19:そのとき目に映ったのは

 突然、視界が滑った。

「!?」

 転んだと気づいたのは、身体の前面と、右膝をしたたかにぶつけた衝撃を受けてからだった。

 全身を打つ衝撃に息が詰まり、すぐには起き上がれない。

 巾着が手を離れ、斜め前に転がっている。

 周りの人たちが見てくるけれど、大丈夫? と聞かれたりはしなかった。気の毒そうな顔をして、それだけ。

 皆すぐに前を向いて歩いていってしまう。

 恥ずかしさと痛みと戦いつつ、のろのろと起き上がり、左足の異変に気づいた。

 転んだとき、変に捻ったのかもしれない。

 地面に打ちつけた右膝よりも、左足首が異様に痛い。

 嘘でしょう? 冗談でしょう?

 痛みによるものか、焦りによるものか、変な汗が噴き出してきた。

 こんなの気のせいだ、そう思い込んで立ち上がる。

 でも、痛みに負けてよろけてしまった。

 慌てて近くにあった電柱を掴み、縋る。

「……嘘でしょう?」

 言葉に出して呟くも、現実は変わらない。

 この足じゃ走るどころか、歩くことさえも難しい。

 それでも、行かなきゃ。漣里くんが待ってるのに。

 痛みに歯を食い縛りつつ、歩く。

「――っ」

 たった五メートルの距離しか進んでいないのに、左足が悲鳴をあげる。

 苦痛で顔が歪んで、汗が頬を滑り落ちていく。

 これじゃ、シャワーを浴びた意味がない。

 私は一体、何をしてるんだろう。

 視界がぼやける。

 ダメだ、泣くな。こうなったのは全部自分の責任だ。

 わかってるでしょう?

 そう言い聞かせても、視界が歪むのを止められない。

 だって、本当は今頃、私は綺麗に着飾って、漣里くんと出店を見ながら歩いているはずで。

 皆と同じように、のんびりとかき氷でも食べながら、お祭りを楽しんでいるはずで。

 それなのに、なんでこんなことになったんだろう?

「……ひっ、く」

 漣里くんとの約束を優先して、バイト先の電話に出なければ良かった?

 皆が大変だってわかってても?

 罪悪感に耐えられた?

 電話を無視してお祭りに行っても、本当に心から笑えてた?

 無理だ。そんなの決まってる。

 自分の性格は自分が一番よくわかってる。

 ――笑えないよ。

 助けを求める電話を無視して、私は笑えない。

 損な性格だと、自分でも思う。

 それでも、それが自分なんだから仕方ない。

 そもそも、転んだのは完全に私のミスだ。

 どうしようもないほどの致命的なミスを犯したのは自分でしょう?

 そのとき、大きな音が夜気を震わせた。辺り一帯に響き渡るような音だった。

 ここからだと建物が邪魔をして見えないけれど、花火大会が始まったらしい。

 約束の時間は過ぎた。

 見れば、私の周りにはもう誰もいなかった。空になったコーヒーのカップが道端に転がっている。

 ――ああ、もうダメだ。

 限界に達して、私はその場にしゃがみ込んだ。

 ここまで引きずって歩いてきた左足首は、赤く腫れ上がっている。

 携帯の電話が鳴った。きっと漣里くんだ。

 巾着から携帯を取り出す。

 表示されていたのは、やっぱり漣里くんの名前だった。

 応答ボタンを押して、耳に当てる。

「……もしもし、漣里くん?」

「いまどこ」

 詰問するような口調だった。怒っているのだと、すぐにわかる。

 わかっている。わかっていたんだ。だから必死で走ったのに。何もかも台無しで手遅れだ。

「……ごめん」

「謝罪はいいから、いまどこか教えて」

「……川の近くの、桃山公民館の前。ミチ喫茶店のすぐ傍にある……」

「わかった。行く」

「ううん、いいよ。あの、実はね、さっき友達と偶然会っちゃって。自分のアパートで見ないかって誘ってくれてるの。ベランダから花火が見えるんだって」

「は?」

 これ以上ないほどの不機嫌な調子で返された。

 当たり前だ。遅刻した挙句、友達と会ったからって約束をドタキャンする女なんて最悪だ。私だったら許せない。今後の付き合いすら考えるだろう。

 でも、それでいい。

 一年に一度の花火なんだから、漣里くんには楽しんでほしい。

 ここで助けを求めるのはダメだ。

 そんな我儘、許されるわけがない。

 電話の向こうからも、立て続けに花火の音がする。轟くような、大きな音。

「漣里くんはもう澪月橋にいるんでしょう? そこからなら、花火も綺麗に――」

「もういい」

 電話が切れた。

「…………」

 あまりにもあっけない幕切れだった。

 関係すら切られたかもしれない。

 連絡先を抹消されたって文句は言えない。

 それだけのことを私はしたんだから。

「……あーあ……」

 自業自得すぎて、もう笑うしかない。

 ぴくりとも頬の筋肉は動こうとしなかったけど。

 用のなくなった携帯を巾着に入れて、うずくまったまま、空を仰ぐ。

 立ち並ぶ住宅とマンションに切り取られた細い長方形の夜空には、何も見えない。

 音がするのに、何もない。ただいくつかの星が平和に瞬いているだけ。

 漣里くんは花火を見ているだろうか。

 私のせいで最悪な花火大会にしてしまった。

 こんなことなら、約束なんてするんじゃなかった。

 浴衣も、サンダルも、つけてこられなかったけど、髪飾りも。

 全部この日のために用意したのにな。

 本当に、楽しみにしてたのにな。

 どおん、とひときわ大きな音がした。

 夜空には大輪の花が咲いていることだろう。去年、家族と一緒に見たみたいに、視界いっぱいに広がる、美しい花火が。

「…………」

 泣くな、と思っても、勝手に涙が溢れてくる。

 できることなら、私も漣里くんと一緒に見たかった。

 恋人にはなれなくても、友人としてでも良かったんだ。

 傍にいられたら、それだけで。

 花火の音が全身を包む。心臓に共鳴して、芯から震える。

 ああ、さぞ綺麗だったんだろう。

 彼と一緒にその光景を見られたら、どんなに。

 本当に、幸せだったんだろうね。

「ひっ……」

 顔を覆った瞬間、本格的に涙が溢れてきた。

 ごめんなさい、漣里くん。

 ずっと待っててくれたのに。

 彼はどんな思いで待っていたんだろう。

 手を繋いで歩く恋人たちを、楽しそうに談笑している家族連れや仲良しグループを、どんな思いで見ていたんだろう。

 たった一人で。

 きっと、一時間は待っててくれたよね。

 そんなに長い間、私を待っていてくれたのに。

「うえぇ……っ」

 泣いたってどうにもならないとわかってるのに、後悔ばかりが胸を締めつけ、私を責め立てる。

 馬鹿、馬鹿。私は本当に大馬鹿だ。信じられないくらいの愚か者。

 散々迷惑をかけておいて、トドメがこれなんて、どうやって償えばいいんだろう。

 ううん、もう償うことすらできない。謝ったってきっと許してくれない。関わることすら拒絶されるかもしれない。

 たとえもし次に顔を合わせることがあっても、冷たい無表情で私を見るだけだ。これまで積み上げてきた時間はリセットされて、目さえ合わせてくれないかもしれない。

 もう二度と笑ってくれない。

 彼の傍にはいられない。

 それこそが私にとって、最大の罰だ。

 泣きじゃくっていると、花火の音に重なって、前方から近づいてくる足音が聞こえた。

 ぼろぼろの状態でも、かろうじて羞恥心は残っていた。

 巾着からハンカチを取り出して、急いで目元を拭く。

 顔を押さえ、相手が通り過ぎるのを待つ。

 でも、道端でうずくまっている私に興味を覚えたのか、相手は私の前で立ち止まった。

 嫌だな。警察官かな。心配されても困る。

 いまは誰にも話しかけられたくない。

 顔、ぐちゃぐちゃだし。髪だってぼさぼさで、浴衣も汚れてしまっている。人生でワースト3に入るような悲惨な状態。

 早くどこかに行ってほしい。

 心からそう願っていると。

「どこに友達がいるんだ?」

「…………え」

 聞こえてきた声に、私は反射的に顔を上げていた。

 仏頂面で、漣里くんが立っていた。

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