18:花火大会当日

 漣里くんと約束をしてから、待ちに待った花火大会、当日。

 夏祭りがあるためか、郊外のアミューズメントパークは午後から徐々にお客さんが減っていった。

 終業間際にもなると暇な時間も増えたため、商品を綺麗に並び替えたり、カウンター周りを掃除する余裕もできた。

 五時になって仕事が終わると、私は大急いで制服を着替えた。

 できれば今日はいつも乗っているバスの一本前のバスで帰りたい。

 ここから全速力で走ればぎりぎり間に合うか間に合わないか、そんな絶妙な時刻で出発するバスがあるのだ。

 今度こそ私が先に着いて、漣里くんを待っていたい。

 この日のために買った浴衣を着て、綺麗に着飾って、歩いてきた彼に微笑んで手を振るのだ。

 そんな夢のようなシチュエーションを実現するためにも!

「お疲れ様でしたっ!」

「うわ、深森さん早っ!? お疲れー!」

 驚愕の声を背中に受けながら、私は更衣室を飛び出し、バス停に向かって走った。

 どうか間に合いますように……!

 祈りながら走る。ひたすら走る。

 息を切らして、腕を振って、持てる力の全てを出し切る。

 その結果、私はバスに乗ることに成功した。

 つ、疲れた……。

 全速力で走ったせいで呼吸が苦しい。吐き気すらする。

 ぐったりしていると、後ろの席に座っているおばあちゃんに大丈夫かと心配された。

 それでも、バスで三十分も揺られていれば体調は完全に回復した。

 運転手さんにお礼を言って駅で降りたとき、腕時計は五時五十分を差していた。

 アパートでシャワーを浴びて、着替える時間を考慮したとしても、七時の待ち合わせには余裕で間に合う時間だ。

 アパートから澪月橋までは歩いて二十分もあれば着く。

 お祭りがあるためだろう、駅前は混雑していた。浴衣姿の女性も目立つ。もう出店が出ているらしく、片手にヨーヨーを下げていたり、綿菓子を食べている子どももいた。

 漣里くんと出店を見て回るの、楽しみだなぁ。

 たとえ友人としてでも、好きな人と一緒に回れるなんて、私は幸せ者だ。

 空を仰げば快晴。絶好の花火大会日和だ。

 これからのことを考えると、自然に頬が緩んでしまう。

 いけない、変な人だと思われる。

 人の波に乗って歩きながら、頬を揉んでいると。

 鞄の中で携帯が鳴った。

 浮かれた気分が一瞬にして吹き飛んだ。

 バイト先であるコンビニからの着信を告げるメロディだったからだ。

「…………」

 冷や汗が頬を伝う。

 出るべきか、出ないべきか。それが問題だ。

 このタイミングで鳴るってことは、絶対、ヘルプ要請だよね?

 …………。

 バイトを始めたばかりの頃、失敗を優しくフォローしてくれたオーナーの姿が脳裏に浮かぶ。仲の良い木村さんの顔、加奈子ちゃんの顔……。

 ……よし、わかった。せめて用件だけでも聞こう。

 私は覚悟を決めて、電話を取り上げた。

「もしもし、深森――」

「いま、バイト、出れない、かな……」

 案の定、疲弊しきったオーナーの声が電話口から聞こえた。

 私の台詞すら遮るということは、相当に切羽詰っているようだ。

 ……うん。そうだよね。花火大会の日だもんね。

 会場と駅の中間地点にあるコンビニだから、人も集まるよね。

 でもオーナー、それはわかってるから今日は増員して、臨戦態勢で臨むって言ってたよね?

 一体どうして私に電話がかかってくるの?

 いくら私がコンビニの近くに住んでて、夏休みだって言っても、お盆中はアミューズメントパークでバイトするって伝えたよね?

 一か八かでかけてきたの? それほど忙殺されてるっていうの?

 正直に言って、行きたくない。そんな戦場に喜んで飛び込む勇気は、私にはない。大事な約束もあるし。

「え、でも今日は、一人増やすって……」

「それが、一人どころか、二人も、来ないのよ……応援予定だった中川くんは、やっぱり、彼女と地元の、花火大会に、行きたいからって、帰省しちゃって……吉田さんは、連絡が、つかず……も、もう、真白ちゃんしか――げほごほっ」

「わかりました、行きます!」

 耳元で――正確には電話の向こうで――重篤患者のように苦しそうに咳き込まれては、折れざるを得なかった。

「ただし三十分だけです! それ以上は本当に無理ですから!」

「ありがとう真白ちゃん! 待ってるからよろしく!」

 たちまち元気を取り戻したらしく、歓喜に満ちた声が聞こえた後、電話が切れた。

 ……騙された。

 私は眉間に皺を刻みつつ、早足でコンビニへ向かった。

 三十分だけ。

 三十分だけなら、大丈夫!



 三十分はとっくに過ぎたので、もう帰ってもいいですか?――なんて、次から次へとやってくるお客さんを皆が必死でさばいている状況で言えるわけがなかった。

「お待たせ致しました、二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞー!」

 額に汗を滲ませたオーナーが、清算待ちの行列に声をかける。行列が少しだけ動いて、先頭に立っていたおじさんがレジの前に立った。

「おい、買った弁当に割り箸ついてなかったんだけど!」

 さっき木村さんが担当したお客さんが戻ってきて清算中に割り込み、カウンターに手を叩きつけた。

 怒鳴り声に、木村さんの前でお財布を持っていた若い女性がびくりと肩を震わせる。

 だ、大丈夫かな……。

 奥でカウンターフードを調理していた私は、はらはらしながらその様子を見ていた。

「申し訳ございません!」

「気をつけろよな」

「はい。大変申し訳ございませんでした」

「ふん」

 お客さんは鼻を鳴らして、木村さんが差し出した箸を奪い取るようにして去っていった。

 ……大事にならなくて良かった。ここで木村さんが対応に追われたら、本当に回らなくなってしまう。

「申し訳ございません、お待たせ致しました」

 木村さんは若い女性に謝りつつ、商品を入れたビニール袋を両手で差し出した。

「いえ……」

 若い女性は愛想笑いを浮かべ、商品を受け取って踵を返した。

「お待たせ致しました、二番目にお待ちのお客様、こちらへどうぞ」

 まだあと十人も並んでる……。

 お客さんの波は途切れるどころか、花火大会の時間が近づくにつれて、刻一刻と増えていく。

 おむすびやお弁当、サンドイッチといったメニューに加えて、飛ぶように売れているのが飲み物。そう、アイスコーヒーやフラッペだ。

 唐揚げやフランクフルトだって、私が作る傍から売れて行く。

 フライヤーでフランクフルトを揚げながら、腕時計に目を走らせる。

 六時二十分……着替える時間を考えると、ぎりぎりだ。

 もしかしたらちょっとだけ遅れるかも、と漣里くんにメールはしておいたけど、その判断は間違ってなかった。

 結局、予定外のバイトから解放されたのは六時五十分のことだった。

 いまから走っても、もう七時には間に合わない。

 オーナーや他のメンバーには本当に感謝されたし、謝られたけど、いまの私はその言葉を聞く時間すら惜しい。

 急いで服を着替え、コンビニを出て電話をかけると、漣里くんはすぐに出てくれた。

「もしもし」

「漣里くん、ごめん! いまバイト終わったんだけど、どうしても間に合わないから、待ち合わせ七時半にしてもらってもいいかな? 急いで行くから。本当にごめん」

 七時半は花火が始まる時間。

 これが最低ラインだ。何が何でも守らなきゃ。

「……わかった」

 漣里くんは一拍の間を置いてそう言った。

 声が不機嫌そうだ。

 怒ってる……その事実に、胸がずきんと痛んだ。

 電話を通じて、周囲の笑い声や話し声が聞こえてくる。澪月橋の周りには出店が並ぶから、大勢の人が集まっているのだろう。

 漣里くんはどんな気持ちで一人、そこにいるんだろう。遅れるかもしれないってメールしても、やっぱり早めに待っていてくれたんだ。漣里くんはそういう人だ。

「本当にごめんね! もうちょっとだけ待ってて!」

 罪悪感を抱えながらも、私は電話を切ってアパートに飛び込んだ。

 いくらなんでも汗と油臭い状態で漣里くんと会いたくない。

 できるだけ急いでシャワーを浴びて、浴衣を着る。

 一人で浴衣を着るのは初めてだけど、事前練習しておいたおかげで、それほど時間をかけずに着ることができた。

 ドライヤーで髪を乾かしながら、携帯を取り上げる。

 時刻は――七時十五分!?

 やばい、間に合わない!

 髪を完全に乾かす余裕もなく、私はドライヤーを放り出した。

 財布を入れた巾着に携帯を突っ込み、和風のサンダルを履いてアパートを飛び出す。

 エレベーターを待つのももどかしく、三階から階段を駆け下りて、通りをひた走る。下駄じゃなくてサンダルを選択して正解だった。普段、履き慣れない下駄じゃこんなふうには走れない。

 全速力で走れば、なんとか遅れずに済む――そんなぎりぎりの状況なのに、お祭りのせいで道は混雑していた。

 人の隙間を縫うようにしながら、早足で歩く。

 ダメだ、大通りは人が多すぎる。交差点では警察官が拡声器を持って人の波を誘導しているような状態だ。

 携帯を取り出してみれば、時刻は二十五分。あと五分しかない。

 このペースだと間に合わない。

 ただでさえ漣里くん、怒ってるのに。三十分も遅らせてもらった七時半の待ち合わせにすら遅れたら、帰っちゃうかもしれない。

 不安に突き動かされた私は、通りから細い裏道に入った。

 この細道は人がまばらだ。これなら走れる!

 浴衣の裾が乱れるのも気にせず、私は息を弾ませながら駆けた。

 全力疾走している私に皆が驚いたような顔をしている。

 でも、もうどうだっていい。

 半乾きの髪がぼさぼさになっていくのがわかるけれど、それもどうでもいいことだ。格好を気にしてる場合じゃない。

 とにかく急がないと!

 これ以上漣里くんを怒らせないためにも、早く、一刻も早く――

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