33:窮地に現れたのは

 私は駆けた――解き放たれた弾丸のような勢いで。

 びっくりした顔で見てくる通りすがりの生徒たちの横を抜け、廊下の床を踏み鳴らし、階段を下り、上履きのまま外へ出て、一直線に講堂の裏手へ向かう。

 講堂の中には生徒がいるらしく、複数の声が聞こえた。

 文化祭では講堂で演劇とダンスを行うはずだ。

 どこかのクラスか、もしくは正式な部活動員がリハーサル練習でもしてるのかもしれない。

 騒がしい講堂の横を通り過ぎ、角を曲がって裏手へ到着する。

 ここはコンクリートの壁とフェンスに囲まれた、狭く、見通しの悪い場所。

 校舎からもそれなりの距離があるため、誰かが偶然ここを訪れる可能性は皆無に等しく、講堂に用があろうとも、わざわざ裏手まで回って来る生徒なんていようはずもない。

 そこで私が見たのは、体格のいい野田くんに胸倉をつかみあげられている漣里くんの姿だった。

 近くには加藤くんと上杉くんもいて、にやにや笑っている。

 荒々しい足音を立てて乱入した私に気づいたらしく、漣里くんの目が動いて私を捉えた。

 予期せぬ登場だったのか、その目が軽く見開かれる。

 彼が私に気を取られたその瞬間、野田くんは右手を振り上げ、固く握りしめられた拳で漣里くんを殴った。

 耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いて、漣里くんが吹っ飛び、地面にしりもちをついた。

「漣里くん!!」

 悲鳴をあげて駆け寄り、彼の肩に手を回す。

 これまでも何度か殴られていたのか、右頬が腫れていて、口の端には血が滲んでいた。

 左の目の下には痣がある。

 なんて酷いことを……!

 あまりの事態に思考が混乱し、恐怖と困惑で視界が滲んだ。

「大丈夫? どうして、なんでこんな……何してるのよ!?」

 私は漣里くんを横から抱きしめるようにして、野田くんたちを睨め上げた。

 漣里くんは酷い有様だけど、野田くん――いや、もうこんな最低な人間にくん付けするのも嫌だ――も、他の二人も無傷のようだった。

 ということは、漣里くんはやり返したりはせず、一方的に暴行を受け続けていたのか。

「ああ? お前には関係ねえだろ、すっこんでろ」

「野田さん、こいつ、成瀬の彼女ですよ。何度か一緒にいるとこ見たことありますもん」

 腰巾着の加藤が野田に進言した。

「あーそーか。なるほど、そういうわけか。彼氏のために参上したってか。普通は立場が逆だろー、成瀬。ボコられたなさけねーツラ晒して、恥ずかしくないわけ?」

 野田はせせら笑い、人差し指をくいくい、と自分のほうに二度折り曲げてみせた。

「入学当時の威勢はどうしたよ? 俺らが小金井をしばいたときは正義の味方気取りで乱入した挙句、殴りかかって来ただろうが。おら、かかってこいよ。ちったあ愛しの彼女に格好良いとこ見せたらどうだ?」

「嫌だ」

 舐め切った目つきとともに挑発されても、漣里くんは揺るがなかった。

 血で汚れた唇を手の甲で拭い、立ち上がって、凪の湖面のような目で野田を見返した。

「お前らを叩きのめすのは簡単だ。でも、俺はもう誰にも暴力を振るわないって、真白と約束した」

 その言葉に、私は茫然とした。

 ……私との約束を守るために、反撃しなかったの?

 こんな――ぼろぼろになっても、ずっと耐え続けてたの?

 漣里くんは野田の目を見据えたまま、私の手を握ってきた。

「人との縁には一生ものと、そうじゃないものがあるって聞いたけど、お前らは後者だ。卒業すれば二度と思い出さない、そんなどうでもいい奴のために、俺は自分の立場を悪くしようとは思わない」

 縁についての話は、私がこの前、彼にしたことだ。

 誰かを殴ったりして、自分の立場を悪くしないでというのも、私が頼んだ――。

「握れば拳、開けば掌、なんてことわざ、お前らは知らないだろ」

 それも――私が夏休みに、上様を亡くした漣里くんに語った話。

「俺の手はお前らみたいな馬鹿どもをぶん殴るためじゃなくて、真白と繋ぐためにあるって、俺はそう決めたんだ」

 誰かが追い付いてきたらしく、ばたばたと背後から複数の足音が近づいてくる。

 でも、私はそんなことどうでも良く、ただ漣里くんに釘付けだった。

 腫れた頬、切れた唇、土で汚れた制服。

 見るからに痛々しい、その姿。

 これだけ痛めつけられてなお、卑劣な不良たちに屈することなく、堂々と言い放つその輝きに圧倒されて、目が離せない。

「俺は真白と一生、手を繋いで生きていきたい」

 彼はいま、世界中の誰よりも勇ましく、格好良く――ああ、もう言葉でなんて言い表せない。

 言葉の代わりに、私は彼の手を強く握り返した。

 漣里くんと一緒に、抗議の意思を込めて野田たちを睨みつける。

「はあ?」

 けれど、漣里くんの決意表明は野田たちの心に全く響かなかったらしい。

 逆に神経に障ったかのように、野田は片眉を跳ね上げた。

 上杉なんて地面に唾を吐いた。

「おてて繋いで一生彼女とラブラブしたいんですーってか。馬鹿なのお前?」

 心底あきれ果てたように、鼻を鳴らす野田。

「状況わかってねえわけ? ノーミソお花畑なの? けっ、それなら呑気に花咲かせたまんま二人仲良く死ねやオラぁ!」

 野田は突進してきて、拳を振り上げた。

「!」

 反射的に身を竦めた私を漣里くんが抱きしめ、野田に背を向けて庇おうとしてくれた。

 また漣里くんが怪我をするのかと、絶望的に思ったその瞬間。

 視界の端を、前方へ向けて影が走った。

 ……え。

 呆気に取られている私の前――つまり、私と漣里くんを守るように立ちはだかり、片手で野田の岩のような拳を止めているのは、まさかの――

「……葵先輩!?」

 すっとんきょうな声で名前を叫ぶ。

「よく耐えた、漣里」

 葵先輩は野田の拳を止めながら、少しだけ振り返って微笑んだ。

 な、なんで笑えるの?

 野田は全力で拳を押し出そうとしているらしく、その拳はぶるぶる震えているのに、葵先輩の手は振動につられて揺れているだけらしく、特に力を込めているようには見えなかった。

「ついでに言うと、さっきの台詞、お兄ちゃんは結構感動した――よっ」

 葵先輩は最後の台詞で、拮抗を破り、野田の拳を振り払うように横へと弾いた。

 拳を止められただけで力量を悟ったのか、野田はすぐに標的を葵先輩へと切り替えた。

 憤怒の眼差しが葵先輩を貫く。

 でも、葵先輩は涼しい顔だった。

 いや――涼しく見えるのは表面だけで、内心は静かに怒りの炎を燃やしているらしく、その目は据わっていた。

「何があったか知らないけど、誰がどう見ても悪いのは君たちだよね? 弟に何してくれてるの? 返答次第じゃ許さないよ?」

「てめえが許そうが許すまいが知ったことかボケ! いきなり表れて何説教かまそうとしてんだ、ああ!?」

 野田のダミ声と必要以上の声量が不愉快だったらしく、葵先輩は顔をしかめた。

「王子だか貴公子だかなんだか知らねえが、頭の悪い女子どもにちやほやされていい気になってんじゃねえぞ成瀬!」

「そうだ、ただの女顔のスケコマシじゃねえか! 行く先々でハーレム作りやがって、目障りなんだよ!」

「ただの嫉妬だよね、それ」

 吠える野田と上杉に、葵先輩は冷静に切り返した。

 図星を突かれた二人の顔が怒気で蛸のように赤くなり、野田は「上等だぁ!!」と叫んで葵先輩に殴りかかった。

「葵先輩――!」

「大丈夫」

 悲鳴をあげた私に、漣里くんが言った。

 絶対の信頼を置いているが故の、落ち着いた声で。

「言っただろ。兄貴は化け物だって」

 え。

 それって、響さんのことじゃなかったの?

 困惑する私の目の前で、漣里くんの言葉を証明するように、葵先輩はがら空きだった野田の腹部を一撃した。

 のみならず、腕を掴んでその巨体を回転させ、背中から地面に叩きつけた。

 続いて後ろから強襲してきた上杉の拳を軽々とかわし、手首を掴んで捻り上げ、投げた。

 ほんの数秒で二人は無効化されて地面に転がり、ただうめき声をあげるだけの屍となった。

 ……す、凄い。

 かけている眼鏡を落とすこともなく、最低限の力であっという間に二人を倒してしまった。

 葵先輩、本当に強いんだ!!

 時海の貴公子と謳われる葵先輩の予想外の一面を目撃し、唖然としている間に、葵先輩は最後に一人だけ残っている加藤を見た。

 君も屍に加わるか? とでも言いたげな、射貫くような葵先輩の眼差しに、加藤はぶんぶんと頭を振り、降参の意思を示した。

 空気を帯電させている葵先輩の怒りに負けたらしく、彼は仲間であるはずの二人を置いて、脱兎の如く逃げ出した。

 勝敗が決した瞬間、背後から歓声があがった。

 驚いて振り返ると、いつの間にか私たちの後ろにはかなりの数のギャラリーがいた。

 ざっと十五人くらいで、男女比は女子が多く、その中には小金井くんの姿もある。

 傷だらけの漣里くんを見て、さすがに責任を感じているのか、彼は気まずそうに眼を伏せていた。

「大丈夫? 成瀬くん」

 息を弾ませ、駆け寄ってきたのはみーこだった。

「ああ、なんとか」

「見事に腫れちゃって……綺麗な顔が台無しじゃないの」

「ちょっと、失礼なこと言わないで」

「漣里」

 葵先輩が歩み寄ってきたため、私たちは会話を止めた。

 みーこが脇にどけると、葵先輩は漣里くんの腫れた頬に手を伸ばした。

「手酷くやられたみたいだね……痛かったでしょう」

「別に……ていうか、なんでここに?」

「あの子が家庭科室まで呼びに来てくれたんだよ。漣里がとにかくやばいから来てくれって」

 葵先輩はギャラリーのうちの一人の男子を視線で示した。

 その男子――漣里くんと同じクラスの相川くんがぺこりと会釈してくる。

「……ああ、そう」

 漣里くんはなんだか複雑そうな顔。

「何か気に入らないって顔だね?」

「なんかおいしいとこだけもってかれた気がする……俺だってやろうと思えばできた、あれくらい」

「何言ってるの。じっと黙って耐えたんでしょう、立派だったよ、漣里」

 葵先輩は微笑んで、弟の頭を優しくなでた。

「うん。凄いよ。本当に……本当に、偉かったよ!」

 私が同意すると、漣里くんは顔を背けてしまった。

「漣里くん?」

 心配になって問う。

「いや……俺いま、中村先輩の言う通り、酷い顔になってると思うから。あんま見ないで」

「そんなこと……」

 私たちが会話する一方で、騒ぎを聞きつけたのか、さらに五人ほどギャラリーが増えた。

 えっちょっとこれどうしたの、やばくない、などと女子たちが囁き合っている。

「とにかく怪我の手当てをしないとね。深森さん、保健室に連れて行ってあげてくれる?」

「はい。行こう、漣里くん」

 私が促そうとした、そのとき。

「なんだ、なんの騒ぎだこれは!?」

 生徒の群れをかき分けて、二人の男性教師が現れた。

 強面の男子の体育担当の松枝先生と、化学担当の道長先生だ。

 さすがにまずいと思ったらしく、ざわめいていた生徒たちが静かになる。

 教師たちは一目で暴行を受けたとわかる漣里くんと、地面に転がっている野田と上杉、そして葵先輩を順番に見た後、眉をひそめた。

「これは一体どういうことだ?」

 威圧感たっぷりの、松枝先生の詰問に応じたのは葵先輩だった。

「ご覧の通り、弟がこの二人から暴行を受けていたので、僕がやりました。全て僕の責任です。どのような処分でも受けます」

 葵先輩は真摯に答え、頭を下げた。

「止めろ、兄貴がそんなこと――」

「先生、成瀬先輩が助けてくれなかったら、成瀬くんはもっと酷い暴行を受けてました!」

 漣里くんの言葉を打ち消す声量で以て、私は松枝先生に訴えた。

 葵先輩が頭を下げる必要なんてない。

 弟を守っただけなのに、処分を受けるなんて間違ってる!

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