2:目覚めればそこに
ぺたっ。
「――?」
額に感じた急激な冷たさと、その衝撃で目が覚めた。
目を開くと、私は知らない和室にいた。
自分が布団の上で仰向けになり、身体に薄い毛布をかけられているのはすぐに意識した。
田舎のおばあちゃんの家のような、懐かしい畳の匂いが鼻をくすぐる。
目に映るのは木目が浮いた天井と、右手から私を覗き込んでいる美少年。
「…………?」
はて?
これは私の妄想だろうかと見つめてみても、彼は煙のように消えたりはしなかった。
私の不躾な凝視にも物怖じせず、大きな瞳でじっと見返してくる。
「起きた」
彼は驚いた様子もなく呟いた。目に見えた事実を感情を交えず、そのまま口にしているかのようだった。
長い睫毛に整った鼻梁。せっかくの美少年なのに、その眼光が刃物のように鋭く見えてしまうのは、彼が表情を表に出さないからだろう。
少なくとも、私は彼が笑っているところを見たことがない。
そう――私は彼を知っている。
三年のクラスにはお兄さんの成瀬
でも、成瀬くんは絶大な人気を誇る葵先輩――同じ名字でややこしいから、心の中でだけ名前で呼ぼう――とは違って、周りの生徒から敬遠されているらしい。
彼が入学早々、上級生を殴ったからだ。
学年が違う私の耳にさえそんな噂が届くのだから、一年生の間には浸透しきっているのだろう。学校で見かけたとき、彼は必ず一人だった。
『顔はいいけど中身は最悪』『成瀬先輩が天使なら彼は悪魔』――一部の生徒からそんな酷いことを言われている彼の隣には、水に氷を浮かべた洗面器と、お盆が置いてある。お盆の上に乗っているのは、ミネラルウォーターのペットボトルと、さかさまのガラスコップ。
彼の背後には襖があり、その上には木製の、立派な彫刻が施された欄間があった。
彼とは逆側、窓の上で稼動しているエアコンは私のためなのか、かなり設定温度を低くしていて、室内は涼しい。空気がひんやりしている。
「成瀬くん?」
乾いた喉から発せられた声は、少しだけ掠れていた。
私は額に置かれた何か――感触からして濡らしたミニタオルのようだった――を取り上げて、慌てて上半身を起こした。
手の中のミニタオルは、とても冷たい。
このミニタオル、彼が置いてくれたんだよね?
なんで彼が私を介抱してくれているんだろう?
まさかここは彼の家?
一体これはどういう状況なの?
私の混乱をよそに、成瀬くんはガラスコップを手に取った。
ミネラルウォーターを注いで、私にコップを渡してくれる。
「飲んで。とりあえず起きたら飲ませろって、しょうにいが」
彼はコップと引き換えるように、私の手からミニタオルを取って、洗面器の縁にかけた。
『しょうにい』って誰のことだろう? 葵先輩のことかな?
「……ありがとう、ございます」
戸惑いつつも、両手に持ったコップをぐいっと傾ける。
喉がからからに渇いていた私にとって、その水はまさに命の水だった。
ほとんど一気飲みに近い形で飲み干すと、彼はすかさず注いでくれた。
晩酌されている気分だ。
なんだか申し訳ないけれど、ここは素直に厚意に甘えよう。
「まだいる?」
二杯目を飲み終えた私に、成瀬くんが尋ねてきた。
「いえ、大丈夫です。本当にありがとう」
「どういたしまして」
棒読みの口調で言って、成瀬くんは私の手からコップを取り上げ、元の位置に置いた。そして再び私を見る。
鋭い視線を受けて、私は背筋を伸ばした。
成瀬くんは笑わないから、どうしても機嫌が悪そうに見えてしまう。
正直に言うと、少し怖い。
でも、それは決して、彼に関する悪評を知っているからじゃない。
ただ、彼の無表情が怖いだけだ。
「ええっと、あの……成瀬くんが私を助けてくださったんでしょうか?」
緊張のあまり、思わず謙譲語を使ってしまった。成瀬くんのほうが年下なんだけど。
「ああ。行き倒れてたのを偶然見つけたから拾った」
ひ、拾ったって。犬とか猫みたいな。
「じゃあ……ここは?」
「俺の家」
窺うような私の質問に、至極あっさりと成瀬くんは答えた。
「…………」
なんてことなんだろう。
想像はついていたとはいえ、いざはっきりそう言われると動揺してしまう。
「わ、私はいま、成瀬くんの家にお邪魔してるの?」
「だからそう言ってる」
無表情に成瀬くんが答えた。
「…………………………」
ということは、だ。
必然的に、この家には彼のお兄さんである葵先輩も住んでるんだよね?
自分がとんでもなく場違いなところにいるような気がした。
しがない一般庶民が王子様が暮らすお城に紛れ込んでしまったような、激しい違和感と焦燥感を覚える。
ひえええ! 本当になんてことなの!?
あまりのことに、内心で私は頭を抱えた。
熱中症による気絶から目覚めたら、かの有名な美形兄弟の家だなんて……夢なら覚めてほしい!
時海高校に通う多くの女子生徒が望むシチュエーションだろうけど、私には贅沢すぎます! 叶うならどなたかに譲渡して差し上げたい!
心からそう思っても、目の前には美少年がいるわけで。
……現実はどうしようもないわけで。
となれば、取るべき行動なんて一つしかない!
「ご迷惑おかけしてすみませんでしたっ」
私は素早く布団の上で正座し、膝の前に手をついて深々と頭を下げた。
「あんた結構重かった。荷物もあったし、往復した」
「そうですよねっ、本当にごめんなさい!」
もはや私の額は布団にくっつきそうだ。
夢現に見た光景を思い出す。
私を背負ってくれたのは、成瀬くんだったんだ。
思い返してみれば、おぼろげに見えたシャツの色も、聞こえてきた声も一致する。
彼の身体の感触を思い出して、頬が熱くなった。
ううん、何考えてるの、私! 彼は純粋な善意で私を助けてくれたんだから、妙に意識しちゃダメだよ……!
とは思うものの、彼氏いない暦がそのまま年齢になる私にとって、刺激が強すぎる体験になったのは確かだった。
「もういいから、顔上げて」
「は、はい」
頭の中を巡る色んな思いを苦労して打ち消しつつ、私は顔を上げた。
大丈夫かな? 顔、赤くなったりしてないよね?
「なんで俺の名前知ってるんだ? もしかして同じ高校の人?」
平坦なトーンで紡がれる声は、詰問のようにも取れる。もちろん、彼自身にそんなつもりはないんだろうけれど。
その落ち着いた声が、私に平静さを取り戻させてくれた。
「あ、はい、そうです」
自分の胸に手を当てて、自己紹介する。
「二年の
最大級の感謝を込めて、にっこり笑う。
「どういたしまして」
成瀬くんは顔を逸らし、洗面器を片手で持った。
あれ? 私、うまく笑えてなかったかな?
そう心配してしまうくらい、彼の反応は薄かった。
笑い返されるどころか、顔をそらされるというのは、少々ショックだ。
一応、どういたしまして、と応じてはくれたけど。
何かまずい対応をしてしまったかな……?
「あんたのほうが年上なんだから、敬語は要らない」
「あ、そう……だね。うん。じゃあこれからは、タメ口で」
「ああ」
戸惑っている私に構わず、成瀬くんは立ち上がった。
「これ片付けてくる。しょうにいにも、目を覚ましたって伝えてくる。俺よりしょうにいのほうが会話もしやすいだろうし。水は置いとくから、飲みたかったら自由に飲んで」
成瀬くんは洗面器を持って部屋を出て行った。すっと襖が閉まる。
「…………」
一人残された私は、ミネラルウォーターをもう一杯もらうことにした。
水が喉を潤して、なんだかほっとする。
両手でコップを持ったまま、改めて部屋を見回す。
ここは居間らしく、テレビと小さな棚が置いてあった。
多分、隣が客間なんだろうけど、そこで寝かされなかったのは、エアコンがここにあるからなのだろう。熱中症を起こしたら、風通しの良い涼しい場所で休ませるといいってテレビでも言っていたような気がする。
本当に申し訳ないな……もう体調は回復したし、せめてこれ以上はお邪魔にならないように、早く帰らせてもらおう。
腹の虫が小さく鳴った。
目覚めた早々空腹を訴えるとは、私の胃腸は元気だ。
苦笑いしてお腹をさすっていると、襖を叩く音が聞こえた。
「深森さん、入ってもいい?」
聞き覚えのある透き通った美声に、私の心臓は跳ね上がった。
成瀬くんが言っていた『しょうにい』って、やっぱり葵先輩のことだったんだ。
「ど、どうぞ」
私はコップを置いて、居住まいを正した。
「失礼するね」
すっと襖が開いて、葵先輩が部屋に入ってきた。
中性的な顔立ちに、落ち着いた茶色のフレームの眼鏡。
彼は視線が合うと私を安心させるように微笑み、それから首を傾げた。
「おはよう。体調はどう? 大丈夫?」
「は、はい、大丈夫です! この通り、全然平気です!」
私は両手を胸の近くで握り締めてみせた。
緊張のあまり声に力が入りすぎている。顔は熱を帯びて、きっと赤い。
でも、動揺を隠すことなんてできない。
だって、彼は全校生徒の憧れの的。
男の人なのに『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』なんて讃えられてるんだよ?
同じ高校生でも、私には縁のない人だと思ってたのに、まさかこんな形で言葉を交わすことになるなんて。
しかも私は布団の上。
病人でもないのに、ここにいていいのかな。失礼じゃないかな。
寝癖はついてないかな? 服は乱れてない?
自分の格好が不安で仕方ない。
「そう、良かった。漣里が君を運んできたときはびっくりしたよ。荷物も預かってるから安心してね」
私の全ての心配を消すように、葵先輩は優しく微笑んだ。
なんて素敵な笑顔なんだろう。
私だけに向けられたその笑顔に、おかしな脈が生まれた。
彼は『格好良い』というより『綺麗』。髪を伸ばして、適当に胸を詰めて女装すれば、美しい女性として通用する。それも抜群の美女だ。それはもう、間違いない。
成績は常に学年上位で、生徒会書記も務めていた。
彼が歩けば女子が群がり、バレンタインデーでは彼あてのチョコレートが山と築かれる。
学校で一番美しい人――多くの生徒たちが羨望と崇拝とともに囁く言葉は、決して過大評価じゃない。彼にはそれだけの気品と華がある。
彼ほど美しく、かつ人気者なら嫉妬に駆られた一部の生徒が悪評を立てそうなものだけれど、悪い噂は聞いたことがない。
その事実が彼の人間性を証明していた。
「ありがとうございます。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
成績の面においても、容姿の面においても、彼に勝る要素など何一つ持たない私は、ただ平伏するしかない。
王子様に庶民が謁見するときの気持ちって、多分、こんな感じなんだろうな。シンデレラはよく堂々と皆の前で王子様と踊れたな……彼女は凄い幸運と度胸の持ち主だ。
「そんな、僕は何もしてないよ。お礼の言葉なら漣里に言って」
葵先輩は慌てたように片手を振った。
「あ、はい。すみません」
「謝らないでよ。謝るところじゃないでしょう」
葵先輩はおかしそうに笑った。馬鹿にするわけじゃない、柔らかな笑顔。
え、笑顔が眩しすぎて直視できない……。
いけない、このままでは呑まれてしまう! 何か話題を!
「あ、あの、成瀬くんが先輩のことを『しょうにい』って呼んでましたが、お名前は葵さんですよね? どうして『しょうにい』なんですか?」
私はどうにか平静を装って尋ねた。
「ああ、あれは小さい兄っていう意味で小兄って呼んでるんだよ。僕には二つ上の兄がいるんだ。響っていうんだけど」
「えっ、お兄さんが?」
驚いた直後、ふと思い出した。
そういえば、友達からそんな話を聞いたことがあるような。
いまのいままですっかり忘れていた。
「二つ上ということは、大学生ですか? それとも社会人?」
「大学生だよ。五日で前期のテストが終わるって言ってたから、一週間もしたら帰ってくるんじゃないかな」
「大学生のお兄さん……」
美形兄弟に、さらに大学生のお兄さんがおられるとは。
どんな人だろう?
葵先輩みたいに、気品のある綺麗な人なのかな?
それとも、成瀬くんみたいにクールで格好良い人なのかな?
どちらにせよ、頭に超がつくほどのイケメンなんだろうなぁ……。
「あー……いや、多分、想像よりもだいぶアレな感じの人だと思う」
葵先輩は珍しく、言葉を濁した。
「?」
アレってなんだろう?
「いや、気にしないで」
私が首を傾げると、葵先輩はかぶりを振った。お兄さんの話題はこれでおしまいにしたいらしい。
「漣里は兄さんのことを『ひー兄』って呼んでるんだ。名前が響だから『ひー兄』。僕のことも名前で呼ぼうとしたんだけど、『アーニー』だと外国人の名前みたいじゃない? かといって『あおにい』も微妙に呼びにくいし、聞きようによっては青い兄さんの略称として、馬鹿にしたようにも取れるでしょう?」
「なるほど。確かに、青いっていう言葉は未熟なものとして使われますよね。青二才とか言いますし、あまりいい印象じゃないかも」
葵先輩の説明に、私は顎に手を当てて頷いた。
「だから、一番上の兄さんを『大兄』、真ん中の僕を『小兄』ってことにして、そう呼んでる」
「なるほど。そういうことだったんですね」
私は納得した。
「深森さんは一人っ子?」
「はい。そうで……」
ぐーきゅるるる……
私の台詞を遮るように、お腹が盛大に鳴った。
葵先輩がきょとんとした顔で私を見る。
「……………………っ」
穴があったら入りたいとは、まさにこのこと。
な、なんでこのタイミングでお腹が鳴るのっ……!?
床に突っ伏して悶絶したいところだけど、葵先輩がいる以上、そんなことはできない。私にできることはただ、俯いて、真っ赤になった顔を隠すことだけ。
恥ずかしくて泣きそうだった。
私は恐らく、葵先輩の前で初めてお腹を鳴らした女子だろう。
男性の前でこんな醜態、信じられない。
しかも相手は学校の王子様……!
膝の上で手を組み、審判のときを待つ。
いいんだ、笑われても傷つかない。
覚悟はできた。どんな反応をされても、泣かないよ、うん。
「お昼まだ食べてないんだ?」
「は、はい」
嘲笑も侮蔑もない、ごく普通の――どちらかといえば真面目な声の問いかけに、私は拍子抜けしつつも頷いた。
こんな盛大なお腹の音を聞いてくすりとも笑わないなんて、大人な対応だ。私はまだまだ葵先輩のことをわかっていなかったらしい。
葵先輩は、悪意を持って人を馬鹿にするような人じゃないんだ。
「良かったら一緒にご飯食べない?」
「いえいえそんな!」
穏やかな声での提案に、私は顔を跳ね上げた。
これ以上、成瀬家の方々に迷惑をかけるわけにはいかない!
「さすがにそこまでお世話になるわけにはいきません!! 本当に気にしないでください!!」
激しく左右に両手を振る。ついでに頭も。
「実はそうめんを買いすぎちゃったんだよね。食べてくれると嬉しいんだけど」
「…………」
私は動きを止めた。
固まっている私を見て、葵先輩は微笑んでいる。
「ね?」
彼は小鳥みたいに首を傾げた。
これまでのように、先輩と後輩として、どこか他人行儀な一線を引いた言い方じゃない。
まるで友人に問いかけるような、砕けた言い方だった。
ああ、きっと彼のこういうところに多くの人が惹かれるんだ。
優しくて、穏やかで、度量が広い。
彼の魅力は見た目の美しさだけじゃない。
中身も、全てが素敵なんだ。
「……頂きます……」
私はリンゴのように赤面したまま、か細い声で答えたのだった。
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