28:衝撃の事実

 あ、危なかった……ほんとに怖かった。

 予期せぬ不良グループとの遭遇のせいで、すっかり動転してしまい、ばくばくと跳ね回る心臓が落ち着くまでしばらくかかったけれど、私は深呼吸して無理矢理に気を取り直した。

 校舎をさまようこと三十分、私はついに漣里くんを見つけ出した。

 漣里くんがいたのは一年棟の屋上だった。

 なんのことはない、一年三組の教室を後にしてすぐ階段を上っていれば、そこに彼はいたんだ。

 そうとは知らず、図書室やら空き教室やら、色んなところを回っちゃったよ。

 捜索にかけた三十分の間に太陽は傾き、視界はすっかり秋のオレンジに染まっていた。

 給水塔や鉄柵の影が長く伸びている。

 彼は給水塔の影に隠れるようにして、座って本を広げていた。

 オレンジ色の光に照らされた彼の輪郭はとても美しいけれど、物悲しい。

「…………」

 校舎の中も外も、文化祭準備に浮かれる生徒たちの笑い声に満ちているのに、ここだけ世界から切り離されたかのように静かだった。

 給水塔に背中を預け、本に目を落としている漣里くんはまだ、離れて立っている私の存在に気づかない。

 ぱら、とページを戻す音が聞こえた。

 続きを読むのではなく、読み返すための動作。

 目は文字を追っているのに、内容が頭に入ってこない、そんな感じだった。

 彼が小さくため息をつく。

 そんな音すらも届くほどの――耳が痛いほどの、静謐。

 漣里くんはいま、何を考えてるんだろう。

 クラスメイトから疎外されて。

 賑やかな喧騒から追い出されて。

 ため息をついた彼の心境はわからない。

 私は彼本人ではないんだから、わかるわけがない。

 でも、私は。

「…………」

 私は、悲しい。

 収まったはずの涙の衝動が、ここにきてぶり返した。

 視界が滲み始める。

 この光景が、彼が独りでいる光景が、堪らなく悲しくて、悔しい――。

「真白?」

 目元を覆った直後、驚いたような声が聞こえた。

 見れば、なんで私がこんなところにいるのか、という驚きと困惑の混ざった顔で、漣里くんが立っていた。

 足元には閉じた本。タイトルはヘミングウェイの『老人と海』。

 こんな本も読むのか、と少しだけ意外に思った。

「どうした? 何があった? 誰かに何かされたのか?」

 漣里くんは慌てたように歩み寄ってきた。

 彼の心配は私のことばかりだ。

 いつだってそう。

 付き合っていることを隠そうとしたのも、全部、私の身を案じてのことだ。

 私が嫌な目に遭わないように、私のことを気遣って。

 でも、違う。

 違うんだよ、漣里くん。

 そんな気遣いされても、私は嬉しくないんだよ。

 私のことじゃなくて、もっと自分のことを心配してよ。

 私は大丈夫、と言うために笑おうとしたけど、笑えなかった。

 頬が引きつって、出来損ないの笑顔にもならない不細工な顔が出来上がっただけだった。

 大丈夫なんかじゃない。

 全然、ちっとも、大丈夫なんかじゃない。

「私は……」

 言葉が喉につっかえる。

「私は、漣里くんが独りでいるのが悔しい……」

 呆けたような顔をする漣里くんから視線を落とし、私は泣いた。

「付き合ってることを隠したくなんてない。他の人に何を言われたって、本当に、どうだっていいの。ただ漣里くんの傍にいられたらそれでいいんだよ」

 私は泣きながら、彼の手を取り、強く握りしめた。

 手のひらに思いを伝える力があるのなら――ああ、どうか、お願いだから。

「私のことよりも自分のことを心配して。クラスで孤立してるって、全然うまくやっていけてないって、どうして正直に言ってくれなかったの。私のためを思ってくれてるのはわかる、でも、それで私が本当に喜ぶと思ってる? こんな寂しい場所で独りでいる漣里くんを見て、私がどんな気持ちになったと思う?」

 私の手の中にある、私よりも大きな手。

 漣里くんがどんなに温かい手をしているか、お兄さんの葵先輩以外、漣里くんのクラスの子も、他の子も、誰も知らない。

 それが悔しくて仕方ない。

 私は漣里くんの手を取ったまま、嗚咽して訴えた。

「お願いだからもっと自分のことを大切にしてよ。半年も他人のために泥をかぶってきたんでしょう、もういいでしょう? 本当のことを話そうよ。噂は全部嘘だ、野田くんたちを殴ったのだって理由があるって、皆に言おうよ。私はこの先ずっと聞きたくもない誹謗中傷を聞かなきゃいけないの? もう無理だよ、耐えられないよ。私は……」

 しゃくりあげて、さらに言葉を続けようとした瞬間。

 私の手から漣里くんの手が抜けた。

 そして、抱きしめられた。

「――?」

 びっくりしてしまって、言葉が止まる。

 背中に回っている漣里くんの腕、肩に置かれた手の感触に、これから言おうとしていた台詞が一瞬で消えた。

「ごめん。そんなに悩ませてたなんて気づかなくて――俺が我慢すればそれで済むと思ってた。でも勘違いだった」

 顔をあげれば、すぐそこに漣里くんの顔があって、ドキドキと胸が鳴る。

 私の体を抱く漣里くんの手に、力がこもった。

「本当にごめん」

 耳元で囁かれ、あやすように背中をさすられれば、ますます体が熱くなる。

 もういいよと一言言ってあげれば、それだけで彼が楽になるのはわかっているのに、喉の奥につかえて何も出てこない。

 私の頭の中は漣里くんの体の感触と温もり、その匂いでいっぱいで、もう何も考えられない。

 恥ずかしいのに嬉しくて、幸せで、どうにかなってしまいそう。

「だからもう泣かないでくれ。真白に泣かれるのは、一番辛い。俺が悪かったから」

「…………うん」

 私は瞼を閉じて、肩の力を抜き、彼の胸元に顔を埋めた。

 言葉とともに、小さく頷く。

 すると、彼の手が離れ、抱擁が解かれた。

 ――あ。

 勇気を出して抱き返そうと思ったところだったのに、離れてしまった。

 なんだか寂しい。

 もうちょっと、なんて思うのは我儘かな。

 まだほのかに残る温もりを意識しつつ、改めて見ると、漣里くんは叱られた子犬みたいな顔をしていた。

 私が泣いたことがよっぽどショックだったらしい。

「じゃあ、これからは学校で私のこと、無視しない?」

「ああ」

 漣里くんは一も二もなく頷いた。

「明日からお弁当は一緒に食べてくれる?」

「真白が望むことはなんでもする」

「お昼は迎えに行ってもいい?」

「ああ」

 漣里くんはこれまた即答。

 本当に私の要求は全部飲んでくれるつもりのようだ。

 あまりに彼が従順すぎて、これなら最初から嫌だと泣いとけば良かったんじゃないかな、なんて邪な考えがちらりと脳裏を横切ってしまった。

「じゃあ、私が漣里くんの彼女だって公表するね。ごめんね、事後報告になっちゃうんだけど、私、もう漣里くんのクラスの人には宣言しちゃったんだ」

 私は胸の前で両手を合わせた。

「さっき、漣里くんを探してるときに、あんた誰、関係ないだろみたいなこと言われたから。つい」

「別にいいよ。もう隠す必要なんてないんだから」

「うん」

 私はにっこり笑った。

 明日からは遠慮せず漣里くんの傍にいられるし、お昼も一緒に食べられる。

 思い描いていた理想の学生生活ができそう。

 やった、未来はバラ色だ!

 みーこだってわかってくれたし、私は関係ない人たちが何を言おうと構わないもんね――と、脳内に花畑を作り上げたところで、はっとした。

 喜ぶ前に、釘を刺しておかなければいけないことがある。

「この前は、私の悪口を言ってる人がいたら殴るなんて物騒なこと言ってたけど、駄目だよ。そんなの漣里くんの立場を悪くするだけなんだから、絶対駄目。私、暴力をふるう人は嫌い」

「わかった。何があっても手は出さないって、約束する」

 念を押すように見つめると、漣里くんは同意してくれた。

「うん。ありがとう」

 これで後は……。

「……じゃあ、最後。漣里くんが野田くんに手をあげた理由、皆に話してもいい?」

「それは……」

 ここで初めて、全ての要求をすぐに飲んでくれた漣里くんの表情に迷いが生まれた。

「少しだけ待ってくれないか。嫌だっていうわけじゃない」

 私の機嫌を損ねることを恐れてか、漣里くんは珍しく早口で言った。

「黙ってるって約束して、これまでずっと黙ってたのに、ある日いきなりばらされたら、そいつも困ると思うし。心の準備だっていると思う。もちろん、そいつが嫌だって言っても、俺は真白を優先する。ただ、先に断りだけは入れておきたいんだ」

 それだけ言って、漣里くんは顔色を窺うように私を見た。

「うん。そうだね」

 私は笑った。

 他人を気遣う漣里くんの優しさを垣間見て、それでも私を優先してくれたのが嬉しくて。

「良かった」

 漣里くんはちょっとだけほっとしたような顔をした。

「その人って、五組の林くんだよね」

 和やかな空気の中、確認してみると。

「誰、それ」

 漣里くんは首を傾げた。

「…………え? 林くんじゃなかったの?」

 てっきりそうだとばかり思いこんでいた私は、目をぱちくり。

「あのとき俺が庇ったのは、真白と同じクラスの、小金井って奴だけど」

「へ」

 私は、唖然。

 小金井って……あの、ひねくれた秀才の、小金井くん?

 頭の中に、眼鏡をくいっと持ち上げる小金井くんの顔が浮かぶ。

 …………なんですと!?

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