。もう終わり?」

 重なり合った唇の感触をはっきりと感じる余裕も、余韻に浸る暇もない、あまりにも短すぎるキスに、ついぽろっと本音が出てしまった。

 私の発言にこそ漣里くんは驚いたようで、「えっ?」と、なんとも間の抜けた反応をしてきた。

「もうって……」

 漣里くんは困ったように視線を逸らした。

 どうやら照れ屋の漣里くんにはいまのキスだけで精一杯らしい。

 ああでも、真っ赤になってる漣里くん、滅茶苦茶可愛い。

 愛おしさがこみ上げ、胸いっぱいに広がる。

「アンコールしてもいい?」

 照れている彼が可愛すぎて、つい大胆なことを言ってしまう。

「……ま、また今度で」

 漣里くんは私の視線から逃げるようにそっぽ向いた。

 まだ顔が真っ赤だ。耳まで染まってる。

 くうう、可愛いっ!

 きゅーんっと心臓が縮む。

「じゃあ、怪我が全部治ったら、お祝いにもう一回しようね」

 私はにっこり笑いながら提案した。

「……。真白ってそんなに大胆な奴だったっけ……?」

 漣里くんは狐につままれたような顔。

「漣里くんが可愛すぎてつい」

「可愛いっていうのは褒め言葉じゃない……」

 憮然としている彼が可愛くて、愛しすぎて――ああ、大好きだなぁと、私は満ち足りて笑った。

「よし、決めたよ、漣里くん。明日からは一緒に登校しよう!」

「え?」

 一転して、明るい声で提案すると、漣里くんは目をぱちくりさせた。

「葵先輩のファンの人たちも全面的に協力してくれるって言ってたし、多分もう大丈夫だと思うけど、でも、万が一また野田たちに襲撃されたら困るもの。彼女として、今度は私が守るからねっ」

 唖然としている漣里くんを見ながら、体の脇で両手を握ってみせる。

「下校も一緒のほうがいいよねっ。できれば休み時間とかも一緒のほうがいいんだろうけど、短い休憩時間の度に一年棟に行くのはちょっと大変かな……ううん、そんなこと言ってる場合じゃないよね! うん、私、ちょくちょく様子を見に行くよ!」

「は、いや、何もそこまで……」

「あ、でも、トイレとか、体育の着替えとかはさすがにまずいかな……」

「ちょっと待て! まずいに決まってるだろ、落ち着け!」

 顎に手を当てて考え込んでいると、漣里くんは慌てたように私の肩を掴んできた。

「そこまでしなくても大丈夫だから! 言ってるだろ、本当は兄貴に庇ってもらわなくたって俺一人で対処できたんだ。真白がそこまで気を遣わなくてもいいから。とりあえずトイレとか着替えとか、物凄いこと言ってる自覚を持て!」

 あ、漣里くんが珍しく語調を強めてる。

「そう? 本当に大丈夫?」

「ああ。だからとにかく冷静になってくれ……」

 なんだか漣里くんが疲れたような顔をしている。

 私、そこまで疲れさせるようなことを言っただろうか。

 キスの効果もあり、すっかり気分が高揚していて、冷静な判断力を失っている私にはわからなかった。

「……うーん、でも、登校は一緒にしたいな」

 じっと見つめて、甘えるように言ってみる。

「下校のタイミングを合わせるのは難しいかもしれないけど。登校なら問題ないよね? それとも……駄目?」

 首を傾げると、漣里くんはちょっとだけ考えたような顔をして。

「……まあ、それなら」

「やった」

 了承を得て、私は満面の笑顔を浮かべた。

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